家康を天下人に押し上げた「井伊直政の知られざる交渉力」 【関ヶ原の戦い】
- 2023年12月28日
徳川四天王の一人、井伊直政。遠江国の祝田、今の浜松市で生まれた戦国時代の武将です。井伊直政が率いる井伊軍団のあまりの強さに、戦場では「井伊の赤鬼」と恐れられました。徳川軍最強といわれた井伊直政率いる軍団の武勇と、「関ヶ原の戦い」を前に主君・家康を天下人に押し上げた直政の隠れた交渉力をお伝えします。
「井伊の赤鬼」と呼ばれて ~「赤備え」の初陣 小牧・長久手の戦い~
徳川四天王の一人、井伊直政が使ったと伝えられる朱色の甲冑です。徳川家康の命令で、井伊家では藩主から家臣にいたるまで、甲冑や旗など武具一式を朱色で統一しました。
これを「井伊の赤備え(あかぞなえ)」と呼びます。
永禄4年(1561年)浜松で生まれ、15歳で家康に仕えた直政。徳川が北条と領地を争った時、22歳の直政が停戦の使者となり交渉をまとめました。外交で力を発揮し始めた直政は、家康の直属部隊の大将に抜擢されました。
当時家康の直属部隊の大将を務めていたのは、三河以来の家臣である本多忠勝・榊原康政・鳥居元忠・大久保忠世という家康の側近たち。徳川家臣団の中で若き直政は家康から大事な役割を任されました。
直政率いる井伊隊の武勇を高めた戦いがあります。天正12年(1584年)に、家康と豊臣秀吉が唯一直接対決をした「小牧・長久手の戦い」です。
徳川軍の最前列に構えた井伊隊は、「鬼武蔵(おにむさし)」と恐れられた猛将・森長可と激しい乱戦になり、井伊の鉄砲隊が森長可を討ち取りました。その後、徳川軍が優勢となり豊臣軍は敗れました。
長久手の戦いで井伊直政が率いる井伊隊のあまりの強さに、
戦場では豊臣軍から「井伊の赤鬼」と恐れられました。
関ヶ原の戦いまでわずか2年、水面下の駆け引きとは
~家康も認める卓越した交渉力~
直政が率いる井伊隊の勇猛な働きぶりとは別に、家康が認めていた直政が持つ
もうひとつの能力は、敵方の武将を味方に引き込む交渉力です。
直政の交渉力が、もっとも発揮されたのが、天下分け目の「関ヶ原の戦い」です。
秀吉亡き後、家康が名乗りを上げた天下取りの戦い。
勝敗の分かれ目は、秀吉の死後から「関ヶ原の戦い」までのわずか2年間で、
どれだけ多くの豊臣方の武将を味方につけられるかどうかにかかっていました。
秀吉が亡くなってわずか4か月後、家康の命令で直政はその交渉に取りかかります。
直政の交渉相手は黒田長政。戦国武将 黒田如水の息子です。父・如水は、織田信長の命令で中国・毛利攻めを担当した豊臣秀吉の下で軍事・外交担当として秀吉を支えました。
黒田如水は秀吉の軍師として名をはせ、黒田家は毛利家をはじめとする豊臣方の武将たちと深く結びついて、豊臣政権で大きな影響力を持っていました。
★慶長3年11月【関ヶ原の戦いまで、残り1年10か月】
慶長3年11月、朝鮮出兵から帰国した黒田如水と徳川家康が直接対面しました。
天下が乱れることを見越した両者の思惑が一致して、速やかに同盟が結ばれました。
長年、彦根井伊家および井伊直政を研究している立命館大学非常勤講師の野田浩子さんです。徳川家が黒田家と同盟を結んだことは関ヶ原の戦いへの勝利に向けた第一歩だったと考えています。
機密文書#1 「秀吉の死後4か月で、どうする?」
★慶長3年12月【関ヶ原の戦いまで、残り1年9か月】
徳川家と黒田家が同盟を結んだ時に交わされた「起しょう文」です。井伊直政と黒田長政の両者が秘密裏に交わした文書が、福岡市博物館に残っています。「起しょう文」とは、神仏に誓って約束を守るという当時の誓約書で、戦国大名の間では対立する者同士が和睦を決めたり同盟関係を結ぶ時に「起しょう文」が交わされたと考えられています。
秀吉が亡くなった後、豊臣政権がまだどのようにいくか分からない状態で、
徳川と黒田がこの様な盟約関係にあったことは、他の武将も知らないことでした。その中で盟約を結び、情報交換をして、おそらく仮想の敵としては石田三成がいたと思うのですけれど。徳川や黒田が政権の中で主導権を握るために、両者がこのように盟約を結んだのではないでしょうか?
