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徳島県の飯泉知事が退任 最後に記者に語ったこととは

  • 2023年05月26日

徳島県政の歴代最長となる5期20年、知事を務めた飯泉嘉門氏。自民党の元国会議員らと争う「保守分裂」の激戦で敗れ、退任するのを前に記者に語ったこととは何だったのか。本人のことばとともに20年を振り返ります。

任期を終えるそのときまで 現職の緊張感 

飯泉嘉門 前徳島県知事

「残された期間は疲れとかを言っている余裕がない。任期を明けて疲れがどっと出るかも」

県知事選の敗北から1か月。かつて同志だったという後藤田正純氏に知事の座を譲ることになった飯泉氏は、退任を前にNHKが行った単独インタビューでこう切り出しました。選挙を終えて残りわずかとなった任期でも新型コロナ対策や災害が起きた場合の緊急対応が頭をよぎり、気が抜けない日々だったといいます。

周囲に止められた立候補

平成15年 初当選時の飯泉嘉門氏

飯泉氏の初当選は平成15年にさかのぼります。当時、知事の逮捕や議会の不信任で1年9か月の間に3度の知事選が行われました。県政が混迷を極める中、自民党徳島県連が白羽の矢を立てたのが、総務省から出向して県民環境部長だった42歳の飯泉氏でした。

「今の年齢62ですけどね。ということだったらとても(知事選に)出てなかったでしょうね。(県民環境部長として国に)補助金をもらいに行っても補助金すらもらえない。(徳島は)日本の地図に載ってないんだ。このように厳しいことを言われた。そうした中でなかなかチャレンジは難しいと今だったら思うでしょうね」

「絶対やめた方がいい」「無駄死にする」。選挙で争う前知事には、当時、民主党代表だった菅直人氏や共産党の志位委員長といった国政の野党幹部が応援に訪れました。飯泉氏の周囲では立候補を思いとどまるよう勧める声がほとんどだったといいます。しかし飯泉氏は自民党徳島県連の推薦を受け、当時の官房副長官の安倍晋三氏らが応援に駆けつけました。全国的に注目を集めた選挙戦は飯泉氏が約8500票差の僅差を制し、当時の全国最年少の知事となりました。飯泉氏は反対を押し切って立候補を決めた理由をこう振り返ります。

「徳島の力といったものは、こんなものじゃないだろうと。このまま埋もれてしまうのはあまりにも惜しい。そこに息づく県民の皆さん方がおられるわけで、私も(出向して)2年ちょっとではありましたけど、多くの皆さん方と様々な接点がありましたので、この皆さん方とともにしっかりと手を携えてやっていけるのではないだろうか。その意味ではこのチャレンジを受けようという形で臨んだ。そうした最初の戦いだった」

“何もない”徳島に可能性を 徳島ヴォルティス誕生

20年に渡る飯泉県政を語る上で、多くの人が口にするのが「徳島ヴォルティス」です。スポーツを通じた地域の活性化に目をつけた飯泉氏は、1期目に徳島ヴォルティスの運営法人の設立を支援し、競技場の整備を進めたことで、ヴォルティスのJ2加盟につなげました。選挙の公約に掲げた「四国初のJリーグ加盟」を実現させたのです。

「若い人たちが異口同音に言う言葉、『部長、徳島県なんちゃないけん(何もない)』。プロスポーツもないし、電車も走ってないし、ないことずくめだったんですよね。若い皆さん方がやはり夢と希望をその県に持たないことには、なかなかその県の発展はない。『なんちゃないけん』と言うのではなくて、なんでもあるよ。可能性が非常にあるんだ。こうした答えをしっかり若い人たちが持ってもらう。徳島ヴォルティスの誕生が四国の若者の皆さん方に夢と希望を持っていただくことができるようになったのではないか」

地デジ化のピンチから生まれた サテライトオフィス  

徳島県内のサテライトオフィス

もう1つの実績がサテライトオフィスの誘致です。今では80を超える企業が拠点を置く全国有数の地域となりましたが、飯泉氏が「もともと不可能だった」と振り返るほど偶然の産物でした。2003年に導入が始まった地上デジタル放送化で、徳島県では視聴できるチャンネル数が激減することが懸念されていました。ケーブルテレビで視聴を続けられるよう、総務省出身の飯泉氏は国の補助金を活用し、全国に先駆けてブロードバンド環境を整備しました。その後、2011年の東日本大震災を受けて、災害時のリスクを分散したい企業の間でサテライトオフィスのニーズが高まり、通信環境が整っていた徳島が注目を集めるようになりました。

