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【全文公開】徳島県政20年 飯泉氏 退任の胸中は

単独インタビュー全文公開
  • 2023年05月17日

かつて全国最年少知事として当選して以来、20年、徳島県政を率いた飯泉嘉門氏。集大成を目指した選挙戦で敗れ、退任する今、何を語るのか。NHKの単独インタビュー全文です。

3番手に沈んだ選挙戦

Q 選挙を終えて1か月余りの今の心境は。 

A 選挙が終わって1か月と1週間以上ということで、ただ現職であったが故にその翌日(4月)10日からずっとあり、知事として行動しなければいけないということがありましたので、選挙戦は選挙戦として。その後、しかし、あと残された1か月1週間以上の期間、やはりしっかりと緊張感を持って。

例えばその間に大規模な災害がある。今回も能登半島で震度6強、その後も多く全国で地震があったわけでしてね。こうしたことがもし、徳島で起こるということであれば、例えば災害対策本部であるとか、そうしたものへの対応また、選挙が終わって、まだコロナ。5類にはなっていなかったわけでありますのでね。そうしたものについての移行期についてどうするのかと課題はかなりあったところですので。選挙のことを振り返ってとかそうした余裕はなかなかなかった。こうした1か月と1週間ちょっということになります。

Q 選挙戦の疲れは。

A 疲れとかを言っている余裕がない。やっぱりそこが現職の大変さでもあり、あるいはやりがいのあるところということがあるので。任期を明けて疲れがどっと出るかもしれないです。

緊張の連続「気の休まるときはなかった」

Q 5期20年の県政運営を終えた率直な感想は。

A 正直なところ「ホッとするな」というところですよね。やはりこれまでの20年間、寝ても覚めてもやはり徳島のこと。また全国知事会長を務めていたあの2年間はもう全国のこと。しかもコロナ真っ最中ということもありまして、やはり気の休まるという時は1日も、あるいは1秒たりともない。こういう生活を約20年続けてきたわけですので。そうしたことを考えると「やれやれやっと」という感じがします。正直なところ。

Q 退任することに寂しさは。

A いや寂しさというのはないですよね。やはりもう緊張の連続でありますし。あるいは当然年齢を重ねていくわけですから。しかし、仕事はどんどんどんどん重責が増えてくる。そして最後はいよいよ全国知事会長ということもありましたのでね。そうなってくるとやはり体の年齢的な衰え。これをどう補っていくのか。もちろん若くはなれないわけですのでね。

ちょうど50を期して筋力トレーニングあるいはランニングを日課として行っていくと。そういうかなりストイックな毎日でもありましたので。そうした意味ではこの20年間。逆に20年があったればこそ健康を維持できると。こうしたこともあったのかもしれないですね。

1年9か月で3度の知事選 混迷の中で初当選

Q 20年前の徳島県政は混乱した状況だったが、初めて当選した当時を振り返るとどうか。

A 今の年齢62ですけどね。ということだったらとても(知事選に)出てなかったでしょうね。というのは、当時霞が関の方で、私も(県民環境)部長をしていましたので補助金をもらいに行っても、補助金すらもらえない。(徳島は)日本の地図に載ってないんだ。このように厳しいことを言われた。そうした中でなかなかチャレンジは難しいと今だったら思うでしょうね。

しかし、当時は(総務省から徳島県に出向して)部長として2年ちょっと。しかも本当に現職の知事さんが逮捕される。戦後9例目。ましてや不信任、二元代表制が崩れるその瞬間であるわけでして、これは戦後3例目。これが1年9か月の間に立て続けに起こる。
当時はギネスブック級の徳島混乱と。このように言われ、部長としてどう県を支えることができるのか本当に思い悩む。そうした1年9か月でもありましたので、そうしたことを考えると、逆に国に戻れると言うことが、逆にホッとすると言うふうに今だったら思ったかもしれません。

しかし当時まだ40歳41歳そして42歳と。一番チャレンジできる。そうした年齢でもありましたので、2年ちょっと過ごしてきたこの徳島。なんといっても四国と近畿との結節点でありますし。三好長慶の時代、信長よりも先に天下人になる。もっと言うと応仁の乱を起こしたのも当時守護であった細川であったわけでして、歴史的に見ても非常に力のある徳島。ましてや邪馬台国は阿波だった。

