ふるさとを忘れない 俳優・歌手 中村雅俊さん

「忘れない」。

俳優で歌手の中村雅俊さんが、被災地に伝えるメッセージです。9月11日、東日本大震災から12年半が経過しました。中村さんは宮城県女川町の出身。上京し、一度は離れたふるさとに、震災後、思いを寄せ続けてきました。「時間がたっても、伝え続けたい」と話す、中村さんの思いとは。

(仙台放送局・岩田宗太郎)


【“早く女川町を飛び出したかった”】

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俳優で歌手の中村雅俊さん。
東日本大震災の津波で壊滅的な被害を受けた、宮城県女川町出身です。

1974年にテレビドラマで主演デビューし、ドラマの挿入歌「ふれあい」、「俺たちの旅」などのヒット曲でも知られています。近年では、NHKの連続テレビ小説「半分、青い。」のヒロイン、永野芽郁さんの祖父役を演じて話題になりました。

震災から12年半がたち、新たな商業施設がオープンするなど復興が進んだ女川町について「行く度に景色が変わり、笑顔が増えていった」と振り返る中村さん。子どもの時の思い出を聞くと「早く出て行きたかった」という意外な答えが返ってきました。

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「住んでいた場所は、目の前はすぐ海。すぐ後ろは山。とにかく夏場は海に飛び込んだり、潜ったりして1日を過ごしていました。

女川町は、人口は少ないのに、そのくせ港町で活気があった。飲み屋さんがいっぱいあって、元気な大人たちがいっぱいいる。そういう環境で育ったんですが、こういう街だからこそ、何か外へ飛び出さなきゃっていうそういう気持ちはすごく強くありました。

もし、俺が仙台市の生まれで、そのまま仙台で育ったら、仙台でもいいやと思っていたのかもしれないけれど、女川という特殊な街だったので、東京に対する憧れがずいぶん小さいころからありました」

 

 【離れたはずの女川を初めて意識した震災】

高校卒業後、女川町を出て大学に通い、そして、俳優・歌手として活動を始めた中村さん。2011年3月の東日本大震災の揺れを感じた際に、すぐに津波が来ると感じていました。

「東日本大震災が起きたとき、同じ役者の三宅裕司さんと2人で東京で撮影していました。あまりにも揺れが大きくて、ただごとじゃないなと思っていたら、震源地が、女川町の横並びの沖合。これは津波が起きるとすぐに感じました。子供のときから、地震が起きたら津波だとずっと教えられていましたし、小学校5、6年のときにチリ地震津波を経験していて、実際に逃げた記憶もありました。報道で、震災の被害を知るにつれて、なんとしても地元に戻らなければと」

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一度は飛び出したふるさと。地元に思いを寄せるきっかけになったのが、震災でした。しかし、震災の翌月、女川町に戻った中村さんが目にしたのは、変わり果てた町の姿でした。

「女川の街を見下ろしたときにもうがれきだらけで、壊滅状態だった。俺が育った家の隣には印刷所があって、畳屋があって。ちゃんと立地も知っているはずなのに、その場に行って見てもわかんない。本当に悲惨な状態でした。

極端な言い方すると“田舎は捨てていくものだ”みたいな意識はあって東京に出てきて。女川はそういう存在だったんですけど、初めてに近いのですが、すごい地元意識が生まれて。とにかく自分のできることをやろうと」

 
【歌の力を感じた地元での活動】

その後、何度も地元を訪れ、寄り添い、支援を行ってきた中村さん。代表曲でもある「ふれあい」などの曲を歌ったり、被災した人と話したりする中で、驚いたことがあったと言います。それは、女川町の情景を歌詞にした、若いときに作った「私の町」という歌を聴いた人が涙を流していたことでした。中村さんは、今は見ることができない女川の風景を思い起こさせていたのだと感じていました。

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「『私の町』というのは、20歳くらいのときに作った歌で、女川の景色を歌詞にしました。女川駅は、着く直前にトンネルがあるんです。トンネル出て、ホームがあって。駅舎を降りると、わりとすぐに海が見えて、漁船がある。実際の歌詞はこんな感じです。

 トンネルを抜けると港が見えるのさ。
 短いホームに汽車は止まるだろ。
 これが私の町なのさ
 
この歌を聴いている人たちがとても泣いていて、びっくりして。あとで『ああそうか。俺が歌で歌っている景色は、今、崩壊していてないんだもんな』と。女川の人たちは聴きながら、今はない女川の景色を思い浮かべていたのかなと。同時に歌の力を感じましたよね」


【心の復興は、これからも続く】

中村さんは、東日本大震災から12年半が経過する中で、町の復興が進んだとする一方で、人の、特に心の復興にはまだ時間がかかると感じています。そのためにも、これからもふるさとに寄り添い続けたいと話しています。

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「復興・復旧は12年以上かけて、だんだん目的が達成されていきつつある。そういうインフラ、建物はちゃんと計画があるから、計画通りに進むと思うのですが、人に関しては思った通りにはいかないんじゃないか。

女川のことを例にすると、外に働きに出た人は戻ってこないし、被災された人たちは10年以上たてば、気持ちが元に戻るんじゃないかというと、それもそうでもない。やっぱり心にできた傷あとは、どうしてもなくならないっていう現実あるだろうし、人間の精神面で元に戻る、心の復興はまだまだこれからも戦いは続くんじゃないかなと」

最後に、中村さんにメッセージをいただくと、迷うことなく「忘れない」ということばを選びました。「女川のことを忘れない」という思いとともに、東日本大震災で被災しなかった全国の人に「震災の被害を忘れてほしくない」という気持ちが込められています。

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「被災された人たちは忘れたいという意識はあるでしょうけども、同時に忘れないっていう意識を持つこと。今まで運よく被災していない全国の人たちが、やっぱり他人ごとじゃないという意識を持つことで、減災にもつながると感じる。そういう意味で“忘れない”ということばを伝えようと思いました」


【メッセージが伝えたいこと】

「忘れない」という中村さんのメッセージには、当時、被災しなかった人たちにも震災のことを思い出してもらい、防災・減災について考えてほしいという意味も込められています。中村さんのように、被災したふるさとを見続けてきた人たちのことばを通して、災害時にどのようにしたら命を守ることができるのか、改めて考えるきっかけにもしてほしいと感じたインタビューでした。


230914_nakamura_iwata_.jpg仙台放送局記者 岩田宗太郎
2011年入局
宇都宮放送局、報道局 科学・文化部を経て
2022年8月から仙台放送局

仙台では、ホヤをさばいては味わう日々を過ごしています