「東京ディズニーリゾート」は、今月15日で開業40年を迎えます。
昭和58年4月、千葉県浦安市舞浜の埋め立て地に「東京ディズニーランド」が開業しましたが、実はその前に、我孫子市に「手賀沼ディズニーランド計画」があったのをご存じですか?そして、当初浦安に計画されていたのは「オリエンタルランド」という別の遊園地でした。開業40年の機会に、一大テーマパーク建設を巡る歴史をひもときます。
(千葉放送局記者 岡本基良)
新年の曙光は手賀沼から
健全なる観光娯楽のデズニーランド式施設を計画、用地買収と沼沿岸十数万坪の埋め立て計画が進められつつあります。
(広報あびこ 昭和36年1月1日号より抜粋)
60年余り前、我孫子町(当時)の町民向け広報誌で、町長が記した新年のあいさつです。併せて掲載された「施設計画図」には、手賀沼の湖畔に、劇場やコースターなどが入るテーマパークが計画されているのが見て取れます。
実は、この「施設計画図」には「ミッキーマウス」「バンビ」などと思われる手書きのイラストが添えられていました。しかし、版権などの問題があったとして、現在、我孫子市が公開している資料からは削除されています。
東京に近く自然が豊かな手賀沼周辺は、戦前から行楽地として期待されていました。
昭和29年、はじめに競艇場を建設する計画がありました。しかし、埋め立てを伴うことによる環境破壊や、治安の悪化などへの不安を理由に、地域の住民から強い反対の声が上がり、翌年には計画が断念されます。
その後、昭和34年には、3年後の東京オリンピックのボート競技会場を誘致する動きが出ます。しかしそれも、埼玉県戸田市に誘致合戦で敗れて断念します。
「手賀沼ディズニーランド」の計画は、そのような中で持ち上がりました。
昭和34年、東京にあった後楽園の当時の社長らが、手賀沼を開発する新たな会社の設立を表明。「後楽園、上野動物園、船橋ヘルスセンターを合わせたような」大遊園地を手賀沼に建設しようという構想が打ち上げられました。
この会社は、地元への説明で「広域にわたる世界に冠たる観光事業を計画しているもので、ロサンゼルス郊外のディズニーランドの規模を参考として事業を進める」としました。これが「手賀沼ディズニーランド計画」と呼ばれる理由です。
新たに設立された会社には、政財界の大物が名を連ねました。
【開発会社の役員となった人の肩書き】
元東京都知事、東京都競馬株式会社会長、丸善土地社長、日本炭礦社長、後楽園社長、京成電鉄社長、東武鉄道社長
事業計画書では、次のような壮大な内容が描かれ、開園予定は東京オリンピック(昭和39年)までとされました。
●敷地は約30万坪(購入予定地10万坪、埋め立て造成予定地20万坪)
●ヘルスセンター地区、科学の国、おとぎの国、冒険の国、体育エリアの各ブロックに分かれる
●施設は、温泉・ジェットコースター・メリーゴーラウンド・釣り堀・観覧船・野外劇場・プール・体育館・陸上競技場・野球場・テニスコート・ケーブルカー・キャンプ場・科学館・水族館など
地元は、我孫子町議会が「誘致協力に関する決議」を全会一致で可決するなど、強く歓迎します。冒頭の町長の新年(昭和36年)のあいさつにもつながりました。
しかしその後、埋め立て工事が進むにつれて手賀沼の汚染が進み、昭和39年ごろから事業会社の財務状況も悪化していきます。事業会社は、埋め立て地への住宅地の整備を希望するようになり、結果、「手賀沼ディズニーランド計画」は断念。その後、埋め立て地は多くが宅地として分譲されたほか、県立我孫子高校も建設されました。
「はたして手賀沼にとって、遊園地で人びとが賑わう方がよかったのか、住宅地として静寂が保たれる方がよかったのか。ともあれ、これ以降、手賀沼は深刻な水質汚染と闘いつつ、新たな観光開発のあり方を模索していくことになる」(我孫子市史「近現代編」より)
ではなぜ、「東京ディズニーリゾート」は浦安に建設されたのか。その歴史の発端は、昭和34年の浦安町議会(当時)による「大型遊園地誘致」の決議でした。
それより前、浦安の海では、アサリ、シジミ、シャコ、カレイなどが多く生息し、漁業が盛んでした。しかし、戦後の復興の中で東京湾の水質汚染などが進んで漁業が行き詰まり、漁業者も含めて打開策の検討を迫られました。その結果、「海面を埋め立てて大型遊園地などを誘致する」という方針がまとまり、町議会で決議が行われました。