今ではかなり言われてきているところでもありますので、やはり徳島の力といったものは、こんなものじゃないだろうと。このまま埋もれてしまうのはあまりにも惜しいと。当時はそのように思い、「無謀だ」と特にNHKの記者の皆さん方をはじめ、中央の記者の皆さん方と当然仲良くなってましたんで、「飯泉さん絶対やめた方がいい」と「現職が気の毒だと言われている中でとてもじゃないけど勝てない」と。ましてや「現職と新人が戦う場合にはダブルスコア」。このように言われるのが「はっきり言ってトリプルスコアですよ。無駄死にする」と。そういう厳しいお話を頂いたところでありましてね。

しかし、そんなもんではないだろうと。やはりあまりにもったいない。ましてやそこに息づく県民の皆さん方がおられるわけで、私も2年ちょっとではありましたけど、多くの皆さん方と様々な接点がありましたので、この皆さん方とともにしっかりと手を携えてやっていけるのではないだろうか。その意味ではこのチャレンジを受けようという形で臨んだ。そうした最初の戦いだった。

Q 決断した当時の自分に今、声をかけるなら。

A 「よくぞやったよね」って。そしてその後20年、結果的に続くわけなんですがね。そうした意味では当時「よく決断をした」と言うと同時に、その若き飯泉嘉門を多くの人たちが支えてくれたと。つまり多くの皆さん方のお支えがなければ、当然マスコミの皆さん方が言われたように泡沫候補で終わっていたわけですので、そうした意味では、当時あるいはその後をお支えをいただいたすべての皆さん方に心から感謝を申し上げたいと思います。

スポーツによる地域振興 徳島ヴォルティスのJ2加盟

Q 県が支援した徳島ヴォルティスの運営法人設立は、どのような思いだったか。

A これは大きく2点ありまして、当時部長の時に県庁の若手の皆さん方とも付き合いがある。あるいは学生さんたちと大学の学園祭とかにお邪魔をすると言うこともありまして。ただ若い人たちが異口同音に言う言葉、「部長、徳島県なんちゃないけん(何もない)」。それどういうこと。プロスポーツもないし、電車も走ってないし、ないことずくめだったんですよね。
若い皆さん方がやはり夢と希望をその県に持たないことには、なかなかその県の発展はない。
これがまさに私が自治省を選んだ一つの理由。

例えば大蔵省とか通産省が当時あった中で、やはり地方あったればこその日本と。そうした中でやはり若い人たちが夢と希望をその県にもてる。そのためには、やはりこうした「なんちゃないけん」と言うのではなくて、なんでもあるよ。可能性が非常にあるんだ。こうした答えをしっかり若い人たちが持ってもらう。

その意味であえて、なぜサッカーを選んだのか。ここは2つ目ですが、実は2002年の日韓ワールドカップサッカー。当時はもう徳島県、部長で来ていたわけなんですが。そもそもスタート時点では郵政省の出張としてJAWOC(ワールドカップ日本組織委員会)の情報通信の委員をやっていたんですね。そうしたものの中で、この日韓ワールドカップサッカーを成功に導く。当時は川淵さんたちとも共に力を合わせ、韓国はなかなか難しかった。しかし日本では大成功した。それが後に基金となり徳島ヴォルティス誕生後にいろいろお世話になることになりました。そういう形でこの日韓ワールドカップサッカーこれを手がけた。しかもJAWOCのメンバーとして行う。そして成功に導いた。

やはり、サッカーというのは、世界共通の言葉とも言われるわけでして、徳島の若い皆さん方にぜひ実感してもらおうと。しかも四国には実はサッカーはもとより、プロスポーツは当時何一つなかったんですよね。そうした中でまずはサッカーから。そして直ちに実は独立リーグ四国アイランドリーグもできあがる。そして翌年にはこの徳島ヴォルティスが誕生することによって川淵さんが手をあげてきた愛媛。この愛媛FCが結果誕生していくと。

