関東大震災直後の浅草・浅草寺を映した写真です。NHKに残されていました。手前は焼け落ちて黒く焦げた状態になっていますが、奥に見える本堂や五重塔はその姿をとどめています。周辺の焼け残った一角とあわせて“奇蹟”とも言われていました。100年前、地震に伴う大火災で、当時の東京市の4割は焼失、浅草寺も東西南北全てを火に囲まれていました。なぜ、浅草寺は無事だったのか。その謎に迫りました。
(首都圏局/記者 牧野慎太朗)
まず、向かったのは浅草寺です。戦争も挟み、100年前の記録は残されていないだろうと思っていましたが、尋ねてみると、当時の状況を記した資料が残されていることがわかりました。その数、冊子や絵画など10数点。
「浅草観世音堂猛火包囲之実況」
まず興味深かったのは、こちらの「浅草観世音堂猛火包囲之実況」というタイトルの絵図です。震災のおよそ2か月後に描かれたものだそうです。
よく見ると、この絵図でも周辺に火の手が迫っているのに、本堂や五重塔は焼け残っています。そして、その足元には荷物などを持った多くの人の姿が描かれています。
多くの人が寺に集まっていた状況は浅草寺が残していた冊子にも記載されていました。浅草寺では、震災の翌年(大正13年)から「聖潮」という冊子を発行していて、その中に震災当時の記述があったのです。
「『逃げろ』、群集が寺の庭に逃げ込んだ」
「(寺の)周囲は完全に火の海で出るに出られず篭城するような形になってしまった」
「寺の庭が人でいっぱいになった」
読み取れたのは、周辺から焼け残っていた浅草寺に多くの人が詰めかけたこと、さらにその後しばらく境内で過ごしていた人がいたということでした。
なかには震災後3か月ほど寺で過ごしていた人もいたようです。資料を見せてくれた浅草寺の学芸員、藤元裕二さんが「震災当時、焼け残った寺は避難所の役割を果たしていたそうです」と教えてくれました。
こちらもNHKに残されていた浅草寺の写真です。たしかに本堂の周辺を多くの人が行き来している様子が収められていました。当時、支援の拠点としての機能を果たしたと考えられています。
ただ、状況は切迫していたようで、避難者の様子を記したこんな記載もありました。
「沢山の鯉の群を震災の時なだれ込んだ避難者が鉄の棒ではたいて、ブリキ板の上へのせ下から火をたいて焼いて食べてしまった」
「池のコイを食べる」なんて、平常時ではなかなか考えられませんが、支援物資も限られていた当時、境内の池にいた多くの鯉を、詰めかけた避難者が空腹から食べられてしまったようです。
浅草寺 藤元裕二 学芸員
「当時、浅草寺には数万という方が避難してきたようです。みなさん着のみ着のまま、持つものも持たず、境内に逃げ込んだ方が多くいらっしゃったようで、境内の池にいた鯉を食べてしまったのも、それだけ深刻な状況だったのだと思います。関東大震災では、浅草寺の北も南も西も、そして東側も焼けていますので、ほぼ周りは火に囲まれていた、もう逃げ込む場所としたら、もしかしたら浅草公園、浅草寺しかなかったのかもしれません」
関東大震災 当時
関東大震災と言えば火災被害というイメージはありましたが、逃げ込む場所すら限られていたという被害の全体像はどのようなものだったのでしょうか。
地震が起きたのは1923年(大正12年)9月1日午前11時58分でした。これは、およそ1時間後と24時間以上経ったあとの火災の延焼範囲を示した地図です。火災が延焼する速度は比較的ゆっくりですが、当時は強風に見舞われていました。
内閣府の資料などによると、当時の東京市(現在の千代田区や港区、台東区など)では、130か所余りで火災が発生し、このうち70か所以上で消し止められずに火が広がりました。
そのため延焼範囲が広がり、皇居の北側と東側の一帯が焼け落ちました。面積でいうと当時の東京市の実に4割に上り、5万人あまりが犠牲になりました。
延焼範囲が広がった一方で、浅草寺一帯は、ぽっかりと島のように焼け残っていました。なぜ、周辺が燃える中で焼け残ることができたのでしょうか。いまの境内にそのヒントが残されていると聞き、防火対策に詳しい東京理科大学の菅原進一名誉教授と現地を歩きました。
東京理科大学名誉教授 菅原進一さん
菅原さんが指摘したのは、構造的な要因です。境内にある樹木や広場に着目し、これらが延焼防止に役立った可能性があると指摘しました。確かに当時の記録を見ても、浅草寺の境内には複数の樹木が植えられ、構造物のない大きなスペース、いわゆる広場のような場所が確保されていました。
菅原さんは当時風向きに恵まれたことや、避難した人たちが懸命の消火活動を行ったことに加え、こうした樹木や広場が火災の延焼を食い止め、境内に避難していた多くの人の命を救った可能性があるというのです。
菅原さんの指摘を受けて、延焼範囲の地図をよく見てみると、浅草寺があった浅草公園だけでなく、上野公園や日比谷公園でも延焼が止まり、焼け残っていることがわかります。内閣府の資料によると、これらの場所には当時、数万の人が避難して無事だったようです。
東京理科大学名誉教授 菅原進一さん
「周辺の樹木は生きている木ですから、中に水分をいっぱい含んでいるので、熱を抑える働きがあります。これが周辺に多く配置されていたら防波堤のような形になって延焼防止には役立つと思いますし、さらに大きな広場があれば、燃えるモノがないために、火の広がりを食い止めることもできますので、これらが当時の効果を発揮したのではないかと思います」
当時、火災を食い止めたとされる樹木や広場。その後の復興計画の記録を見ると、この震災の経験が生かされていることがわかります。それが、都内各地にいまもある「公園」です。
消失した皇居の北側や東側のエリアを中心に55か所の公園が新たに設けられることになったのです。内訳は「復興大公園」が3か所(隅田公園・浜町公園・錦糸公園)、「復興小公園」が52か所です。
内閣府の資料によると、このうち「復興小公園」は防火対策のために、園地の4割を植え込みにして、火災に強い常緑広葉樹を配置し、噴水などの水の活用を行うなどの防災的な配慮がされたそうで、火災の教訓が生かされた作りとなっています。
復興後は住民の憩いの場ともなりました。「都市公園」や「児童公園」のモデルとなったとも言われています。
ただ、時代の移り変わりとともに、「復興小公園」のうち3か所は、周辺の開発などによってなくなり、園内の樹木も火災に強い常緑広葉樹ではなく別の木に植え替えられているところもありました。
菅原さんは、100年経ったいまでも当時の教訓をもとに作られた公園は、地震後の住民の集合場所になりうるほか、住民同士のつながりを維持する役割も担っているとして、周辺の開発が進む中でもしっかりと残していくべきだと指摘していました。
菅原進一さん
「震災後なにもしようとしなければ開発が進んで、公園ではなく全部家が建ってしまっていたと思いますが、当時の人が教訓を生かそうとして、これだけ多くの公園がいまに残っている意味を改めて考える必要があると思います。防災や地域コミュニティの形成などにおいて、決して無駄ではないこの空間をしっかりと次の世代にもつないでいくことが大事だと思います」
私も、この取材をするまで100年前の関東大震災の被害の実態や、現存する公園の成り立ちが震災と関係していることについて、ほとんど知りませんでした。関東大震災は、東京の街を形成するうえでターニングポイントとなった大災害で、100年経った今のまちづくりにも与えた影響は大きいようです。
今後も震災の取材を通して、今につながる教訓や課題をお伝えしたいと思います。