徳島の鉄道 蒸気機関車からDMVまで歴史を映像で振り返る
- 2023年12月06日
NHK徳島放送局はことし開局90年。これまでNHKが記録してきた貴重な映像で県内各地の歩みを振り返りながら「徳島の未来」を見つめます。徳島の「鉄道」の歩みです。
1日に4万2千人以上が利用する徳島の鉄道。徳島線や牟岐線、鳴門線など6つの路線が県内を結んでいます。
徳島に鉄道ができたのは明治32年。徳島と鴨島を結ぶ徳島鉄道という私鉄から始まりました。
線路には蒸気機関車が走っていました。明治40年から国が県内各地の民間の鉄道を買収し、国鉄として営業を開始します。大正3年には、徳島本線が阿波池田駅まで開通しました。
昭和10年には高徳本線、現在の高徳線が全線開通。吉野川にかかる鉄道橋や大坂峠のトンネルを通り徳島から高松まで2時間半で行くことができるようになりました。
蒸気機関車から最新の車両まで、徳島の鉄道を見続けてきた人がいます。 井上武さん73歳です。
こちらは井上さんが撮影した蒸気機関車の写真。高校生の頃から撮影した数は50万枚以上に上ります。
「周りの風景や建物と車両を入れて撮るのが好き。現状の鉄道風景を残すために写真を撮っている」
徳島には主に2つの形式の機関車が走っていました。 そのうちの一つが86と呼ばれた機関車です。 大正時代に作られ、主に徳島線や牟岐線に使われていました。 大きすぎず小さすぎない形は中距離輸送の徳島の鉄道に適していました。
もう一つがC58です。86よりも力が強く峠越えのある高徳線に主に使われていました。
井上さんはかつて徳島を走っていた蒸気機関車に何度も乗っていました。
「蒸気機関車が煙を吐いたら、石炭殻が浮遊して目の中に自然と入るんですよ。かゆいからかいたら余計に痛くなって、目が真っ赤になったこともありましたね」
昭和45年に蒸気機関車の時代は終わりを告げ、石油を使って走るディーゼル車に置き換わっていきました。時代と共に車の利用者が増えると、一日あたり9万2千人が利用した昭和42年をピークに乗客は減り始め、利用の少ない路線の減便や廃線も相次ぎました。
昭和47年、赤字が続いていた板野と鍛冶屋原駅を結ぶ鍛冶屋原線が廃線。 線路の跡は県道として利用されています。
海部駅から高知県の野根を開通する予定で工事が進んでいた牟岐線。一部の線路は作られたものの昭和55年、海部駅より先の工事が中断されました。
全長わずか1900メートルと国鉄が営業する線区としては日本一短い路線としてしられた、小松島線。
関西と四国を結ぶ小松島港につながり、四国の玄関口として高知行きの特急列車が運行された時代もありましたが、昭和60年に廃線となりました。
昭和62年4月1日、赤字が続く国鉄は再建を目指し民営化されJR四国が発足しました。
しかし、人口減少や移動手段の多様化などを背景に赤字が続きました。
鉄道の利用者を増やすために、新たな価値をつける取り組みも行われています。移動の時間を楽しむことを目的にした観光列車の運行です。平成29年に徳島と香川を走る「四国まんなか千年ものがたり」という列車が運行を開始。美しい景色を楽しみながら観光や食事ができるサービスを行っています。
令和2年からは「藍よしのがわトロッコ列車」が運行。徳島の文化や沿線の歴史を風で感じながら、地元の食材を使った駅弁が楽しめます。観光という切り口で鉄道の関係人口を増やすことで新たな利用者を開拓しています。
令和3年。阿佐海岸鉄道は線路と道路を走ることができる世界初の乗り物DMV、デュアルモードビークルの運行を始めました。
国鉄時代に計画が中止となっていた牟岐線の海部駅と高知県の甲浦駅とを結ぶ路線です。
DMVは地域活性化の取り組みとして注目され、全国から視察も相次いでいます。11月の中頃には長野県軽井沢町の役場の担当者が視察に訪れていました。
「来年から町の交通計画を立てていく予定で、中長期的に考えてDMVを導入できたらということで視察に来ました。新しい観光の魅力というところでは期待できると思います」
「DMVの車両としての可能性を生かした、その土地、土地での活用方法というのはまだまだ検討いただける余地があると思っています。DMVが観光資源となって新しい人の流れを作って広げていきたい」
徳島の鉄道の歩みを記録し続けてきた井上さんは、鉄道の開業当時から残る駅舎の名残や鉄橋に観光資源として価値を感じています。
「大正2年当時のレンガ造りの橋脚は全国的にも非常に珍しい。徳島駅には徳島鉄道のホームの跡が残っていて非常に貴重。これをもっと宣伝せんといかん、駅に魅力を作って人が寄ってくるように仕向けて行かんと」
列車の姿や車窓からの景色は変わっても暮らしに密着し、旅情を感じさせる魅力は変わりません。これまで刻んできた歴史を乗せ、今日も走りつづけています。