ヴォルティスがきっかけとなって四国にまさにサッカーをはじめプロスポーツが息づく。こうした地になってくる。今では高知以外は全てに実はJリーグチームがある。高知も今それを目指そうと。そうした意味ではやはり徳島ヴォルティスの誕生が四国の若者の皆さん方に夢と希望を持っていただくことができるようになったのではないか。そしてJ2というだけではなくて、2度J1に上がり、そして今でもJ1で活躍した選手の皆さん方がまた戻ってきていただいている。こうすることによってサッカーを通じて勝ち味。こうしたものを県民の皆さん方に実感をいただける。

やはりこの勝ち味というのが大きいですよね。何をやってもできないのではないか。確かに徳島を始め四国、課題先進地域。人口減少、過疎、高齢化いろいろあったんですね。しかしそれを嘆いていてはしょうがない。最初にピンチが来るんであれば、これを解決することによって、その後襲ってくる全国に対してのまさにジャパンスタンダードこれを作ることができるということで、課題解決先進県を徳島は目指すんだ。実はこれがプラチナ構想の小宮山会長さんなどには日本こそが課題解決先進国を目指すんだ。今こうしたお話にもつながってくるわけでして、この勝ち味といったものそしてそれを通じて未来に夢と希望をもっていただく。特に若い皆さん方に、こうした事でサッカーを選ばせていただいたということになります。

かつては“タブー” Jリーグ加盟への挑戦

Q 設立に向けて最も大変だったことは。

A 実は徳島のJリーグへのチャレンジは2度目だったんです。かつてこれは、圓藤知事さんの時代だったんですが、大塚FCを母体として新たなJリーグチームを作り上げよう。場合によっては石井町に新たなサッカー場を作るんだ。こうした構想もあった。

実は川淵さんも非常にこれに期待をしておりまして、徳島に実際に入って来ていただいた。しかし川淵さんが入っていたその時に撤退表明が知事さんからなされた。そうしたこともあってJリーグの皆さん方も徳島だけが逆にJリーグチームは作らせないということで、愛媛FCの方に非常に力を入れた。つまりJリーグ百年構想というのは、今沖縄にもJリーグチームがありますが、沖縄以外の大きな島ここにはすべてJリーグチームを作る。これが百年構想だったんです。しかし徳島がそうした期待を裏切ってしまった。また多くの県民の皆さん方もその時には署名活動をものすごく協力をいただいたと聞いている。しかし、一方的に撤退を表明してしまったということがあって、逆に徳島でJリーグチームこれを言うことはタブーとまで実は言われていたんですね。

そうした中であえて最初の選挙で、しかし四国にプロスポーツチームがない。これは若い皆さん方にとっても、また勝ち味を知るこうした点でも、まずいだろうということで、あえてマニフェストに書かせていただいた。しかし選挙期間中にもこれに対する批判はすごかった。絶対できないものを公約にして、そこまで票が欲しいのか。実は面と向かって何度も言われたんですね。

しかし投票日のちょうど、その日に今のポカリスエットスタジアム、当時はまだ徳島の鳴門の競技場でしたけど、そこで大塚FCと愛媛FCの試合があったんで、投票日ではありましたが大塚FCのユニフォームを着て行かせてもらった。当時は千人ぐらいだったんです。しかしこれが見事1対0で勝った。そして来ていたサポーターの皆さん方がぜひ飯泉さんを当選させて、そしてJリーグチーム作るんだと大きく叫んでいただいて、これから投票行くぞって。こうしたこともあったわけでしてね。そうした意味では思い出深い。

しかし、これを公約にマニフェストに書くというのは本当に至難の業。ましてそれを実現するなんてことは、本当は大変。しかし、ここも当時の大塚明彦三代目オーナーをはじめ、大塚グループの皆さん方、あるいは多くの企業、そしてサポーターの皆さん方が一致結束した。また県議会の皆さん方も理解を示していただいて応援するぞと。こうしたことがその多くの苦難、絶対無理だ、タブーだ。これを打ち破ることができたのではないか。今になってみるとそのように思っています。

ブロードバンド普及 サテライトオフィスの“聖地”に

Q 全国でも有数のサテライトオフィスが集まる県に成長した。大変だったことは。

A もともと不可能な話だったんですね。じゃあそれは何か。国策です。地上デジタル放送。確かにテレビが茶の間から紅白歌合戦に投票できる。いいことずくめ。しかし、これは46都道府県なんですね。つまり徳島だけが大きなデメリット。

