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  • 2023年8月17日

関東大震災100年 東京・上野「復興小学校」が地域に残したもの

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100年前の関東大震災では、激しい地震と火災で多くの小学校が倒壊・焼失しました。 
その教訓を元に建てられたのが、当時の先端技術であった鉄筋コンクリートで再建した「復興小学校」と呼ばれる校舎です。 
かつては都内に100校以上ありましたが、老朽化などで次々と姿を消し、現在も小学校として残っているのは4校だけです。

ことし、「復興小学校」のひとつとして長年地域で親しまれてきた、台東区の旧下谷小学校の解体が決定し、卒業生らによる「お別れ会」が開催されました。 
復興小学校とは地域にとってどのような存在だったのか、取材しました。 
(首都圏局/ディレクター 高松夕梨子)

閉校から33年 「復興小」旧下谷小学校 解体へ

復興小学校の一つ、台東区にある旧下谷小学校。生徒数の減少から33年前に閉校し、区による管理が続けられてきましたが、ことし取り壊しが決定しました。

7月23日に開かれた「お別れ会」には、校舎に最後の別れを告げようと、卒業生や地域の人200人ほどが集まりました。

卒業生 
70代男性

私はそこの階段で転んで骨折しました。非常に思い出があります。

 

卒業生 
40代女性

閉校しても、戻ったときに校舎があるっていうことがよりどころだったんですけど、それがなくなるのは寂しいなと思います。

復興のシンボル・復興小学校は“わが町の誇り”

下谷小学校は明治8年に創立。当時は木造2階建ての校舎でした。

しかし、創立50年の節目を前に大地震が東京を襲います。関東大震災です。 
下町一帯は焼け野原になり、下谷小の校舎も全焼しました。

子どもたちはしばらくの間、風呂敷を縫い合わせて作ったテントで授業を受けることになります。

そして、震災から5年後、地域住民の念願かなってようやく完成したのが今の校舎です。 
どんな地震や火災にも耐えられるようにと、当時としては珍しい鉄筋コンクリートで作られました。

教育の歴史に詳しい共立女子大学の小林正泰准教授です。 
当時、「帝都として恥ずかしからぬ都市」への復興を掲げていた国や東京市にとって、「復興小学校」の建設は、威信をかけて優先的に行われたプロジェクトだったといいます。

共立女子大学 小林正泰 准教授 
「当時の記録を見ますと、復興小学校ができたということが、子どもたちや地域の人たちにとってすごい喜びなんですね。というのもやはり、震災で学校が完全に燃えたあと、まずは露天授業という何もないところで授業をして、そのあとにテント教室を作ってテントの中で授業をする。そのあとに仮校舎を建てる、というようなプロセスを経るんですけど、つまり子どもたちはすごくみじめな気持ちで授業をしばらく受け続けることになるんですね。

その中で新しい新品な校舎、しかも鉄筋コンクリートの立派な校舎ができた、そのことの喜びというのがすごく書かれている。地域の人たちにとって復興小学校があるということはある意味で、わが町の誇りみたいな側面があったのかなと思います」

唱歌室入り口

校舎には、頑丈さだけでなく、デザインにもこだわりが見られます。 
全体的に直線的なつくりの中に、ところどころアーチなどの曲線的なデザインが取り入れられています。

昇降口の柱

「耐火・耐震は大前提としつつも、帝都としての品格と美観を持った街にすべき」という当時の関係者たちの強い思いの表れです。

学校建築を“子供の王国”に そして社会教育の場に

そして、復興小学校について語るうえで、小林准教授が重要と考えているのが、学校建築自体が児童たちの教育に役立つ「子供の王国」となるよう設計された点です。

復興小学校の建設時、重視されていたのが「新教育」という考え方でした。それまでの教師中心の教育から、児童の主体的な学びへと変革させようというものです。

その変化は教室のつくりにもよく表れています。 
教室の奥まで光が届くように、窓は高くとられ、教師と児童をはっきりと分けていた教壇は取り払われました。教室の黒板は児童が自由に使えるよう、位置が下げられ、教室の後ろにも設置されました。

