仙台はどうして街中にも木が多いの?
今回のみやぎUP-DATEでは、こちらの投稿にお応えします!
たしかに、市の中心部にも街路樹が多いですよね。
仙台市によると、都市が緑に覆われている面積の割合は、全国の政令指定都市の中でも上位なのだそう。
いつから木が多いの?
安藤さん 「仙台市中心部にやってきました。 周りを見ると、紅葉も始まっていて綺麗ですね。」 |
仙台ではいつ頃から町に木が多いのか。
町の歴史を調べている、仙台市博物館の中武 敏彦さんにお話を聞きました。
安藤さん 「仙台市は『杜の都』と呼ばれますが、昔から木は多かったんでしょうか?」 |
中武さん 「はい。まずはこちらのパネルをご覧ください。」 |
中武さん 「絵図を見ると、このように屋敷にはたくさんの木々が植えられていることが分かりますけれども、これらの多くは武家屋敷に植えられた木々を表しています。」 |
仙台藩では、初代藩主の伊達政宗が屋敷林を奨励したそうです。
中武さん 「新たに仙台の城下町を作るにあたりまして、木材が非常に必要となりました。 そのため、成長の早いスギなどの植林が奨励されました。 柿とかクルミとかですね、いざというときの食料 のための木も、植林が奨励されるようになりました。」 |
一度は失われた木々
武士の時代が終わった後も、仙台にはたくさんの木がありました。
こちらは昭和初期の写真です。
中武さん 「市街地にもたくさんの木々が残っていたことが分かります。 都会でありながら緑に覆われた仙台は、やがて『杜の都』と呼ばれるようになりました。」 |
しかし、生い茂っていた木々はある時、その姿を消します。
昭和20年の仙台空襲です。
杜の都と呼ばれた町は、焼け野原となりました。
今の街並みはどうやってできた?
空襲の後、町はどんな変遷をたどったのでしょうか。
仙台市百年の森推進課の熊谷 純さんに聞きました。
安藤さん 「素晴らしいケヤキ並木ですが、このあたりも一時は焼け野原になったのでしょうか?」 |
熊谷さん 「そうですね。 その後の戦災復興事業でですね、主要な道路の一つとして整備されたのがこの定禅寺通です。 ケヤキ並木で、杜の都の再建を目指しました。」 |
昭和33年、市はおよそ160本のケヤキを植樹しました。
青葉通、広瀬通の街路樹も戦後復興の際に植えられた樹木だそうです。
熊谷さん 「防災の観点から、延焼を防ぐということ。 緑美しい都市景観の創出を目的に植栽をしました。」 |
安藤さん 「(当時の人々は)どういう気持ちで植えたと思われますか?」 |
熊谷さん 「緑を植えてですね、心の潤いも作り出していこう。そういう思いがあったかと思います。」 |
木々の成長とともに、町も徐々に復興。
仙台では各地に、樹木と歩んできた地域の歴史があります。
受け継がれる木
安藤さん 「仙台市では、このような本も発行しています。 仙台市の保存樹木が、写真とともに紹介されています。」 |
その中の1つ、東二番丁小学校のクスノキ。
仙台空襲で校舎ごと焼失したものの、その3年後、再び若芽が出ているのを当時の子どもたちが発見しました。
現在は15mを超える大樹に育ち、学校のシンボルになっていて、
校舎も、クスノキにあわせて丸くえぐったような形にしています。
東二番丁小学校 菅澤 和弘校長 「このたくましさ、そして粘り強さを、子どもたちにも学び取ってもらいたいと思っています。」 |
このクスノキは子どもたちも大切にしています。
「クスノキを1年生のころから見ているので、すごく落ち着きます。」
「このクスノキと一緒に、もっと育ちたいなって思います。」
ずっと大事にされてきたクスノキ、これからも子どもたちを見守っていてほしいですね。
安藤のひとこと。
安藤さん 「私も街路樹の四季折々の風景とても楽しみにしているんですけが、こうした風景が仙台に暮らす人々の心をいつの時代も癒やしてきたんじゃないかなと思います。 これからも『杜の都』と呼ばれるような風景を大切にしていきたいなと感じました。」 |
※今回の放送で、「東二番丁小学校」を「東二番町小学校」と誤って表記していました。
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