行方わからぬ娘のランドセル
石巻市の伝承施設に展示されたランドセル。持ち主の女の子は、多くの児童と教職員が犠牲になった大川小学校で被災し、今も行方がわかっていません。
震災から11年以上がたったことし6月、手元にずっと置いていたこのランドセルを両親が初めて施設に移し、展示しました。その思いを取材しました。
(石巻支局記者 藤家亜里紗)
【行方がわからない娘のランドセル】
石巻市の震災伝承施設に展示された赤いランドセル。中には教科書や読んでいた本が入ったままです。
ランドセルの持ち主は震災当時、小学4年生だった鈴木巴那さんです。児童と教職員合わせて84人が犠牲になった石巻市の大川小学校で、津波に巻き込まれました。
6年生だった巴那さんの兄、堅登さんは亡くなり、巴那さんはいまも行方がわかっていません。
明るく活発でおしゃれだった巴那さんは、お兄ちゃんが大好きで、いつでもいっしょにいたといいます。
ランドセルは、震災のあと、校舎の屋根の上で見つかりました。泥をかぶったままではかわいそうだと、祖母が何度も洗っては乾かし、きれいにしました。
ランドセルの中には音読の宿題のカードも残っていました。
最後に書かれていたのは震災前日の3月10日でした。楽しみにしていた自分の誕生日の3月22日に印をつけていましたが、その日を迎えることはできませんでした。
【捜索を続ける母親の実穂さん】
ランドセルの展示を決めたのは母親の鈴木実穂さんです。いまも夫の義明さんと2人で巴那さんを捜し続けていて、捜索できる場所を見つけては毎月のように海岸付近に足を運んでいます。
この日は大川小学校から3キロほど離れた砂浜を訪れました。震災前に家族でピクニックに来たことがある場所です。この砂浜では津波で護岸が倒れたままとなっていて、何か手がかりが残っていないかと何度も砂を掘り起こしていました。
【なぜランドセルを展示したのか】
実穂さんは娘と会えるまではと、取材に応じるのを控えてきましたが、ランドセルの展示をきっかけに、娘につづった手紙を託してくれました。手紙の中でいまも探し続けていることを巴那さんに報告しています。
実穂さんから巴那さんへの手紙 「捜せる場所がまだまだあるんだなぁって気づかされたの。もし、この場所にいたら『ここだよ』って教えてね」 |
ずっと手元に置いていた巴那さんのランドセルをなぜいま展示しようと思ったのか。実穂さんは11年以上経過しても家族と再会できない娘のことを多くの人に知ってほしいという気持ちになった心の動きを語りかけるように手紙に書いていました。
実穂さんから巴那さんへの手紙 「目の前にあるランドセルは、あの日『いってきます』と言って学校に背負ってきた命そのものだということ。11年経っても『おかえり』と言ってあげられない親がいること。言葉や文章で伝えるのではなく、目で見て感じてほしかったのね。自分だったら…って考えてもらいたいの」 |
【11年以上 実穂さんを見てきた久我さん】
ランドセルを展示するときに実穂さんに立ち会った久我真奈美さんです。巴那さんにピアノを教えていました。震災後もずっと実穂さんたちと交流を続けてきた久我さんは、数年前まで笑ったり泣いたりせず、感情を表に出さなかった実穂さんの姿を覚えているといいます。それでも、ランドセルの展示に踏み切った姿に少し変化を感じていました。
久我真奈美さん 「ずっと机の上にあったからそこから放すのも実穂さん自身はさみしかったと思いますよ。見つかることを祈って願って活動していくのだと思う」 |
【母親から娘へのメッセージ】
必ず見つけるという思いは、何年たっても変わりません。
11年半が経過した母親としての娘への思いをつづっていました。
実穂さんから巴那さんへの手紙 「会えなくなってから11年半が経とうとしています。お父さんとお母さんは、真奈美先生やたくさんのお友達に支えられて元気に過ごしています。 最近、巴那とお兄ちゃんの気配を、とても身近に感じるようになりました。 どうして分かるかって?巴那とお兄ちゃんの匂いがしてくるんだよ。だから今いっしょにいるなぁって感じる。 お父さんとお母さんを、いつも見守ってくれて、ありがとう」 |
石巻支局記者 藤家亜里紗
2019年入局し仙台局に
事件取材などを経て去年11月から石巻支局