4月29日、東京ディズニーリゾートの開園40周年などを記念したスペシャルパレードが、地元・千葉県浦安市で開催されました。そのパレードの内容を詳しくお伝えするとともに、開園前の地元自治体の資料から、地元を挙げて開園を待ちわびていた様子を紹介します。
(千葉放送局記者 池田侑太郎、金子ひとみ)
4月29日正午すぎ。浦安市明海にあるシンボルロード交流広場前からパレードがスタートしました。強い風は吹いていましたが、天候は晴れ。絶好のお祭りびよりです。
千葉県のマスコットキャラクター「チーバくん」の姿も見えました。このパレードは、千葉県誕生150周年と浦安市市制施行40周年(※)を記念したものだからです。ここに、開園40周年を迎える東京ディズニーリゾートのスペシャルパレードも加わります。
(※)浦安町が浦安市となって2021年で40周年です。コロナ禍で記念行事が見送られていました。
浦安市や近隣の市川市、船橋市の小学生や中学生、高校生たちが順番に演奏を披露していきました。合間に手を振ったりポーズを取ったり、児童や生徒たちは誇らしい様子でパフォーマンスしていきます。
甲子園アルプススタンドの応援が「美爆音」として知られる習志野市立習志野高校の吹奏楽部も参加。工夫に富んだ迫力ある演奏で盛り上げていました。
そして、午後1時前。沿道を埋め尽くした人たちがいっせいにカメラのレンズをパレードのスタート方向に向けました。
待ちに待ったミッキーマウスたちディズニーキャラクターの登場です。特別な衣装に身を包み、手を振ったりポーズを取ったりすると、集まった人たちはいっせいに写真を撮ったり声をかけたりしていました。浦安市によりますと、この日、およそ6万人が集まったということです。
近くに住んでいます。毎晩、ディズニーランドから花火の音は聞こえるのですが、しばらく行ったことがなかった。きょうは、いろんな小中学校の子どもたちの演奏もよかったし、楽しめました。
童心に返って思い切り手を振りました。こんなにたくさんの人が集まったのは、コロナが少し落ち着いて、みんなこういう場を楽しみにしていたんだろうなと思いました。
こういう場で手を振ったことないんですが、きょうは思わず興奮して手を振りました。ミッキーと同じ市にいる、そばにいるということを実感し、ここに住んでいてよかったと思えました。各地からたくさんの人たちが来てくれるような幅広い取り組みを今後も市に行ってほしいです。
沿道のみなさんの期待がいかに大きいものかを実感しました。笑顔をたくさん見ることができて本当によかったです。東京ディズニーリゾートは、日本を代表する施設で、エンターテインメントが蓄積されています。40周年を機に、さらに国内外の人たちを惹きつけられればと思います。
こんなにたくさんの方が詰めかけてくださった中で、無事、終えることができて、ほっとしています。先人の尽力・努力があったからこそ今があり、これを受け継いで、未来に向けたまちづくりをしていかなくてはならないと思いました。
いまや浦安市のシンボルとなっているディズニーリゾート。市に残っている資料にどのように記されているかを調べてみました。
まずは1985年(昭和60年)に刊行された浦安市史。1973年度(昭和48年度)から1980年度(昭和55年度)までの市政施行へ向けての浦安町の変遷が紹介されています。この市史の72ページから74ページにかけて、開園前の東京ディズニーランドについて記載されています。(文中の「オ社」はオリエンタルランドのこと)
「国際的なレジャーランドとして開発が進められている。この経緯については、昭和三十七年、オ社が米国のウォルト・ディズニー・プロダクションズ(以下「W・D・P」)に非公式ではあるが協力要請をしたことに端を発している」(浦安市史P72より)
「昭和四十六年十月、オ社はW・D・Pとの具体的な交渉を開始し、同四十八年七月には、『すばらしい人間とその世界』をテーマとしたレジャー施設の基本計画を発表した。しかし、計画がこれまでの我が国のレジャーランド施設の概念をはるかに超えたものであったため、具体的な建設見通しは容易に立たなかった。そこで、オ社はレジャーランド経営を産業として成功させているW・D・Pとの業務連携が、レジャーランド計画を成功させる上で決定的要因になると判断し、同プロとの折衝を続けた」(浦安市史P72~P73より)
