30年前あまり前に千葉県茂原市の公衆電話ボックスに突然“出現”した巨大なセミ。もちろんオブジェですが、その場違いな異質さにたびたびメディアやSNSなどで話題になってきました。その巨大セミのオブジェがこのほど、お色直ししたうえで電話ボックスから公民館の壁へと「止まり木」を変更したのです。でも、どうしてそこに移されたのでしょうか。
(千葉放送局記者 大岡靖幸)
公衆電話ボックスの壁にしがみつくよう にとまった巨大なセミのオブジェ。宮崎駿監督の作品「風の谷のナウシカ」の「腐海」に生息する巨大な蟲(むし)か、はたまた異世界にでも迷い込んだのか。そんなことを思わずにいられない破壊力を持つセミのオブジェは、茂原市にあった旧NTT茂原支店が30年余り前の1992年に制作し、敷地内の公衆電話ボックスに設置しました。
セミの高さは2メートルあまり。電話ボックスと同じくらいの巨大さで、ボックスの内側からはガラス越しにリアルな腹部も丸見えです。見た目のインパクトと異質さに、メディアやSNSなどでたびたび話題となってきました。
このセミのオブジェ、モデルとなっているのは体長3センチほどの小型のセミ「ヒメハルゼミ」です。茂原市教育委員会の学芸員、古山千尋さんにセミの標本を見せてもらいました。薄い茶色の体に透明な羽根。真夏によく見るアブラゼミやミンミンゼミよりはるかに小さく、かわいらしいセミという印象です。
古山さんによると、ヒメハルゼミは6月下旬から7月下旬にかけて地上に出てきますが、小さいうえ、高い木の枝にとまるため、その姿を見ることはなかなか出来ないそうです。鳴き方に特徴があり、リーダー役のオスが鳴き始めると、集団全体が追随して一斉に鳴き始め、大合唱になるのだとか。
茂原市内には、ヒメハルゼミの“聖地”ともいえる貴重な場所があります。ヒミハルゼミは明治35年ごろ、当時の鶴枝村、現在の茂原市上永吉の「八幡山」ではじめて発見されました。発見したのは地元の郷土史家、林寿祐氏。このセミは北海道大学の昆虫学者、松村松年博士によって新種と確認されました。愛知県の女性昆虫学者が、小さいという意味の「姫」を付けて「姫春蝉(ヒメハルゼミ)」と名付けたということです。ちなみに発見者の林寿祐氏は、この春からのNHK連続テレビ小説「らんまん」の主人公のモデルとなった植物学者、牧野富太郎博士とも親交があったそうです。
そしてこのヒメハルゼミが発見された「八幡山」は、茨城県や新潟県の生息地とともに生息の北限とされ、昭和16年に「鶴枝ヒメハルゼミ発生地」として国の天然記念物に指定されました。巨大なオブジェは、このヒメハルゼミの貴重な発生地の存在を広く知ってもらおうと作られたものだったのです。
しかし、NTT茂原支店のビルは老朽化して取り壊されることになり、敷地内の電話ボックスも撤去されることになりました。なんとかセミのオブジェを残せないかーー。思案したNTT東日本から茂原市にセミのオブジェが寄贈され、「鶴枝公民館」に移設されることになったのです。
そして4月4日、NTT東日本の境麻千子・千葉事業部長と茂原市の田中豊彦市長らが出席し、お披露目の式典が開かれました。
「30年以上公衆電話ボックスにとまり続け、人と人とのコミュニケーションを見守り続けたヒメハルゼミが、地域の皆さんが交流する公民館に移設され、天然記念物や地球環境保護などSDGsの取り組みのシンボルとなればうれしく思います」
地元の保育所の園児らが除幕して、お披露目されたヒメハルゼミのオブジェ。体が茶色、羽は白色と本物のヒメハルゼミに似せた色合いに塗り直されていました。公衆電話ボックスにとまっていたころは色がとれたりあせたりして白っぽくなり、無機質な不気味さが際立っていましたが、着色されたことで不気味さが薄れ、可愛くなったように見えます。
大きさや形も変わっていませんが、公民館の外壁に設置されたためか、電話ボックスに設置されていたころと比べると心なしか小さくなったように感じられました。このヒメハルゼミのオブジェの感想を、除幕式を手伝った園児たちにも聞いてみました。「大きくて怖い」といった声が出るかなと思っていましたが……。
「でかくてかっこいいと思った」
「虫が好きだから、うれしかった」
意外な大好評でした。
それにしてもこのオブジェ、どうしてこの公民館に移設されたのでしょうか?その答えは公民館の所在地にありました。鶴枝公民館のすぐ裏手にあるこんもりした小さな山。これこそがヒメハルゼミが初めて発見された「八幡山」なのです。
八幡山を含む周辺は「鶴枝地区」と呼ばれていて、ヒメハルゼミは地元の誇り、シンボルとして昔から特別な存在でした。八幡山のすぐ近くにある鶴枝小学校では、「歴史を告げる ひめはるぜみよ 若葉のかおる かげ清く」と校歌の歌詞にも取り入れられ、総合学習としてヒメハルゼミについて学んでいます。
八幡山は、ある時期から竹が増えてヒメハルゼミが生息しにくい環境に変わってしまったため、地元の人などを中心に竹を伐採して環境を維持する取り組みも20年ほど前から行われています。ヒメハルゼミのオブジェはまさに“聖地”のお膝元に納まるべくして納まったのです。
茂原市教育委員会の学芸員、古山さんに八幡山を案内してもらいました。
八幡山は高さが40メートルほどの小山で、中腹には1000年余り前に建てられた「鶴枝八幡神社」があります。神社へ続く石段の手前には、この地が「国の天然記念物」であることを示す表示板と、「山に立ち入ったり、植物等を採取しないで下さい」との注意書きが掲げられています。
急な石段を登ると拝殿があり、その周囲はこぢんまりとした境内になっています。境内の地表には新緑のこけ類が豊かに生えていました。神社の周囲には冬でも落葉しないシイ類やカシ類といった照葉樹林が生えています。ヒメハルゼミはこうした照葉樹林の森に生息するということです。
オブジェが八幡山のお膝元に移設されたことについて古山さんは。
「非常にインパクトが強く、初めて見る方にも印象に残ると思うので、そこから興味を持ってもらえればいいと思います。子どもが小さな頃からヒメハルゼミがなじみのある存在になれば、大人になってからも郷土の文化として守っていってもらえるのでは。地元にとっても大切な存在なので、これからも次の世代に伝えていけたらと思います」
今回の取材のきっかけは「セミのオブジェが移設され、除幕式が行われる」という事前の取材案内でした。その時点ですでに公衆電話ボックスはNTTのビルとともに取り壊された後で、残念ながら巨大なセミが電話ボックスにとまっている姿を直接見ることは出来ませんでしたが、小さなヒメハルゼミの大きな存在感に触れることができ、興味深い取材となりました。お色直ししたオブジェは少し可愛くなっていて、新しいゆるキャラとしても通用しそうに思いました。