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相模原障害者施設殺傷事件 第4回 竹内章郎さんインタビュー

2016年09月01日(木)


Webライターの木下です。
岐阜大学地域科学部教授の竹内章郎さんの専門は、社会哲学・生命倫理・障害者論です。『「弱者」の哲学』『いのちの平等論』などの著作があり、現代社会の差別や排除の構造について哲学的な考察を行っています。今回の事件によってにわかに取り上げられることが多くなった「優生思想」について、専門家としての見解をおうかがいしました。竹内さんは、ダウン症の娘さんの父親であり、岐阜県内で共同作業所やグループホームを運営する社会福祉法人「いぶき福祉会」の設立にもかかわってこられました。


社会に根深く存在する優生思想


木下:今回の事件をどんな形で知って、何を感じられましたか。

20160823_4_001.JPG竹内:事件は、早朝のテレビニュースで見ました。最初は2001年に大阪教育大学附属池田小学校で起きたような突発的な事件かなと思いましたが、衆議院議長宛の手紙に関する報道を見て、社会の底流にある優生思想を表面化させる、「いまの時代に起こるべくして、起こった事件」だと直感しました。その後の報道で、措置入院や大麻使用の問題が取り上げられて、異常者の犯罪であるかのように報じられ方が変わっていきましたが、あれだけはっきりと優生思想的な考えを手紙に書いているし、重度の障害者だけを狙ったということからも、彼の思想をきちんと問題にすべきだと思います。素朴な差別意識による思い付きのようにも見えますが、思い付きというのは、社会の底流にあるものが形をなした”と考えるべきだと思っています。

木下:容疑者は犯行の際に「ヒットラーが降りてきた」という表現を使ったとされていますが、ナチスの優生思想の影響があると思われますか。

竹内:優生思想というのは、何もナチスによる障害者の殺害だけをさすのでなく、古代ギリシャのプラトンも「身体面での不健全な人は死ぬに任せるべき」と記すほど、歴史的に古いもので、さらに私たちの日常のもののとらえ方にも表れる根深いものです。優生思想をナチスのものだとしてしまうと、意味が限定されすぎます。
 例えば、高度成長期の1970年代にはじまる障害者を施設入所させる隔離主義はいまもその影響は続いています。本人が望みもしないのに施設に入れてしまうこともあります。その施設のケアが貧困であれば、それだって優生思想の反映と言えなくもない。もちろん殺人と隔離収容の間には相当距離はありますけど、そのようなことも地続きのものとして見ていなかなければ、優生思想をとらえそこなうと思います。
 他にも、障害のある子どもを普通学校に通わせたいと保護者が願い、本人が望んでも、教師が特別支援学校に通わせるのが本人のためだと強く主張することもあります。また、私も実際に経験しましたが、障害者施設の建設に対して、地域の健全な秩序が乱れるとして反対運動をする住民もいます。これらも優生思想だと言えます。

木下:たんなる障害者差別と優生思想とは何が違うのでしょうか。

竹内:優生思想と言うのは、健康なり健全なりの称揚といった「善」を推し進めることを通じて、その裏面として障害者の排除といった「悪」を同時に進めるものです。社会を健全なものにするという名目で弱者を排除するところが、悪意だけが原因となる障害者差別よりも複雑で、わかりにくいものとなります。そして、私たちが通常求める「善」と表裏一体になっているために、障害者差別が人々の日常に見えない形で入り込みやすいのです。
 優生思想の説明として、ヒットラーやナチスをもってくれば、障害者やユダヤ人の大虐殺が思い浮かんで「悪」と直結しやすいのですが、「善」と「悪」とのつながりを見失わせる結果となるので、注意が必要です。
 「地獄への道は善意で敷きつめられている」ということわざがありますが、優生思想にはこのことわざを地でいく側面があります。例えば、「ベヴァレッジ報告」(1942年)に名を残す社会保障制度の研究者であるウィリアム・ベヴァレッジは、「ゆりかごから墓場まで」と言われる、当時としては世界最先端の社会保障制度の生みの親ですが、その一方で「最低収入に値しない欠陥ある人間の隔離収容と彼らからの自由や生殖の権利のはく奪」を力説しています。社会保障の考えと優生思想がまったく矛盾なく、両立しているのです。

木下:今回の植松容疑者も、「障害者を殺すことは不幸を最大(限)まで抑えることができます」と衆議院議長宛の手紙の中で書いています。障害者が憎くて殺すのではなく、幸せな社会を実現するために障害者を殺すと考えていますね。