アナログ放送であったがゆえに実は徳島、関西発が全部見れる。大阪9チャンネルなんですね。大阪は1チャンネルビデオチャンネル。しかし、徳島は四国放送が見える。10チャンネル、実は10チャンネルが見えるっていうのは徳島と東京だけなんですね。県民の皆さん方は、これが当たり前。しかしデジタルになると見えるか見えないか法律にのっとり放送法上、徳島県は日本で一番チャンネルが少ない。チャンネルは3つしかない県なんですよね。だからデジタルになれば当然法律に従う、10チャンネルが3チャンネルになる。しかし県民の皆さん方は、地上データになると便利になる。そして10が3になる。そんなことだったら徳島の皆さんが納得しないでしょうと。

しかし、当時の郵政省の中では、法律上は3チャンネルなんだと。アナログで見えてるだけなんだから、見えちゃってるだけだと。フリーライドだと。だからしょうがないんだよ。法律にのっとるんだ。法治国家だ。しかし、これはなかなか徳島の皆さん方には納得いただける話ではないんですよね。当時それはおかしいだろうと。ましてや郵政から総務省に一緒になる地方行政も行うわけなんだからと言ったんですけどね。いやそれは飯泉さん法律がこうなんだから無理だよ。こうした話で終わった。

しかし縁があって商工労働部長でその2年後に来ることになるんですよね。そして県民環境部長に翌年なり、そして情報通信担当部長になる。こうした形で当時あった県内50の市町村長さんに地上デジタル放送だとこんなデメリットがある。私が郵政で作った補助金を活用して、もちろん市町村が、場合によっては事業主体となってケーブルテレビをひくことが全部の10チャンネルを見ることができるようになりますよと。

じゃあそれをやろうと言うことで、国の補助金、県が出して市町村の税金とすべてをいわゆる税金でこれを全県下にひく。しかも、後乗りでこれが光ファイバーで各家庭がつながる。ケーブルテレビの普及率90%を超えているのは実は徳島県だけなんですよね。これが光ブロードバンド環境となり、今のデジタル田園都市国家構想、令和9年までにこの光ブロードバンド環境を99.7%以上とすると。しかし徳島は令和3年度中にもうすでにできていたわけです。このブロードバンド環境を活用しない手はないだろうと言うことで、さまざまなコールセンターやIT企業の誘致。これをどんどんして来たんですね。

そうした中、東日本大震災が起こりました。そのときに実は東京大阪のICTの企業の皆さん方がクライアントから企業BCPどうするんだ。次は首都直下型あるいは南海トラフが起こる。大阪も東京も大打撃。まあこのように言われて。しかし彼らの頭の中では東京大阪以上にICT環境のいいところはないと思っていたんですね。

そこで徳島から救いの手を差し伸べる。いやいやいや東京大阪以上に通信環境が良いのは実は徳島だよ。光ファイバーの容量は一緒でも東京大阪はハードユーザーがたくさんおられる慢性渋滞。しかし徳島の場合、テレビしか見てないわけなんですよね。一部使われている方いるんですけどね。ということで、通信速度日本一どころか世界一だ。これは徳島にお呼びをしたICTの企業の皆さん方がどんどん言われた形で、まずはお試しで徳島にサテライトオフィス。しかもCATVインターネットこれによって常時接続大容量つなぎっぱなしでいいんですよね。

ということで例えば渋谷に本社がある。では徳島の神山、美波町のオフィス。テレビをつなぎっぱなしにしながら、そして様子をお互い話がまさに隣に居るような感じでできると。この環境を彼らはいち早く察知することができた。しかも、その第一号で神山に入ってこられたのがSansanの寺田社長さんだったんですね。そしてSansanもこれによって大きく発展をされる。

