徳川家康の秘策!【長篠の戦い】武田軍との勝敗を分けた鉄砲玉
- 2023年09月30日
▽【家康と鉄砲玉】 ~2023年7月28日「たっぷり静岡」にて放送~
長篠の戦いの記憶を今に伝える「鉄砲玉」。近年の科学分析で、徳川軍が自ら調達した鉛で作ったと考えられる玉の存在も明らかになっています。戦国大名・徳川家康の生き残り術に迫ります。
徳川VS武田 命運分けた「長篠の戦い」
武田勝頼が攻める長篠城(愛知県新城市)を救うために向かった織田・徳川連合軍。 火縄銃と馬防柵を組み合わせた新しい戦い方は、各地の戦国大名に衝撃を与えました。長篠の戦いは、新しい装備と組織戦への転換を促す戦いになったといわれています。
織田・徳川連合軍3000丁・武田軍1000丁といわれる鉄砲が、この戦いで使われました。
鉄砲の数も兵力(連合軍3万8000:武田軍1万5000)にも差がありますが、勝敗を分けたのは火縄銃で使う火薬や使える鉄砲玉の数量と近年の研究では考えられています。
火縄銃が3000丁対1000丁という、3倍か?、3分の1か?、という数量ではなく、戦いで使える火薬の量や鉄砲玉の数も大きく関係しています
徳川家臣団も大活躍!
多くの鉄砲が使われた戦いの様子は合戦図にも描かれています。家康の布陣は戦いが厳しく最も激しい激戦地でした。鉄砲隊を率いた徳川家の家臣、大久保忠世(ただよ)忠佐(ただすけ)兄弟の活躍などで、武田軍との戦いを有利に進めていきました。
家康 どう鉄砲玉を確保する
これまでに設楽原の古戦場では19個の鉄砲玉が発見されています。そのうち資料館の敷地で見つかった玉3個は徳川軍のものだと推測されています。
家康自身も鉄砲玉に関してすべてを信長に頼るのではなく、自分たち(徳川軍)でまかなえる準備をしようと考えた結果、鉱山開発に行き着いたと考えられます
戦国に生き残りをかけた鉱山開発
当時、鉄砲に必要な火薬や鉄砲玉は輸入に頼る貴重品でした。
織田信長は、貿易港である大阪・堺をおさえていたため、東南アジアや中国などから火薬や鉄砲玉を手に入れることが可能でした。
家康は同盟を結んでいた信長の貿易に頼るだけではなく、鉱山を開発することで自分たち(徳川軍)で鉄砲玉をまかなえる準備を進めていました。
2年前、専門機関に出土した玉の鉛の成分分析を依頼しました。分析の結果、鉛山で採掘された鉛が原料であることがわかりました。
当時の鉄砲玉は、加工がしやすい鉛で出来たものが主流です。
鉛という鉄砲玉の素材を確保しておくことは、これから徳川が長く戦国の中で生きていくことを考えた時に、鉄砲が戦いの主力になってくることを家康自身もわかっていたのだと思います
鉛山についての家康文書
さらに愛知県史には、家康がこの鉛山を大切に管理することを命じた古文書が残っています。
長篠の戦いの4年前に出された家康の書状です。家康が領地内で鉱山開発を推し進めていたことがうかがえます。
鉛を生産することが徳川家にとって非常に重要なことです。鉛を生産する人たちに対して、諸役(いろいろな仕事)を免除するという特権を与えたということになります。家康からすれば、特権を与えるほど鉛山の管理を、(家康が)大切に考えていたことがわかる文書だと思います
鉄砲玉が活路を見出す
鉛を生産できる拠点を持っているか?持っていないか?ということは、家康が戦国大名として生き残れるか生き残れないかという基準になってくると思います。自分たちの支配地域にある鉱山の開発というのは家康にとって重要なことだったと考えられます。
戦いで使われた鉄砲玉を詳しく分析することで、残された書状と鉱山の結びつきも明らかになってきました。家康が戦国時代を生き抜くために鉄砲をどのように考えていたのでしょうか。
鉄砲は戦いを短期間で終わらせる一つの役割を演じていると思います。家康からすると火縄銃というのは戦国時代を終わらせるための道具の一つだったと考えられます
群雄割拠の戦国時代。小さな鉄砲玉が、家康の生き抜いたすべを今も伝えています。