 

優生思想を支える能力主義


竹内
: 植松容疑者は、入所者の中でも、とくに重度の障害者を選んで殺害しています。健常者である職員や軽度の障害者には手を下さず、コミュニケ―ションが難しい重度の障害者だけを選んでいます。優生思想を支えているのは、健常者と障害者との間を分け隔てるだけではなく、障害者の中でも軽度のものと重度のものとを分断する、そのような能力主義です。「劣っているか、優れているか」といった、普通は個人のもの、個人の所有物と考えられている能力によって人を峻別するものの見方は、「役に立つか、立たないか」「存在価値があるか、ないか」といったものの見方へと転換していきます。
 いわゆるフランスの人権宣言は、「能力以外の何らの差別もなく」という趣旨のことを言い、論理的には性や人種、さらに言えば生まれで人を差別してはならないと主張していることになりますが、能力によって人を差別してはならないとは一言も書いていません。近代国家では、能力に応じて社会的地位を得ることは正しいこととされていますから、能力の劣ったものが価値の低いものとして扱われるのを容認しているところがあります。その差別構造の底辺にいるとみなされているのが意思表示も難しい重度の障害者だったり、認知症患者だったりします。私たちが優生思想から自由になるには、人間を能力によって差別することの問題点について、もっと深くもっと真剣に考えていかなければならないと、私は思っています。

木下:教育現場もそうですし、ビジネス現場もそうですが、能力評価を差別と関連づける考え方はなかなか受け入れられないのではないでしょうか。

竹内:もちろん能力に応じる処遇というのは、身分や家柄などの既得権益に縛られずに、人々に平等に機会を与えるという意味で、民主主義社会の構成要素として望ましい側面をもっています。だからこそ、能力評価が差別を生むとは気づかない場合が多いし、他の差別に比べて、問題視されることが少ないのだと思います。
 しかし、生産能力がないとみなされる人間を差別したり、排除したりする現実がある以上、私たちは能力のとらえ方を変えていくべきだと思います。能力を、人を垂直に並べて優劣をつけるためのものとしてではなく、“共同性の中で育まれる共有の価値”としてとらえるべきではないでしょうか。能力の低い人間を見下すのではなく、能力自体をその発揮を含めて、まずは共同的なものとしてとらえ、その能力を育む努力をし、その獲得された能力をみんなで大切なものと考えるべきです。
 今回の容疑者もそうですが、重度の障害者のことを、ただ生物的に生きているだけだと言いますが、むきだしの生物学的な生などあるわけがない。人間は他者が関わり、文化的な支えがなければ生きることさえできない生き物なのです。赤ん坊を見ればわかる通り、生きる力という能力さえも、他者との関わりや共同性がなければ育まれようがありません。


障害者を真に受容する新しいヒューマニズム


20160823_4_002.JPG木下:「障害者を差別してはならない」という価値観は共有されてきていると思いますが、差別する気持ちがなくても、社会の価値観により無意識のうちに障害者が排除されるということでしょうか。

竹内:よく命の大切さや障害者に対する共感と言いますが、私はあえてそういう言葉は使わないことにしています。共感や優しさはとても大切なことではありますが、感情に流されかねない次元のもっと手前で、優生思想や能力主義の克服を考えたいのです。それに、能力主義や効率主義を放置しながら、他方で「障害者から人間らしさや優しさを学ぶ」というような口当たりのいいヒューマニズムを唱えても、社会や文化は一続きである以上、肝心なところでは無力であるにとどまらず、欺瞞的であるとさえ思います。それは能力主義の隠れ蓑に使われるだけで、社会の価値観とは別のところに障害者を追いやるだけですから
 障害のあるなしにかかわらず、同じ価値観の中で、障害者を受け入れていける新しいヒューマニズムを作っていかなければならないと思っています。重度の障害者を排除することで成り立つ優生思想的なヒューマニズムではなく、“障害者を真に受容する新しいヒューマニズム”です。それによって私たちの社会はもっと暮らしやすく、豊かなものに変わっていくのではないでしょうか。

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木下 真

 

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コメント

インタビュー全て興味深く読ませていただきました。簡単には答えが出ないこの問題、深く考えることの大切さをあらためて感じました。障害のある子供を持つ私にとっては差別は切実な問題です。子供が大きくなっても安心して生活していける世の中になるために、家族を始め、友人などともそういう難しい会話を持たなくてはいけないな、と感じました。ありがとうございました。

投稿:はっぴーママ 2016年09月03日(土曜日) 22時40分