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  • 2023年8月9日

関東大震災から100年 あの日の東京や横浜とらえた43枚 〜ある写真師の軌跡〜

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焼け落ちた浅草の仲見世、崩れた新橋の駅舎。そして倒壊した鶴岡八幡宮。 
その1枚を見るだけで、どこでどんな被害があったのか、手に取るようにわかった。 
この写真を撮影したのは新聞記者ではなく“写真師”。首都が混乱の極みにあった大地震の直後、なぜ撮影に向かったのか。(首都圏局/記者 直井良介・映像制作 石井孝典)

植村漣平という写真師

火災で焼けた銀座。

揺れで天井が崩れた新橋の駅舎。

由比ヶ浜の津波被害。

NHKにはこれまで多くの方から写真が寄贈されてきました。今回、震災100年にあわせて知財センターなどでWEB上に地図化する試みを進めています。こうした写真を見る中で、私たちは「どんな人が撮影したのだろう」という疑問がわいてきました。 
特に気になったのが、43枚にのぼる写真を寄贈した植村漣平という人物です。

調べてみると国立国会図書館に収蔵されている人物録にその人の名前は残っていました。

『植村漣平  
青山寫眞館 植村スタヂオ 赤坂區青山 静岡縣人 
明治廿七年六月同縣田方郡三島町に生る 大正二年三島商業卒業 同十年開業す 
趣味旅行』

渋谷の写真館で

寄贈していただいた時の資料をもとに調べると、なんと私たちの職場のすぐ近く、渋谷駅のすぐ前に写真館があることがわかりました。

漣平の孫、植村栄一さんもカメラマンで、写真スタジオを経営しています。 
 

植村漣平

栄一さんは漣平のことを“写真師”といいます。 
戦前は東京・青山で「青山写真館」を経営し、肖像写真や家族写真など人物の写真を撮り続けました。戦後は今の渋谷に店を構え、90歳で亡くなりました。 
晩年もスーツ姿でスタジオにあらわれ、栄一さんの父親、漣平の息子の撮影を黙って見ていたそうです。

100年前のカメラが残っていた

関東大震災が起きたちょうど100年前は、漣平は29歳でした。 
当時は、まだ青山の写真館に弟子入りしていたといいますが、当時使っていたとみられるカメラが残っていました。

ドイツ製のカメラで、地震の直後に使ったのかはわかりませんが、専門家に聞いたところ、関東大震災のころ、持ち運びができるカメラとして、カメラマンの多くが使っていたものであることは確認できました。 
大きな弁当箱のようですが、撮影するときはレンズのある面を引き出して使います。 
フィルムではなく、特殊な加工が施されたガラス製の板を差し込み、暗幕をかぶってシャッターを切ります。

漣平が残した写真について、プロの写真家でもある栄一さんは、腕前が優れたことを示す写真だと言います。

三越呉服店(日本橋三越本店)内部が焼けるも壁や骨組みは残り、現在も使われている

植村栄一さん 
「写真の3/1ほどのところに地平線があり、写真の手前には惨状が写っています。 
さらに、写真の中にランドマークとなるものが写っていて、ここがどこで、なにを写したいと思っているのか、一目で伝わります。 
デジタル化された今のように何枚も撮るわけにはいきません。ここまで構図が決まって撮れているのは腕がよかった証拠だと思います」

足取りの手がかりとなるアルバム

もう一つ、貴重なものが見つかりました。「関東大震災写真帳」です。 
生前、漣平が自らとじたというアルバム。めくっていくと、あることに気づきました。 
冒頭は、火災で焼けた銀座。その後、横浜に向けて南下し、小田原、そして箱根で終わっていました。 
43枚をどんな順番で撮ったのか、漣平の足跡をうかがわせるものだったのです。

野毛山不動尊より見た被災後の横浜市

倒壊した鶴岡八幡宮の舞殿(下拝殿・正面左から撮影)

行程は片道でも実に100キロ。 
写真を写し取るガラスの板は重いため、それほど多くを持ち運べません。 
こうした当時の機材を考えると、青山の店と被災現場の往復を繰り返した可能性もあります。

なぜそこまで?