そこで寺田社長さんが何か徳島に恩返しすることはないだろうか。またこの環境を使う、そうしたものはないだろうか。お考えをいただいたのが神山まるごと高専。

おいでいただきました寺田さんもぜひ徳島にというお話でね。ということで、この光ブロードバンド環境、今ではでデジ田であったとしても、あるいはこの日本で注目をされている神山まるごと高専であったとしても、すべて日本の先駆けを行くもの。この一番のきっかけは、まさに地上デジタル放送。国の方針では徳島10チャンネルが3チャンネルになる。しょうがないんだよ。でもそれをあえて国の方針に逆らって、そして国の制度を最大限に活用する中でケーブルテレビを高圧ので。これが光ブロードバンド環境になり、その後また大きなピンチである東日本大震災で逆に各企業の皆さん方に手を差し伸べ、サテライトオフィス徳島にカモン、来ないかみたいな形でね。

こうしたことがこれからどんどんどんどん日本の方向性、ジャパンスタンダードだけではなく、コロナ後の今やまさに働き方が大きく変わり、サテライトオフィス当たり前の時代になった。本社に出勤しなくてよい。こうしたことを結果として導くことになるんですね。まさにピンチがチャンス。あえてチャレンジをするからこそ道が開ける。こうした思いですね。

総務省出身の知事として “国と地方の架け橋に”

Q この20年の地域振興を総括するか。

A もちろん徳島のため。徳島県知事ですからね。ただその前に部長で2年ちょっといて、様々な課題。しかしこれははっきり申し上げて四国あるいは日本の課題でもあったんですよね。

ということで、もともとは国の役人って言いますか、官僚こちらに奉職をした。しかし自治省という役所、今の総務省ですね、これを選ぶことによって、地方の発展あったればこそ日本そして世界ということでありましたんでね。これまでさまざまな施策、もちろん国の制度を熟知している。こうしたことはあるわけなんですが。しかし国の人間は逆に地方の課題を熟知していない。そして地方の皆さん方は地方の課題これはもう毎日もうそれに正面から当たっていて大変だ。しかし国の制度を知り抜いていない。こうしたことがあってちょうどよい架け橋を。そして知事という職を20年間与えていただいた。

また全国知事会長と言うことですので、多くの国これは霞が関あるいは永田町の皆さん方と共に政策提言かつては陳情ということで。しかしちょうど民主党政権になった時に政策提言。こういう形で切り替えて、そして今ではそれが当たり前になった国も永田町もそれを聞こうではないか。まあこうした環境が整ってきたんですよね。ということでさまざまな施策、もちろんピンチをチャンスに切り替えていく。そして徳島四国発展、日本発展のために、こうしたことについて常に寝ても覚めても趣味が徳島と申し上げてきましたけどね。

そうしたことが結果として日本全体これをもう一度リメイクし直すこうしたことに繋がったのではないか。まさに徳島が四国日本を救うそうした形になったと思って。

コロナ禍での全国知事会長 

Q 全国知事会長のときに一番大変だったことは。

A まずはこの新型コロナ。これがほとんど対応に当たることになるわけなんですが、やはり答えがない。はっきり言って今回の新型コロナいろいろスペイン風邪がなんだって皆さん言われるんですが、実際のところは14世紀のペスト以来のことなんですよね。当時ヨーロッパベストによって対処の手法がない。もう村ごと焼き払うんですよね。しかし、まさか現代にそれはできない。しかしヨーロッパではそういった経緯からシャットダウンみたいな形で全部それを止めてしまう。封鎖をする中国でもね、中で何があったって知らないみたいなね。しかし日本ではなかなかそうした法律上もそれは出来ないということがありまして。そうした中でなんとか解を見出さなきゃならない。

日々人がかかり、場合によっては亡くなっている。そして産業がどんどん衰退をしていく。待ったなしなんですよね。ましては全国の状況だけではなく徳島のひざ元も大変な状況になるということがありましたので。やっぱりなかなかこれは寝れなかったですよね。ずっとそれを考える。徳島のこと、日本全体を。まあでもこれは安倍総理そしてのちの菅総理お2人も同様だと。あるいは関係大臣共に力を合わせ、NHKなどで出ているそうしたときだけではなくて常に連絡を取り合いながら、そういう状況フェーズが切り替わるんではないか。その端緒をなんとか見出して、そして解決策。

その意味では全国知事会長ということで47都道府県のそうした生の意見あるいは状況といったもの、例えば東京、北海道、沖縄、こうした状況をつぶさに知ることができた。こうした点であとは政策にとりまとめていく。それによって国が、あの当時はほとんど受け入れてくれた。そして国とともに仕上げていく。政策という形で。