また、復興小学校は、「社会教育の場」としても活用されてきました。 
地域の人たちとのつながりを大切にするため、昇降口のつくりなどが工夫されているといいます。

小林准教授 
「これは当時の文部省の方針でもありますが、社会教育の場として復興小学校をどういう風に使うのかという趣旨のもとに設計されています。

まず、復興小学校全体の特徴として昇降口が2つほぼ必ずついています。第1昇降口は児童や先生方が入っていくんですけど、第2昇降口は地域の人が入ってくるものとして想定されています。 
いわゆる動線計画という言い方をしますが、地域の人が入ってくる第2昇降口の近くに講堂を作ることで、講堂を社会教育的な場、公会堂的な用途として使うというような、コミュニティーの中心として機能するように設計されています」

震災の教訓から… 防災拠点としての復興小学校

子どもたちがのびのび学び、地域の人も行き交う復興小学校。 
震災の教訓を生かし、防災の拠点としても大きな役割を担ってきました。

校舎には、災害時の避難を想定して設計された部分が数多く残っています。

廊下や階段は子どもたちが一斉に移動できるよう、幅を広めにとっています。

校庭へ出るための扉は10か所以上もあり、子どもたちがすぐに外へ出られるよう工夫されています。

昭和30年ごろ

校舎とセットで整備されたのが「復興小公園」と呼ばれるスペースです。 
児童が使わないときは地域の人が自由に出入りでき、災害時は避難所として利用することが想定されていました。

下谷小学校には、学校が避難所になることを前提にした災害時の細かい役割分担やルール作りをした記録が残っていて、学校だけでなく地域の防災拠点として活用されてきたことがうかがえます。

今回のお別れ会を企画した卒業生のひとり、石井弘芳さんです。 
石井さんは江戸時代から続く表具店の店主で、親子2代で下谷小に通いました。現在は地元の町会長も務めています。

石井弘芳 
さん

(この写真は)プール掃除しているところですね。これは地域の防災とかそういう時に、夏休みに集まってやっていると思います。

 

戦時中、下谷小は空襲で焼け出された人の避難先にもなりました。

このプールは、空襲での火災に備え、貯水池として作られたものです。戦後も毎年、プールを使って、放水などの訓練が続けられていたといいます。

放水訓練の様子

 

このプールの中の水をポンプで引いて、ドジョウをまいて取って、遊んでもらいながら、防災の訓練を消防署の人が来てやっていました。

校庭に地域の子どもたちとその親が集まり、災害時を想定したキャンプを行ったことも。 
食料など、備蓄品をたっぷり用意して臨んだ石井さん。思わぬ出来事があった当時のことが今も忘れられないそうです。

石井弘芳さん 
「地震が来た日の夜を想定して避難訓練をしました。夜9時くらいに集まって、校庭にテントを張って、翌日は乾パンとかアルファ米を炊いて食べる予定でしたね。 
そしたら、12時前ごろになると雨が降ってきちゃった。いざ避難しなきゃならないってことで、みんなで大慌てで講堂とか教室に入ったりして、ほんとの避難訓練になっちゃった」

これからの地域防災 どう継承していくか…

学校としての役目を終えた後も、避難所として地域を支えてきた下谷小学校。 
解体に伴い、避難場所も別の場所に移ることになりました。

地域住民の移り変わりも進む中、これまで築き上げてきた地域のつながりや防災意識をどう継承していくのかが、新たな課題です。

共立女子大学 小林正泰 准教授 
「復興小学校があることによって、ある意味での関東大震災のモニュメントとして機能するという部分もあると思うんですよね。 
その地域にそういう学校があるということによって、震災の記憶が呼び起こされて、それが間接的に防災意識にもつながる。ただ建物がなくなってしまうと、震災そのものの記憶が薄れていく。そういう可能性はあるのかなと思います」

 

石井弘芳さん 
「今後は、隣町に避難することになっているんですけども、みんなでいつ来るかわからない地震とか、震災も含めてだけども、横のつながりをしっかり持って、いざというときの協力体制ができるような町会にしたいなとは思っていますね」

旧下谷小学校の跡地の一部には、上野警察署が移転してくる予定で、残りの敷地の用途については検討中だということです。 石井さんたちは、今後防災に役立つ活用法ができないか、区などと相談していきたいと話していました。 

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