東日本大震災 りんごちゃんが語る"あの日"

"あなたの町の映像アルバム"の イベントに参加した青森県十和田市出身のりんごちゃんに、
“あの日”のこと、そして、“あの日”からのことについて、語ってもらいました。

 

2011年3月11日、りんごちゃんはどこで何をされていましたか?

(りんごちゃん)
東京で下積み時代っていうんですかね、バイトづくめだったりしてて。休憩で、家で横になって寝ていたんですよね。何で気づいたかというと、フライパンが落ちてきた音で気づいたんです。バコーン、バーンみたいな音で気づいて、もう疲れていたのもあって、何事かわからなくて。フライパンと、お玉とかで母親が起こしに来るみたいな。バンバンみたいな感じで、「えっ、何で?」っていう感じで。上京して独り暮らしなのに、「誰が起こしに来たの?」みたいに思って。当時、部屋の中にすごいCDを並べていたりしてたんですけど、それが何かバサバサ落ちてきて、「これ、大変だ」と思って。私、そのときの瞬間を覚えているんですけど、即座に、家族が浮かんだというか、「えっ、みんな、大丈夫?」って思って。家族もそうですし、周りの人が「どうなっている?」と思って。
(りんごちゃん)
すぐさま、親に電話したんですけど、つながらなくて。実家が青森なので、東北は電話が出来ない状態で、回線がストップしていたというか、全然つながらなくて、それもまた、不安が増していって。どうしよう、どうしようと思って、すごく不安な時間でしたね。職場はもちろん、お休みというか、全てがストップしている状態だったので。家にいて、もう、ずーっと永遠と、とにかく、実家、両親に電話をかけ続けるっていう日でしたね。

東京の自宅で地震に遭ったりんごちゃん。真っ先に頭に浮かんだのは、家族のことでした。
その後、両親と電話はつながりましたが、不安は尽きなかったといいます。

(りんごちゃん)
実家が中華料理屋なんですけど、冷蔵庫や冷凍庫の物がダメになってしまって、店はお休みしていましたよね。私、普段、自分が大変というより、周りが心配っていうのがあって。そういうときだからこそ、頑張らなきゃって思うタイプで。親も私と似ているというか、私が親に似たんだと思いますけど…。大変なときこそ、強がるというか、良い意味で。母親は「電気が何日かつかなかったけど、大丈夫だよ」って。本当は大丈夫かわからないけど、「大丈夫」って言ってくれる親ではあるんですけど。こっちは心配でした。大丈夫かなって。

ものまねタレントとしてブレイクし、多くの人に知られるようになったりんごちゃん。
その後、ライブで被災地をたびたび訪れることがあったそうです。

(りんごちゃん)
少し時間がたってから、りんごちゃんのステージで(被災地へ)行くこととかもあって。被災した現場が見える近くだったりして。映像とか写真では見るけど、自分の目で見たときに、衝撃的というか…、何て言うのかな…。本当に傷ついた人たちの心が伝わってくるというか、近くで見て感じましたね。めちゃくちゃ大変だったんだろうなと思って。被災地の人たちにたくさん笑って、元気出してもらいたいなと思って。

“あの日”の経験によって、日々の生活や仕事に向かう姿勢が変わってきたといいます。

(りんごちゃん)
3月11日のときに家族の顔が浮かんだりとか、電話がつながらなくて不安だったり。家族の声を聞いたときに、すごく安心したというのがあるんですけど、普段、なにげない電話だったり、人とこうやって会ったり、顔を見たりしているけど、あの日から感じることは、当たり前なことって、当たり前じゃないってすごく感じていて。後悔をしないように、話したい人と話す、伝えたいことを伝える、一緒に写真を撮る、当たり前でちょっとおろそかになったりすることも、おろそかにしないように生活しています。
(りんごちゃん)
一つ一つのステージの時間が大事っていうのはすごく思いました。今のこの時間が大事。こうやって近くでお客様だったり、人と人が笑い合えるっていうのも、これも、当たり前のようになっていますけど、実際、当たり前じゃない。だからこそ、あの日から、その時間をすごく、大事に思える。すごくパフォーマンスを120%で出来るようになりました。

りんごちゃん、貴重なお話をありがとうございました。

 

NHK仙台局のサイト「あの日、何をしていましたか?」では、
みなさんの2011年3月11日について投稿を募集しています。
あの日、何をしていましたか?|NHK仙台 みんなの3.11プロジェクト