初日から600人以上が避難していた中学校の体育館の避難所。釘子明さんは、避難所の人々がお互いに助け合うことで危機を乗り切ったと話します。

(取材・放送の内容を元にしたテキスト)

釘子明さんは、市内の病院の駐車場で地震に襲われ、母親のいる自宅へ向かいます。

母親を車に乗せ、海から2キロ離れた大石公民館に避難しました。

公民館の前には100人ほどが避難していました。

中学校へ続く坂道を駆け上がります。津波から逃げながら釘子さんたちが見た光景は。

「いろんな家がごろごろと 波と黒いものとガレキの山ですね。それが押し寄せてくる」

坂道を登り切り、なんとか中学校にたどり着きました。

やっとここに来てほっとした感じ/中学生の生徒さんがグラウンドに300人ちょっと/他に大石の人(一緒に逃げた人)あがっていたし、一般の人も来て、あの当時で600人以上いた」「ほとんど壊滅状態じゃないですか/なんとかしないといけないし生きていかなくちゃいけない。助かっている人もこれだけいることを知らせないといけない」

釘子さんたちは、力を合わせて危機を乗りきろうと決意します。

陣頭で指揮をとっていた釘子さんの姿が当時の映像に映っています。

多くの人が離ればなれになった家族や知人を探していました。

釘子さんたちは、手分けして避難者の名簿を作り、貼りだしました。

役割を分担して避難所を運営しましたが、水も食料も不足していました。

「ひとりはみんなのために。みんなはひとりのために”を合い言葉にみんなが動きはじめた。避難している人間も自分たちで頑張らないといけない。何が出来るかと色んなことをはじめた」

釘子さんは、苦しい時こそ助け合いの精神が大切だと実感したといいます。

「人のためになることはみんなしようということで、意外とまとまりができた。助け合い絆っていうことで/本当の意味での仲間意識が出来たと思うんです」