当時は各地で遊園地の建設が相次いでいた時期で、昭和30年に後楽園、昭和38年に読売ランドが開業しています。この時期には「手賀沼ディズニーランド」の計画も進んでいました。
そうした中で昭和35年、三井不動産や京成電鉄などが「オリエンタルランド」という会社を設立します。この会社は、浦安沖の海面を埋め立てて「オリエンタルランド」という“東洋一のレジャーランド”建設を目指しました。当時は「ディズニーランド」の誘致ありきではありませんでした。
「オリエンタルランド」の計画は、大規模遊園地をメインとし、一時はドーム球場やゴルフ場の建設も盛り込まれるなど、さまざまな内容が検討されました。昭和49年に千葉県が承認した「オリエンタルランド(レジャー施設)基本計画」における施設の計画は、次のような内容になっています(一部省略・要約あり)。
●ホールエリア スポーツ競技、国際的な講演会などの大規模な催し物が行われる広場。敷地の中心には「マルチユースホール」が建設される。
●プレイランド 従来の遊園地に欠けていた人間性の尊重と人びとの共鳴の場という内容を盛り込んだもので、ディズニーランドの要素を盛り込もうという意図のもと計画された。
●スイミングガーデン 夏は海洋レジャー基地として、そのほかの季節は水上公園として利用するプール施設。大型プール、公式プール、子供プール、急流プール、波乗りプールなどを計画。
●スポーツクラブ 全天候型テニスコート(90面)、乗馬場、大アスレチックジム、屋内プール、ボーディングハーバー、アーチェリー場など多彩なスポーツ施設群で構成。
また、建設に向けた大きな課題の1つに、浦安沖の埋め立てがありました。しかし、漁業補償交渉の結果、昭和37年に漁業協同組合が漁業権の一部放棄に合意(後年、全面放棄にも合意)。埋め立て工事が進められました。
ディズニーの誘致は、会社が昭和37年にアメリカの「ウォルト・ディズニー・プロダクションズ」に非公式ながら協力を要請したことが始まりです。しかし当時、ディズニー側は難色を示したとされています。
その後、昭和46年に会社が改めてディズニー側と交渉を開始。社長が渡米してディズニー側の社長と交渉するなどしたほか、昭和49年には、浦安が適地であることなどをまとめたリポートを提出しました。当時、国内では伊豆や富士山麓も誘致に乗り出していたとされる中、交渉を続けた結果、昭和49年にディズニー側の幹部が来日して浦安への進出を表明。アメリカ国外で初めてとなる「ディズニーランド」誘致の実現が決まりました。
40年前の昭和58年4月15日。開業初日はあいにくの雨でしたが、午前中だけで2万人が訪れたとされています。アメリカ国外で初めてとなるディズニーランドの開業となり、アメリカから本社の幹部も招き、開業を記念するテープカットが行われました。
当時の入園料は大人2500円、子ども1500円。開業を伝えるニュースでは、「パーク内のお店の看板が英語表記ばかりで、何を売っているのか分からないから困る」という来園者のインタビューもありました。
その後、「東京ディズニーランド」の周辺では、ホテルの建設や「東京ディズニーシー」の開業、舞浜駅前の商業施設の建設などの開発が続けられました。
浦安市の成人式は、毎年パーク内で行われるようになり、「東京ディズニーリゾート」は地域にとって欠かせない存在となり、今日に至っています。
「オリエンタルランド」と千葉県は、ことしが「東京ディズニーリゾート」の開園40周年と、千葉県誕生150周年の節目の年になることから、1月に包括連携協定を結びました。ことし中に県内数か所で記念パレードを行うことにしています。
第1回は地元・浦安市で行われることが決まっています。そのほかの地域は5月以降に発表される見通しです。
【浦安市市制施行40年 千葉県誕生150周年を記念した式典およびパレード】
日時:2023年4月29日(祝)午前11時~午後1時
場所:総合公園(明海7丁目2番)内特設ステージほか
内容:式典、市民団体パレード、東京ディズニーリゾートのスペシャルパレード
「東京ディズニーリゾート」と千葉県がどのように歩みを進めてきたのか、NHK千葉放送局では、今後も取材を進めていきます。