もちろんそれぞれ厳しい局面が多々あったわけなんですけど。例えば緊急事態宣言、日本では一番強い措置、しかしこればっかりを行っていくんであれば、社会経済活動終わってしまう。そこで、当時の西村コロナ担当大臣に提言をしたのが、知事の権限で例えば徳島県の中で、徳島市だけに適用する、あるいは徳島市と阿南市だけに適用する。そうした形をとることはできないだろうか。こうした点を申し上げたんですね。

そうしたところできあがったのがまん延防止等重点措置。知事がエリアを決断して、そして国とともに指定していく。これによって感染拡大を抑えながらも、社会経済活動、これを最低限あげていくと。この二律背反したものを何とか並立、両立することができる。こうしたこともできるようになった。その1例。あるいはワクチンを打っていく、特効薬がないもんですから、ワクチンしかないんですよね。そうした中で、国のほうからは例えば企業の皆さん方に1社1000人以上この皆さん方に打ちましょう。河野大臣が言われたんですね。しかし、地方で1社1000人の従業員がいる、そう多いわけではないんですね。だから、例えば中小企業が多い地方、合わせ技で1本。3社が集まる、4社が集まる出入りの業者が集まる。合わせて1000人。これも認めてくれませんか。OKがすぐ出た。こうすることによって、ワクチン、1日あたり100万、150万を突破するということにもなってきたんですね。

そういう形でそれぞれ地方の置かれた状況、大都市を抱えるところもあるいは離島などを抱えるところも中山間地域の多いところもあるいはちょうど中くらいの都市。さまざまあるところの状況をつぶさに知ることができ、それへの対処方法を皆さんと考え、そしてこれを国に提言する。そして国とともに作り上げていく。こうすることによって、ようやくことしの5月8日、感染症法上の2類相当から5類へと、こうした新しいフェーズへとようやく迎えいれることができたのではないかと。ここもちょっとほっとしているところですね。

20年の県政運営 残された課題は

Q 一方で県が直面する課題も。人口は20年で10万人以上減り、観光や魅力度ランキングも低迷。

A まず人口減少。これは確かに直接言われたことがありますけど、日本全体の課題なんですよね。徳島だけが日本ではないと言うのであれば、そのやり方もある。しかし日本という国の中の47分の1、例えば四国の中でもあるいは大阪神戸、こうしたものが近接地帯ということであれば、人の流れを止めるってことはなかなか難しい。

そうして日本全体の人口が増えているんであれば、そうしたものの中で、逆に向こうからこちらに来ていただける。こうしたこともある。あるいは徳島自体でどんどんどんどん子どもさんたちが増えてくれる。こうしたこともあるわけなんですけれどもね。

今日本全体がそういう状況ではない。全体がマイナスに転じる。こうした中で、要は人口を増やそうということになるとよそから奪おうと。だから当時、特に東京から地方へということをよくやってきた訳なんですけどね、そうした意味で様々な施策、全国知事会長として、作り上げてきたものが多く、あるわけなんですが、例えば中央省庁、これが東京・霞か関にあるから、企業がどうしても東京にということで、地方から従業員を吸い寄せてしまう。じゃあ霞か関本庁機能を地方へ移せばよいではないか。この提言をして一番最初に移ったのが消費者庁新未来創造戦略本部、県庁の10階に本庁機能が明治始まって以来初めて移ってくる。そして今年度ようやく文化庁が京都へ2番目になるんですよね。

あるいは大企業の本社機能をやはり地方に持ってこないことには、やはり従業員として吸い上げられるということで。ここはサテライトオフィス、これを東日本大震災を契機に提言をし、そして、東京大阪多くの皆さん方が徳島でサテライトオフィス。今では全国ということになるんですかね。しかしそうした意味では人口10万人当たりのサテライトオフィスの数、以前徳島が日本第1位となっているわけで、コロナ後はもう本社に7割出勤するなという時代、これを受けてもうサテライトオフィス当たり前。

どこでも働ける。賃金も変わらない。新たなフェーズ、新たな局面が今、日本全体で起こっている。その先駆けを徳島からということになってまいりました。

人口減少対策には“徳島の魅力”を

さらには3番目としてやはり大学で東京大阪に若い人たちがどんどん行っちゃうんですね。これはやはり地方の大学に若い皆さん方が行きたいと思う。またそれがどちらかというと就職につながるんですよね。そうした学部がない。どんどんどんどん東京の大学にするんですよ。