「国の方針では徳島10チャンが3チャンになる。しょうがないんだよ。でもそれをあえて国の方針に逆らって、そして国の制度を最大限に活用する中で光ブロードバンド環境に。その後大きなピンチである東日本大震災でサテライトオフィスが当たり前の時代になった。本社に出勤しなくてよい。こうしたことを結果として導くことになる。まさにピンチがチャンス。あえてチャレンジをするからこそ道が開ける」。

総務省での経験が生きた20年  

このほかにも空港の整備や線路と道路を走るDMVの導入など、さまざまな地域振興策を打ち出してきました。政策を考えるうえでは総務省での経験が役立ったといいます。

「自治省という役所、今の総務省ですね、これを選ぶことによって、地方の発展あったればこそ日本、そして世界ということでありましたんでね。これまでさまざまな施策、もちろん国の制度を熟知している。こうしたことはあるわけなんですが。しかし国の人間は逆に地方の課題を熟知していない。そして地方の皆さん方は地方の課題、これはもう毎日もうそれに正面から当たっていて大変だ。しかし国の制度を知り抜いていない。こうしたことがあって、ちょうどよい架け橋を、そして知事という職を20年間与えていただいた」。

コロナ禍での全国知事会長  

飯泉氏の知名度を高めたのが、5期目の2019年に就任した全国知事会長です。四国の知事として初めてとなる大役を引き受けた数か月後、日本でコロナ禍が始まりました。会長として新型コロナ対策の「まん延防止等重点措置」の制度設計に携わり、政府に緊急提言を行うなど対応に追われました。未知のウイルスへの不安が国内外を覆った当時、飯泉氏は感染防止と社会活動の継続をどう両立させるのかという重い課題に直面し、眠れない日々が続いたといいます。

「ヨーロッパではシャットダウンみたいな形で、全部止めてしまう。封鎖をする中国も。しかし日本ではなかなかそうした法律上もそれは出来ないと言うことがありまして。日々人がかかり、場合によっては亡くなっている。そして産業がどんどん衰退をして行く。待ったなしなんですよね。そうした中でなんとか解を見出さなきゃならない。厳しい局面が多々あった」

“厳しかった”選挙戦 道半ばの退任 

6期目を目指した知事選の出陣式

そして集大成と位置づける6期目を目指した今回の選挙。NHKの出口調査では6割近くの人が飯泉氏の県政運営を評価したものの、選挙のふたをあけると、県政刷新を掲げる後藤田氏に大差をつけられ得票数で3番手に沈みました。
「現状を変えるという非常に分かりやすいワンイシューに対し、浸透が足りなかった」。
投開票当日、落選を悟った飯泉氏が口にしたのは、20年県政を率いた自負と、目の前の現実に対する悔しさでした。

敗戦から1か月あまりたち、県庁で行われた最後の会見に現れた飯泉氏は、選挙戦とは打って変わって吹っ切れた表情でした。多選批判という厳しい状況で戦った選挙について問われると、立候補に踏み切った理由を淡々と語りました。

「これまで若い皆さん方にはもう不可能だからやめようよじゃなくてチャレンジすべきじゃないかと言った本人として、やはりここ引くというのはなかなか難しかったかったところでもあるんですよね。これは厳しい戦いであるというのは百も承知をしていたわけではありますのでね」。

20年で果たせなかったこと 

飯泉氏は最後の会見で「できなかったことはない」と胸を張りましたが、積み残した課題は少なくありません。知事を務めた20年で県の人口は10万人以上減少し、出生率も県の目標を下回っています。県の重要産業と位置づける観光でも、宿泊者数や魅力度ランキングは低迷しています。徳島だけでなく日本が直面する重い課題にどう向き合うのか。道筋をつける役割は、次の後藤田知事に託します。

「人口が減っている日本の中でしかし徳島は、地方の人口をなんとか増やしていこうと。そうした流れというものができあがった。しかし一朝一夕にこれができるわけではないんですよね。やはり地方の魅力、特に徳島ということであれば徳島の魅力をしっかりと感じとっていただく。ここが重要。もっともっと自信を持ってこんなにいいんだ、こんなに素晴らしいんだと思っていただく。これまで築き上げてきたものをしっかりとこれを花を咲かせる、あるいは実を実らせる。そしてさらに良い循環を次に生んでいく。こうした点がこれからの徳島の大きなテーマになっていくのではないかと思っています」

飯泉氏は今後の活動について「どんな形が徳島の発展に貢献できるか思いをはせていきたい」と話しました。「趣味は徳島」と言ってのける62歳が、どのような形で徳島と関わっていくか。今後の動向にも注目です。

  • 有水 崇

    徳島局・記者

    有水 崇

    2017年入局
    北海道で勤務後、2021年から徳島局
    県政・経済取材を担当

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