「ディズニー誘致については、本町のほか、伊豆や富士山麓などが候補地として上がっていた。しかし、昭和四十九年十二月ディズニー首脳が来日、現地を視察した結果、W・D・Pは日本進出、それも海外進出の第一番目として、その対象を浦安レジャーランドプロジェクトと決定することを表明した」(浦安市史P73より)
このほか浦安市史には、1959年(昭和34年)に当時の浦安町議会が大型遊園地の誘致を決議したことや1977年(昭和52年)に名称が「東京ディズニーランド」と決定したことなども記されています。
浦安市議会には、ディズニーランド開園5年前の1978年(昭和53年)2月に、当時の熊川好生町長や町議会のメンバーがアメリカを視察した報告書が残されていました。
行程表の内容の一部を抜粋します。
2月 7日 6:00 PM 公民館出発
2月 8日(水) 曇のち雨
2:00PM ウォルトディズニープロダクション株主総会視察
3:30PM バスにてディズニーランド中央入場口へ
4:00PM ディズニーランド視察
2月10日(金) 曇
9:30AM バスにてバーバンクのディズニープロダクション本社へ
11:30AM 東京ディズニーランド計画について質疑応答
2月12日(日) 晴
3:30PM 町長 W.F.T.V.記者インタビュー
6:15PM テレビ放映(W.F.T.V.9チャンネル)
視察団は、ディズニーワールドのあるカリフォルニア州アナハイムとフロリダ州オーランドをそれぞれ訪問し、市当局やディズニー首脳との意見交換を行っていました。
今回、公開されたのは視察団メンバーの発言のみですが、浦安町側がディズニーランドの建設に大きな期待を寄せていたことが読み取れます。
「浦安町が挙げて、東京ディズニーランドの実現を歓迎していることを身をもって証明するためにやってまいりました」
「かって本町では、べか舟によって漁業が栄え町の経済が維持されて来ました。今このべか舟は(中略)魔法によってシンデレラの黄金の馬車に美事に変身しようとしていることを心から期待しております」
(ディズニー首脳との会議における熊川好生町長の発言)
「東京ディズニーは本町の誇りとして、いや日本の文化的財産として次の世代に末永く継続されるであろう事を私は信じて疑いません」
「私達の国日本では可愛いミッキーマウスや可憐な白雪姫はカーター大統領以上に人々に人気があり、親しまれております」
「かわいいミッキー坊やによろしくとお伝えください」
(ディズニー首脳との会議における大塚一郎議長の発言)
浦安市史には、この視察から1年2か月後の1979年(昭和54年)4月、ディズニー社とオリエンタルランドの間で、契約が成立し、建設が正式に決定されたことが記されています。
浦安市史の続編として、1999年に刊行された浦安市史【まちづくり編】や浦安市史【生活編】には、市や市民と東京ディズニーランドの関わりについて次のような記載があります。
東京圏に取り残されたような小さな漁業集落であった浦安にとって、漁業権を放棄し、海面を埋立て、新たな道を歩きだすということはたいへんな決意であった。(中略)
東京ディズニーランドは、いまや1私企業の営利施設というよりも、今日の余暇時代をリードする国民的・社会的施設となってきている。こうした施設の立地する市は、東京ディズニーランドの開園以前とは比較にならないほど、全国的にその知名度がアップし、都市イメージも大きく向上した。(浦安市史【まちづくり編】P127~P128より)
「浦安子どもの生活調査」によると、浦安の小学生について、過去一年間に東京ディズニーランドに行ったことがある子どもの比率は七八%。つまり五人中四人が行ったことがあると答えている。(中略)また、小学生で年間パスポート(通称年パス)を持っている子どもは全体の一三%に及び、しばしばこの施設を訪れていることが推測される。(浦安市史【生活編】P208より)
東京ディズニーリゾートは、なくてはならない浦安市のアイデンティティーとも言える存在です。今後も、ともに、成長・発展していけるような関係でありたいと思っています。
NHK千葉放送局では、「ディズニーランドとともに成長してきた」と話す女性についての記事も近く公開する予定です。お楽しみに。