孫の栄一さんにとっての漣平は「寡黙で、とても優しいおじいちゃん」でした。 
なぜ、そこまでして被災地を撮り続けたのかを尋ねました。

植村栄一さん 
「漣平さんは、関東大震災について最期まで多くを語りませんでした。聞いても終始無言でした。思い出したくなかったようです。よっぽど辛かったのでしょうね」

上野の山で

漣平が死去して40年近く。カメラを構えていたころを直接知る人はもういないのではないかとあきらめかけたところ、なんと栄一さんのおばにあたる、漣平の次女が健在だというのです。

飛田千枝子さん 
「上野の山に来たときに、なにしろもう街が全部焼けていて、見通しがよすぎてビックリしたと言っていました。それで、写真を撮ったみたいです」

待ち合わせ場所にした上野公園でそう語ったのは、飛田千枝子さん。御年93歳になります。

上野駅は当時、大規模な火災被害にあって周囲は焼けました。

上野駅周辺の線路や浅草方面を撮影 遠くにうっすら見えるのは凌雲閣

漣平が残した写真は、燃え残った駅舎と、一面に広がる焼け跡、そして遠くには浅草の名所「凌雲閣」が1枚に収められています。

東京都台東区浅草 関東大震災直後の凌雲閣周辺を南西側から撮影

「浅草寺では、迷子札っていうんですかね。『私はここにいるから、いたら教えてほしい』という札。焼け残った木札に焼墨で書いてね、それがたくさん置いてあったって、そういう話を聞きましたね」

漣平の足音を聞いた気がしました。

“寡黙さ”そして“ひたむきさ”漣平の姿

東京・青山で写真館を経営していた漣平ですが、本当は絵描きになりたかったのだそうです。

飛田千枝子さん 
「父は、静岡県の三島出身です。本当は絵描きになりたかったんです。だから、とにかく上野の美術学校に行きたかった。ですが、学校に通っているのがお金持ちのご子息ばっかりなので、絵描きをあきらめて写真家になったんです」

その後、青山の写真館に弟子入りし、店を受け継いだ漣平。飛田さんの知る漣平はやはり寡黙で、写真とひたむきに向き合っていたといいます。

「もう一生懸命な人ですよ。ひたすら真面目な人ですから。タバコも吸わなきゃ、お酒も飲まない。夜、トイレに起きて、父の部屋の前を通ると、部屋に明かりがついていましてね。一生懸命、仕事をしている。写真の修正を一枚一枚手作業でしているの。その姿を見てね、子どもながら感心していました」

そして、父親の撮った写真を見た飛田さんは、誇らしそうにこうも言いました。

「父の撮った写真は、みんな変色してませんでしょう?昔の写真はね、変色する写真が少なくないんですよ。昔の写真は、現像するときに薬を使うんだけれど、それを水で洗うの。薬品を取りきらないと、劣化が早い。父はそれをすごく嫌がっていましたね。『写真は末代まで残るものだから、変色したものを残すものじゃない。隅々まで丁寧に洗いなさい』と、よく言っていましたね」

”空襲の街でも“

漣平はなぜ、関東大震災の写真を撮ったのでしょうか。飛田さんに聞きました。

少し考えた飛田さん。

「“記録に残したいっていう使命感”だったんじゃないでしょうかね」

このように語って、漣平の使命感を感じさせるエピソードを教えてくれました。

関東大震災からおよそ30年後、ふたたび東京が猛火にさらされたときのことです。 
太平洋戦争で空襲があった直後、漣平は焼けた東京の街に出て、シャッターを切り続けていたのだそうです。

「帰ってきた父は、足を引きずっていました。燃え残った木材を踏んづけて、やけどをしていたんです。そうなってもまだ、撮り続けていたんです」

漣平は、戦後も常に二眼レフのカメラを首から提げていたのだそうです。 
戦争で、青山の写真館は燃えました。が、このアルバムは残りました。 
記録は残っていませんが、なんとか持ち出したのかもしれません。

飛田さんは、父親の残したアルバムを愛おしそうに眺めながら、こうつぶやきました。

「カメラマン魂ですかね。父親の信念っていうのがこの1冊に残ってますものね。東京に大きな地震があって、多くの人が亡くなったっていうことを若い世代の方たちに知ってもらえたらありがたいです」

漣平を突き動かしたものは、カメラマンとしての使命でした。

写真は後世に残るものだと信じて撮り続けたものが、100年後の今、こうして貴重な資料となっています。 
取材を終えて、改めて写真を眺めたとき、カメラを抱えた漣平と目があったような気がしました。

浅草寺(右上)の仲見世を行きかう人々 関東大震災直後

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