慶長3年12月の段階では、豊臣恩顧の武将たちは朝鮮半島から戻ってきて、
まだ休憩をしている段階でした。徳川家と黒田家が「豊臣政権の先」を見据えているとは、当時誰も気がついていませんでした。
実はその時すでに、徳川家と黒田家が盟約を結んでいた。
その交渉の実行役が井伊直政と黒田長政でした。徳川・黒田両家の関係を示したのが、この「起しょう文」であると考えています。
直政と黒田長政は、「お互いが嘘をつかない」、「情報交換をすること」という盟約の条件を「起しょう文」で取り交わしています。
Q.秀吉亡き後、どうして徳川家康は黒田親子に目を付けたのでしょうか?
秀吉亡き後の豊臣政権では、家康は五大老のひとりでした。
一方、豊臣恩顧の武将たちは朝鮮半島で苦労して、石田三成と対立関係にありました。お互い(徳川・黒田)が勢力を強めるために、徳川家康と黒田如水が結びついたんじゃないかと考えています。
Q.家康と父・如水ではなく、なぜ【直政と子・長政】が直接交渉したのか?
徳川家康と黒田如水が盟約を結ぶという話になりましたけど、盟約を実際に実行するのは、その息子である黒田長政と一番の家臣である井伊直政。
この二人が話し合いをして、作戦を実行していったと考えています。
Q.直政は主君・家康から認められていた?
井伊直政は、豊臣政権の中や他の大名との間の交渉役として既に活躍していました。豊臣政権の中で、直政は「侍従」という大名並みの位をもらっています。これは直政が家康の息子並みに扱われていたと考えています。当時は、他の大名も自分の息子を交渉役や当主の名代として活躍させるということをしています。よって直政は豊臣政権の中で、家康の代わりに他の大名と交渉していたということがいえると思います。その関係を引き継いで、直政は黒田長政と交渉を進めていったと思います。
Q.当時、徳川家が黒田家と同盟を結んだメリットは何ですか?
黒田家は毛利家もそうですし、豊臣諸将を徳川方の味方につけた中核になる手腕は計り知れないと思います。その黒田家と直接やりとりをしたのが井伊直政でした。直政と黒田長政の2人の中で、いろいろな物事が決められて、それ(水面下の交渉)を実行していったのが黒田長政で、(長政が)徳川方への味方を増やしていったと考えています。
Q.黒田長政はどういう人物だったのか?
(若い頃の)黒田長政は、加藤清正や福島正則と一緒に秀吉の正室・ねねの下で育っています。つまり、長政は彼ら(加藤や福島)と気ごころが知れた仲間だったということがあります。ですので、「黒田長政の言うことなら、加藤清正や福島正則も言うことを聞くだろう」という関係が、(黒田、加藤、福島の3人の中で)築かれていました。
機密文書#2 「家康の命が狙われて、どうする?」
★慶長4年1月【関ヶ原の戦いまで、残り1年8か月】
中でも、野田さんが注目する書状があります。主君・家康の命を豊臣方の武将から守ろうと、直政が黒田長政と共に計画を練ったと考えられる文書です。
年が明けて慶長4(1599年)年1月に、徳川家康が政権から糾弾される事件が起こります。それは家康が他の大名たち、伊達政宗などと私(わたくし)に婚婚姻を結んだということで、豊臣方の奉行衆から糾弾されるわけなんですけど。その時に直政と黒田長政が活躍していました。 そして、この書状が出されたと考えています。
緊迫した状況の中で、直政と長政が直接会って、緊密に連絡を取り合っていたことをうかがわせる様子が伝わってくる文章です。直政から黒田長政に宛てた短く簡潔につづられた書状です。
直政が黒田長政に宛てた書状で、まず「昨日は来ていただいて有難うございました」と書かれています。
「その(時)話した内容を家康に伝えた所、
それを受けて、この後もう一度(直政が)長政と話をしたい」、
「藤堂高虎とも話をしたいので、お時間はどうですか」という内容の書状です。
家康の屋敷を(警備するために)囲むにあたって、おそらく井伊直政と黒田長政が事前に話し合いをしていた。その話し合いのやり取りを、この書状から読み取ることができます。
