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徳島の空港と飛行機の歴史 貴重な映像でその歩みを振り返る

  • 2023年11月06日

徳島放送局が開局して今年で90年。徳島局に保管されている映像資料と共に、地域の歩みを振り返りながら、徳島の未来を見つめます。今回は松茂町の徳島空港についてお伝えします。

 松茂町にある徳島空港。年間100万人近くが空の玄関口として利用しています。今から60年以上前、旅客機が離着陸していた場所はこの滑走路ではありませんでした。

松茂町 徳島空港

滑走路の代わりにしていたのは吉野川です。水上飛行機が川の上を走り、徳島市内から大阪の堺市へと飛び立っていました。吉野川は滑走路代わりになるほど水量が一定していました。

水上飛行機

この水上飛行機を実際に見たことがある人がいます。旅行会社で営業などの仕事をしていた坂東和明(ばんどう・かずあき)さんです。こどもの頃、水上飛行機を見て空への憧れを強くしたといいます。

坂東和明さん

坂東和明さん
「飛行機を見る前に音がするでしょ、音がしたらここまで走ってきましたよ、小さい自転車に乗って」

自動車もまだ普及していない時代。多くの人が海を渡る手段は、船だけでした。

そんななか、昭和32年に登場したのが水上飛行機だったのです。
しかし、初年度、実際に乗ったのは1308人。
水上飛行機に憧れながらも、積極的に乗る人は少なかったようです

坂東和明さん

坂東和明さん
「多くの人が飛行機という理解をしてなかった。戦後まだ10年やから、そんな危ないもん乗ったらいかん。今で言うたら月行くような感じや」

その後、滑走路は川から陸へと移ることになります。松茂町にある海上自衛隊の航空基地です。

海上自衛隊徳島航空基地

昭和37年、それまで自衛隊が使っていた滑走路に民間機の離着陸ができるようになったのです。翌年には運行便数も増え、乗客数は年間3万人以上。わずか6年間で24倍も増えたのです。

飛行機への理解が進んでいくなか、昭和40年、注目を集める機体が登場しました。
YS-11という飛行機です。戦後初の国産旅客機で、「日本の技術の粋(すい)を集めた」と称された飛行機です。その旅客機としての国内初の運行が、徳島と東京を結ぶ定期便でした。YS-11が就航したこの年。乗客数は倍近くに増えました。

YS-11

注目を集めたYS-11に、坂東さんは、東京の大学を受験するために乗ったといいます。

坂東和明さん

坂東和明さん 
「受験の心配より、飛行機に乗れる方が楽しかった。機内食とかジュースとか、いまの海外旅行以上に新鮮だったかもわからん」。

飛行機への注目度が高まっていく中、昭和42年、徳島空港が開港。大阪と東京だけでなく、鹿児島にも運行が始まりました。

昭和42年 徳島空港

飛行機が、特別な人たちだけのものではなくなった昭和50年代。年間搭乗率は、9割を超えていました。そのため、飛行機に乗れないことへの悩みが増え続けていました。乗客の平均利用率は90%以上と全国でも有数の満席の路線でした。

乗れないことの要因は、短い滑走路にありました。多くの乗客を運べるジェット機が就航するには2000メートル以上が必要でした。しかし、当時の長さは1500メートル。そのため、ジェット機の就航が難しかったのです

増え続ける乗客の姿を目の当たりにしてきのが、旅行会社に勤めていた松島敏雄(まつしま・としお)さんです。

松島敏雄さん

松島敏雄さん
「朝、航空券の売り出しの日に人が並んでおった、今では考えられないくらいの感覚でしたね。航空券の注文があったら、即やらなかったらとれなかった」

昭和56年。ジェット機が離着陸できるよう、滑走路延長の工事が始まりました。その2年後、増え続ける乗客に対応するため、ジェット機の運行が暫定的に始まりました。

ジェット機の就航により、客席の数は、これまでのYS-11の2倍以上に増え、旅行やビジネスなど、県外との交流が盛んになっていきます。

松島敏雄さん

松島敏雄さん
「とにかく徳島の方っていうのは、未来志向が非常に鋭いんですね、県外での商売なんか怖くない。運賃よりもとにかく利便性を時間をなんとかしたいという人たちが多くいたように思った」。

飛行機と空港が拡大を続けた一方、陸路も大きく変化していきました。平成10年、明石海峡大橋が開通。関西への移動や輸送は、自動車が担うようになっていきました。

明石海峡大橋

戦後、水上飛行機が就航して以来続いた、徳島―大阪の空の便は、平成14年、45年の歴史に幕を下ろしたのです。

乗れない時代から、選ばれる時代へ。
平成22年。大型機の就航ができるよう、滑走路はさらに延長されました。空港ビルもリニューアルされ名前も今の「徳島阿波おどり空港」となりました。

海を渡る手段として、今ではずいぶん身近な移動手段となった飛行機。遠く海を超えた海外からの観光旅行者を受け入れる手段としての役割も増えるようになりました。今年の春には、台湾とのチャーター便が運行を再開。9割近い搭乗率となり、今後のインバウンドの増加が期待されています。

吉野川を滑走路にした時代から、インバウンドの時代まで。海を越える手段として、飛行機は人びとを運び続けています。


 

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