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甲子園で3回優勝 徳島・池田高校蔦監督「人生は敗者復活戦」

蔦文也監督が生まれて100年
  • 2023年08月30日

徳島・池田高校の蔦文也監督が生まれてことしで100年。 蔦さんの残したことばは、亡くなって22年たった今も多くの人の心に残っています。 ことしの夏の甲子園で準優勝した宮城・仙台育英の監督から聞かれたことばも蔦さんがよく言っていたことばでした。

「攻めだるま」と呼ばれた名将

蔦文也監督

徳島県三好市にある池田高校野球部を率いた蔦文也監督は、1923年8月28日に生まれました。40年間に渡って池田高校を指揮し、甲子園では、昭和57年の夏の甲子園と昭和58年の春のセンバツで夏春連覇を達成するなど、優勝3回、準優勝2回の実績を残し、「やまびこ打線」と呼ばれる豪快な野球で「阿波の攻めだるま」と恐れられました。22年前に亡くなりましたが、今でも高校野球を代表する名将として名前が挙がります。

「人生は敗者復活戦」

 ことしの夏の甲子園では、決勝で敗れた宮城・仙台育英の須江監督が、「人生は敗者復活戦だ」と生徒を勇気づけたことが話題になりました。実はこのことば、蔦監督がよく言っていたことばとして知られています。

 当時の蔦監督や、池田高校野球部をよく知るのが、川原良正さん(75)です。蔦監督の下で、昭和57年から6年間にわたりコーチを務め、甲子園の夏春連覇の偉業など池田高校の快進撃を支えました。川原さんは豪快なイメージとは裏腹に、研究熱心な姿が印象に残っていると話します。

川原良正さん

「ひと言で言えば、野球好きのおじさん。ほんまに野球好き。それと研究熱心です。チラシの裏の白紙があるじゃないですか。その裏にびっしりメモを書いて、それを練習のときに持ってくる。試合の日はそれを見てオーダーを決める。甲子園では、監督の部屋ってあるんですよ。先生は食事が終わったらその部屋から出てきません。ずっと多分、考えとったんだろうと思います」。

 川原さんは、蔦監督とは野球の話ばかりをしたといいます。甲子園に出場したとき、旅館では監督と一緒に一番風呂に入り、その日の反省点や次の対戦相手のデータの共有などを行いました。また、蔦監督は、靴下をはくとき必ず左からはくなど、繊細な一面ものぞかせていたそうです。川原さんがコーチをする中で多く聞いたのが「人生は敗者復活戦」ということばでした。
 

池田高校でコーチを務めていた当時の川原さん(右)蔦監督(左)

「負けから出発。勝って出発はない。負けからの出発やと、それは人生に通じるとよく言っていました。やっぱり勝って学ぶものより、負けて学ぶものが多いっていう感覚でしょうね。負けると課題が多く出る。勝てばその課題は隠れている。勝てば、実際には多く課題はあるんだけど、わからなくなる。負けたらそれが全部浮き出してくる。だからこそ監督は、最後にまた課題にチャレンジすることが大切だと言いたかったんだろう」。

名言の背景には蔦監督の人生が

蔦監督の孫で、映画監督の蔦哲一朗さんは、「人生は敗者復活戦」ということばの背景には、蔦監督の人生が深く関わっていると考えています。

蔦監督の孫の哲一朗さん

「じいちゃんの人生を、いろいろ小さいころからの経歴を見ていくと、すごい分かる部分もある。じいちゃんの人生としては、特攻隊に配属されるなど戦争を体験して、プロでも活躍できずに、自分の経験も含めてそういった思いは強くあったと思う。そこからやっぱり高校野球の監督になって、20年間甲子園に出ることができなくて、ずっと負け続けたなかで、ようやく手にした甲子園出場。そして30年目にして甲子園初優勝という、長い苦悩の道があったので、じいちゃんがこういう考えに至ったのは、僕としては理解できる」。

 哲一朗さんは、祖父の生涯を描いた映画を制作しました。今も祖父の言葉に励まされているということで、映画を徳島の地元で上映するなどして地元に元気を取り戻したいと話しています。
 

「じいちゃんの言葉というのは励みになるというか、僕としてはじいちゃんの存在自体が、僕の糧、礎になっている。徳島県民としてはやっぱり池田高校の活躍を見るとどこか元気になれるというか生きていけるようなものなので、やっぱりそういったものを見る機会というか、若い人たちにも元気を是非取り戻してほしい。地方創生、地域活性化じゃないですけど、こういった池田高校の活躍を知ることで徳島県とか三好市の活性化につながればいいなと思う」。

蔦監督の教え子の思い

 蔦監督のことばは教え子たちにも大きな影響を与えています。小学校教諭の松家義人さん(61)は、池田高校で2年生の時に夏の甲子園で準優勝を経験し、3年生になると蔦監督から指名されて主将を務めましたが、徳島大会の決勝で敗れました。松家さんは、当時、けがをしたときに蔦監督からかけられたことばが忘れられません。

松家義人さん

「私がちょっと大変なけがをして、平衡感覚がおかしくなったとき、『慌てるな、いまは治療に専念しよう』とことばをかけていただいたことを覚えている。結局、敗者復活、やり直しがまだまだきくから、今は慌てるなということでしょうね。こういう長い目で物事を見られるところがあった」。

 松家さんは、蔦さんのような教師になろうと、定年を迎え再任用となった今でも、子どもたちへの気配りを心がけています。

「私も教員になって、やっぱり失敗をする子供たち、ミスをする子供たち、いろんな場面でいっぱいあるんですけれども、やり直しがきくよと。今の学年でだめでも大きい学年になったらうまくいくかもわからないよと伝えています。蔦先生みたいに配慮して、一番いいだろうと思うような方法をとりたいということはいつも考えております」。

  • 平安 大祐

    徳島局・記者

    平安 大祐

    元高校球児
    スポーツ・防災の取材を担当
    野球・バスケの観戦が週末の楽しみ

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