じゃあ地方の大学その定数をあるいは魅力を増やすべきではないだろうか。地方大学地域産業創生事業交付金こうしたものも第一番目に徳島。ポストLED毎年10億かける50億。その次の資金も今徳島に決まった。さらには定数を増やす。今年度からということで、その第一号も実は徳島大学、決まったところですね。

さまざまな対策、このマイナスで人口が減ってる日本の中でしかし徳島は、地方の人口をなんとか増やしていこうと。そうした流れというものが出来上がった。しかし一朝一夕にこれができるわけではないんですよね。

ということでどうしても人口は減り続けていく。しかしそうしたものの中で多くの皆さん方が、やはり地方の魅力。特に徳島ということであれば徳島の魅力これをしっかりと感じとっていただく。ここが重要。これは実は魅力度ランキングにあらわれるんですね。 

実は2つのデータが寄せられました。まずは全国全体、徳島おしなべてのデータ。もう1つは各都道府県の人たちが自分の都道府県を好きであるかどうなのか、魅力があると思うのか思わないのかと。徳島特に四国の3県ほとんどが自分の県いいところだ。こう思うこうした思いといったものがだいたいベスト10に入っているんです。

ところが徳島、ベスト10どころか最下位だったんですね。ということは全国の皆さん方から見ると、41位だったものですからね。まあおそらく30位あるいは22位の後半ということになるわけですよね。平均っていうことを考えると。だから全国の皆さん方は徳島をはっきり言って魅力的だとこう思ってくれている。 確かに宿泊者これはキャパの問題がありますね。キャパシティーがたくさんあっても稼働率が低ければ何の意味もないわけで、徳島の稼働率は中より上にあるわけですから、そうした意味であまり宿泊数ということだけを考え、そこを広げていくといわゆる徳島県内にいる、あるいは既存のホテル旅館といったものが稼働率が低くなり、そして潰れていってしまう。淘汰されるということもありますのでね。稼働率といったもの。そしてこれが上がっていけば当然広げていくと。まあこうした順番になっていくんではないかと思うわけですけどね。

やはりまずは何としてもやはり徳島が魅力的なんだということ。これやはりしっかりと県民の皆さん方に。よく魅力度ランキングだけではないんですが、徳島どんないいところがありますか。こう考えて『うーん。なんちゃないけん』すぐ言葉が出てしまう。でもそれは多くのものが実は魅力的なものがたくさんあって、そしてそうしたものをずっと考えている間に何ですかと、こうせかれちゃうんですよね。そこで『うんなんちゃないけん』と言ってしまうと。だから逆に言うとありすぎる部分がある。それをもっともっと表に出してもらう。

例えばアニメの祭典であるマチ★アソビ、コロナ前は何と8万3千人、ゴールデンウィークの3日間だけで集まるアニメ日本最大級の祭典ということで世界からも注目されている。多くの魅力が実は徳島にはあるわけでしてね。そうした点をもっともっと若い皆さん方だけでなく県民の皆さん方が思っていただく。

昔、瀬戸内寂聴さんと国民文化祭なんかの場の時にも話をしたんですけどね。徳島の人って非常にシャイなんだということで本当は自慢をしたっていいものに対して、いやちょっとっていうふうにね、少し奥ゆかしすぎるんではないかということをこれが共通の話題になったんですけどね。だからもっともっと自信を持ってこんなにいいんだ。こんなに素晴らしいんだ。こう思っていただく、これが逆に魅力度ランキングを上げ、あるいは徳島がより多くの皆さん方に、ああ徳島こそと言っていただける。そうした実感を是非していただきたいなと。

この20年間さまざまな日本全国あるいは世界に誇るべきこと、あるいは今までなかなか四国がゆえにこれは本四高速のあの高すぎる平成の大関所の料金が典型でしたけどね。セブンイレブンが一つもなかったとかね、まあそうしたことも今はなくなった。ましてや関西広域連合を作り上げチャーターメンバーとして2025年もう2年を切りましたけどね、大阪関西万博、日本のまさに浮沈をかける。ここにパビリオンを出すことができる。こうしたビッグチャンスももう目前にあるわけですね。

