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施設職員の現在 田中利則さんインタビュー 第2回 利用者から学びながら

2017年09月22日(金)

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設職員の現在 田中利則さんインタビュー
第2回 利用者から学びながら

施設で働くことになったきっかけ
▼何でもオープンに語り合える人間関係を
第1回 第2回 第3回

 


Webライターの木下です。

施設で働くことになったきっかけ


木下
:相模原の事件があってから、何人かの障害者施設の施設長と話をしましたら、最近は職員の募集をかけてもほとんど反応がない。あの事件があって、ますます応募が少なくなるのではないかと嘆いておられました。福祉大学の学生の応募もほとんどないそうです。

田中:私の施設時代の同僚の中にも、福祉系の大学の教員をやっている人間がいますけど、障害者施設で働きたいという学生は少ないと言っています。
 大学の学部で教育を受ける以前の問題として、いまの若い人は障害のある子どもと接する機会が少ないです。核家族になって、隣近所との交流もないし、自分の家族に障害者がいなければ、まずそういう子どもと付き合うことはない。この仕事をおもしろいと思ってのめり込むには、前提としてそういう体験や動機が必要かもしれません。小中学校では、総合的学習の時間に保育所体験なんてあるけれど、障害者施設の体験なんてほとんどないですからね。そういうことをもっとやると違ってくると思います。

木下:田中さんご自身は、もともとどうして知的障害者施設で働くようになられたのですか。

田中:卒業当時、仕事がなかったということもありますけど、子どもの頃から近所の障害のある子どもと一緒に遊んだり、ご家族の苦労を見たりしながら育ったというのがありますね。知的障害のある子どもを連れて、魚釣りや海水浴に行っていました。考えれば、昔の親は度胸ありますよ。小学校6年生に、知的障害のある子どもを任せて平気だったのですから。遊びに連れて行って、ご飯食べさせて帰るのですけど、よく事故が起きなかったものだと思います。
 夏休みの小学校のプールにも一緒に入りに行きました。「ぼくたちが見てるから大丈夫」と先生に言うと、先生も許してくれて、おおらかな時代でした。うちの父親が亡くなったときに、その障害のある子が最初にお焼香にきてくれました。うちの父親にかわいがられていましたから、その子にとって、うちの父親は特別な存在だったのかもしれません。
 そういう子ども時代の体験があって、企業で働くのもいいけど、なんかいい景気でもなかったし、この世界にかけてみようかなと思ったのです。人がやっていないところにかえってチャンスがあるような気もしました。大学の学部は法学部で、労働法や社会保障関係の法律も勉強していましたから、まったく無縁な世界ではなかったのですが、就職したら、麻薬のように、この仕事の魅力にはまっちゃいましたね。

木下:施設の専門的な仕事はどなたに教わったのですか。

田中:施設職員の先輩たちから教わりました。例えば、整体師になるには、有名な先生の弟子になって、テクニックやノウハウを学ぶでしょう。私が現場で受けた教育もそういう弟子としての教育だったと思います。
 あとは、利用者さんに教えられましたね。重度棟の利用者で、親も就職なんて絶対無理だと思っていた人が30歳で就職したときに、親が驚いて、その子との付き合い方がかわっていきました。その両親は、子どもからお年玉をもらうようになったのです。でも、もったいないから使わずに仏壇に飾ってあると言ってましたよ。彼らはすごい可能性をもっている。IQだけが問題じゃないのです。そういう体験からいろいろなことを学べます。まず、成功体験があると、この子もできるかもしれないと思えるのです。そして、成功体験は親や後輩に伝えることができる。それがとても大切です。成功体験は大学では学べない貴重な財産です。
 いまの施設の中には、そういう教えたり、教えられたりという人間関係の余裕がなくなっているのが残念です。


何でもオープンに語り合える人間関係を


木下
:施設職員の話になると、メンタルヘルスのことがよく話題になりますが、田中さんは精神的に追い込まれたことはないのですか。

田中利則さん.JPG田中:管理職になったときは辛かったですね。管理職は職員を通して仕事をしなければならないでしょう。自分のがんばりだけでは、どうにもならない。自分がいくら理想をもっていても、職員がやってくれないとダメ。そのときは追い込まれましたね。燃え尽き症候群で、富士山まで車で行ったことが幾度かありますよ。
 ストレスに耐えきれなくなったら休息を取ることです。利用者の中には、職員を挑発するためにひっぱたいたり、殴ったりしてくるような人もいます。能力が高い利用者は他にもいろいろなことをやってきます。ある若い職員が、「課長、オレ耐えられない!」と言うから、「今日は帰った方がいいよ」と言って、そのときは自宅に帰して、1週間休ませました。でも、それも職員が足りているからできるわけで、ぎりぎりでやっていると休ませることもできません。

木下:職員間の人間関係でもめることも多いですか。

田中:あります、あります。大体、ストレスがたまると、人の悪口が出やすくなってくるでしょう。職員が生活に追われていたり、収益を上げることばかりを上から言われると、どうしても気持ちが荒れてきます。利用者は大変ですよ。そのもめている様子を日常的に見させられるわけだから。そして、下手すると、職員同士のケンカに留まらずに、利用者の虐待につながったりもします。「こんな大人しそうな顔した人が利用者の手を捻っていたなんて」と、驚くことありますからね。気持ちのコントロールをうまくやらないと。
 結局、ゆとりだと思うのです。気持ちにゆとりがあれば、ボランティアで他の職員を助けてあげるのも苦になりませんけど、自分にゆとりがないと負担にしか感じなくなります。職員同士で支え合う気持ちがなくなってくると、さらに不満がどんどん蓄積していきます。
 管理職も経営にゆとりがあれば、現場を支えてくれるようになります。私が昔いた施設では、手が足りないと施設長や指導部長が率先して手を貸してくれました。「悪いですけど、夜まで手伝っていただけますか」というと、「そうか」と言って、薪割りなどを手伝ってくれました。これは、とても大きいです。管理職と現場が精神的に近いというのは、施設のメンタル環境をとてもよくします。
 よくないのは、施設の中で起きたトラブルを隠すようになることですね。ひとつ隠すと、何でも隠すようになる。職員同士が何も本音を話そうとしなくなる。とても不健康な空間になります。オープンに何でも語り合える雰囲気をつくるのが大切だと思います。




木下 真

コメント

知的障害者や精神障害の方のケアをしていました。
私も燃え尽き症候群になり、福祉職を離れました。
大学で福祉も学び障害者ケアに対しても情熱はあったのですが、理想と現場の現実に悩み、これ以上この溝が埋まらないことが分かったときに福祉職を離れる決意をしました。
職員同士が障害者に対して同じ熱意と考え方の方向が一致していない限り、いい支援は難しいのかと思います。
今も障害者のことは好きですし、いろんな人生経験を経てまた福祉職に戻りたいと思ったときには復帰を考えています。

投稿:ウェルフェア 2017年09月23日(土曜日) 10時18分