当時、「徳川家康が豊臣政権から糾弾される」事件があった中で、黒田長政をはじめとする一部の豊臣恩顧の武将たちが、家康の屋敷に兵を出して警備をしました。
この動きによって、黒田長政や他の豊臣諸将たちが『徳川方の味方をするよ』ということを世の中に知らしめる結果となり、豊臣政権にとって大きな出来事だったと考えられています。
「黒田長政らの出兵に関わって、この書状が直政から黒田長政に出された」と野田さんは考えています。
家康が豊臣政権から糾弾されている中で、豊臣諸将たちが家康の屋敷を守るということは、「家康にこれだけの味方がいるんだぞ!!」ということを示すことになります。
この関係が、このあと「関ヶ原の戦い」の構図に直接結びつく訳なんですね。この関係が初めて出来上がったのが、「一部の豊臣諸将たちが家康屋敷を警備した」事件であり、その関係を作ったのが直政と黒田長政との話し合いでした。
豊臣政権の武将に家康が命を狙われる中、直政と長政が相談して徳川家のピンチを乗り越えたとされています。
機密文書#3 「関ヶ原の戦いの前日に、どうする?」
★慶長5年(1600年)9月14日【「関ヶ原の戦い」の前日】
直政を通して家康の意向を受けた黒田長政は、「関ヶ原の戦い」が始まる直前まで、敵方の石田三成に味方する豊臣恩顧の武将の説得を続けました。
「関ヶ原の戦い」の前日(慶長5年9月14日)には、直政が毛利家一門の重臣であった
吉川広家と「起しょう文」を交わしています。
「毛利方が徳川方に味方するのであれば、領地を認めようと。それまで毛利家が持つ領地をそのまま認めよう」という内容です。。毛利家にしてみれば、大将・毛利輝元は西軍についていますが、「ここで徳川方の味方をすることによって、今までの領地が認められる、毛利家を安堵できる」という思惑があったと野田さんは考えています。
直政とやり取りを重ねた黒田長政が交渉を進めた結果、「関ヶ原の戦い」で勝利の要因となった敵の最大勢力である毛利一族(吉川広家や小早川秀秋)を、戦いの直前に徳川方に引き入れることに成功しています。
そして家康は「関ヶ原の戦い」で見事勝利。ついに事実上の天下人となりました。
表からは決してうかがうことができない「井伊直政の知られざる交渉力」。
直政と黒田長政が協力して、多くの豊臣恩顧の武将を徳川軍の味方に引き入れたことが、家康を天下人に押し上げる大きな要因となりました。
家康が残した言葉「開国の元勲」をひも解く
直政の功績をたたえて、家康が残した言葉があります。
胸に秘めた直政の覚悟とは
「井伊の赤備え」に象徴される武勇だけでなく、
卓越した交渉力で、家康を天下人に押し上げた井伊直政。
直政と黒田長政の尽力で書かれた文書が伝える、直政が主君・家康に尽くした証です。
取材こぼれ話 ~「赤備え」の記憶を後世に伝える石碑~
「赤備え」(井伊隊)の初陣である「長久手の戦い」で武勇をあげた井伊直政。井伊鉄砲隊が討ち取った豊臣軍きっての猛将・森長可にゆかりのある石碑が今も残っています。「赤備え」の武勇を後世まで伝えています。
長久手市 生涯学習課の川出康博 学芸員によると、
江戸時代では徳川家として「小牧・長久手の戦い」の勝利を大々的に取り上げて、顕彰碑を建てるなどの活動が盛んに行われていました。尾張藩は領内で「小牧・長久手の戦い」が繰り広げられたため、その顕彰活動が特に盛んに行われたといいます。藩主自らが合戦について講義をしたり、藩士が古戦場跡を見学する活動が行われました。徳川家にとって「小牧・長久手の戦い」は、家康が「三河以来 家康に付き従った徳川家臣団」と一緒に豊臣秀吉を打ち破った戦いです。一方で、「関ヶ原の戦い」は、家康と一緒に戦った多くが豊臣恩顧の武将でした。徳川家として徳川幕府創設のための戦いとしては、
「関ヶ原の戦い」を大々的に顕彰しにくいという理由があったと考えられるということです。