これまで築き上げてきたものをしっかりと花を咲かせる、あるいは実を実らせる。そしてさらに良い循環を次に生んでいくこうした点がこれからの徳島の大きなテーマになっていくのではないかと思っています。

“多すぎる課題” 常に課題と向き合い

Q やり残したことや反省点は。

A やはり課題が多すぎ。あるいは課題に対して気が付くがゆえに、まずは課題の解決。つまり、ある課題を解決するために1年2年では無理なんですよね。やはりしっかりと農業に例えれば土地を耕し、そして良い種を選んで、そしてそれに水と肥やしをやり育て、花を咲かせ実を実らせると。やはり最低でも5年。

例えば本四高速の全国共通料金化(値下げ)は平成26年でしたから10年かかったんですよね。確かにヴォルティスは2年であるいは可動堰問題は1年弱で決着をつけましたけどね。しかし、やはり施策というと10年かかるもんですから、まずはスタートを切る必要があると。そうした意味では反省と敢えて言うのであれば、そうした様々な成功した政策これをもっともっとこんなに成功したんだ。あんなに成功したんだと、こだわりを持って様々なメディア。県内でそうしたものが流してもらえないということであれば、県外のメディアに訴えかけていく。まあこうしたこともあったのではないか。しかしその余裕がなかったですね。

余りにも課題が多い。それが地方の置かれた立場。そして最後知事会長の時にはコロナが襲ってきた。常に課題との向き合いということでしたのでね。なかなかこれまでの成果これをことさらにあるいはこれを例えば物語ストーリーとして多くのメディアあるいはSNSで発信をしていく。そうした余裕は少しなかった。まあそうしたことをやっておけば、もうちょっと良かったかな。そうすると魅力度ランキング、県民の皆さん方ももっともっと自信を持っていっていただけることができたんではないのかな。このようにも思いますね。

“第3の人生”を考える

Q 今後の活動は。

A 今回県内はもとより東京あるいは大阪お世話になった皆さん方の所へお邪魔すると結構面白い事を共通に言われるんですね。

ちょうど62、今だいたい事務次官の年齢が62なんですよね。だから普通は62これから第2の人生だと。ところがその飯泉さんの場合はまず私は役人、官僚あるいは徳島の部長をはじめ地方の役人として19年1か月、約20年。そしてこれもまれですが知事として5期20年。つまり第1の人生そして第2の人生。そして、今62となった。だから普通だとここから第2の人生。ところがこれから第3の人生ですよねって。好きなことされたらどうですか。なんてことをいう人が結構多いんですよね。

ということなんで、そうやって考えるとこれじっくりかけないといけないのかなと。あまりちょっとしばらくゆっくりしようとか、あるいはまあねなんて思うよりもちょっとじっくり考え、第3の人生、これを考えていく必要があるのではないのかなと思いますのでね。

今どうと言う答えがあるわけではないんですが、そうした多くの皆さん方のアドバイスに触発されて。じゃあこれから後20年間何をやっていくのか。だいたい男性の平均年齢が82、ちょうど20年ですよね。だからその20年間何をやるべきなのか。また何を時代があるいは国という環境がね、私に求めていただけるのか。そうしたものをしっかりと見定めて、そしてその道に邁進していくという形を取ればいいのかな。このように思っています。

Q 今、したいことは。

A やはりここでせっかく時間ができる。もう寝ても覚めても徳島、日本全体、課題の解決を考える。こうしたことからようやく解放されるわけですからね。そうした意味では心身ともにやはり一から鍛え直していくいいきっかけを頂けたのかなと思っていますね。

もう一度50歳の時に思い、そしてなんとか知事職を続けていける、そうした意味での肉体改造を行った。これに倣う以上の心身共に鍛え上げて、そしてこれからの20年その時代があるいは世の中が求めてくれる、そうしたものにしっかりとお応えできるそうした土台づくりをしばらくやろうかなと思っています。

  • 有水 崇

    徳島局・記者

    有水 崇

    2017年入局
    北海道で勤務後、2021年から徳島局
    県政・経済取材を担当

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