【キャスター津田より】10月14日放送「福島県 田村市・川内村」

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今回は、2つの自治体の声をご紹介します。はじめに、田村市都路町(たむらし・みやこじまち)です。
田村市の人口は約33,000で、そのうち6%にあたる1,900人あまりが都路町の住民です。都路町は福島第一原発の30㎞圏内にあり、事故の翌日、市の判断で全住民が避難しました。その後、都路町の一部(=原発から20㎞圏内)に限って国から避難指示が出され、それ以外は帰還して居住が可能となりました。2014年4月には国の避難指示も解除となり、県内で最も早い解除として注目されました。現在、都路町の人口の9割以上は、実際に都路町の中で暮らしています。

 はじめに、12年前に田村市船引町(ふねひきまち)の避難所で出会った、畜産農家の松本文子(まつもと・ふみこ)さん(71)を再び訪ねました。自分が生活する避難所で傾聴ボランティアも務めていて、他の自治体からの避難者を“私以上に困っている”と気にかけていました。
 今回改めて聞いてみると、松本さんは我々が取材したすぐ後、避難の1か月後には自宅に戻ることができました。今も高齢者の家を訪ねる見守り活動を引き受けたり、仲間と農産加工グループをつくって伝統の漬物を販売したりと、ボランティア活動が続いています。松本さんの集落は早々に帰還することができたものの、その後も原発事故の影響は続いたそうです。

 「避難所にいても、行かないと牛が死んでいるんじゃないかと思って、1日1回の餌をやりに毎日通っていました。あの思いは忘れられないです。この辺りでは、みんな本気で農業をやっていたんですが、今はもう、この地域で農業をやる人がほとんどいないんです。野菜だって、放射能の検査をしないと売ることも食べることもできない…そうなっちゃうと、高齢の農家はやる気もなくなってくるんですよ」

 集落で20軒あった畜産農家は、2軒になりました。近くの山は未除染のため放牧できず、“放ったらかし”ができないと飼育の手間が増えるため、3年前から息子が手伝っています。放牧によって健康になり、繁殖率も上がるそうですが、今はその効果も期待できません。避難指示解除が遅すぎて離農者が増えた自治体がある一方、避難指示解除が早くても離農者は増えており、結果は一緒です。
次に、都路小学校に行き、児童18人が所属するソフトボールチームの監督から話を聞きました。チームは今年の夏、県大会で初優勝し、都路町は大いに沸きました。監督の加藤久生(かとう・ひさお)さん(50)は、避難後1か月後で帰宅可能になったものの、子どもが通う学校が再開しないため、都路町での小学校再開にあわせて3年後に帰還しました。現在、小学校の児童数は35人で、原発事故前の2割です。6年生が抜けるとメンバーが極端に減り、チームが存続の危機に立たされます。

 「“学校再開しますから戻ってください”であればいいんですけど、“解除しました、学校はまだ再開しません”では戻れませんでした。順番が逆じゃないかなって…。若い人が町を出てから、戻るのが少なくなったのが一番大きいと思います。震災と原発事故で加速化したんですかね。今チームでは、掛け声で“都路魂”と言っています。将来、残っても残らなくても、故郷は大事にしてほしいです」

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冒頭述べたように、人口の大半が都路町の中で生活し、データ上では避難者はわずかです。ただ、そもそも都路町の人口が、震災時点で3,001、現在(9月30日時点)は1,968で、差し引き1,033人(35%)が避難先に住所を移し、他の自治体の住民になりました。これが監督の実感の正体です。
 さらに、アウトドア施設『グリーンパーク都路』内にあるビール醸造所(2020年完成)も訪ねました。地元の農家と協力して2017年からホップを栽培し、クラフトビールを作っています。醸造所を営む本間誠(ほんま・まこと)さん(57)は、震災当時は仙台市在住で、東北電力で原発のPR業務を担当していました。以前からクラフトビールのマニアだった本間さんは、震災の4年後、酒造会社を起業しました。環境に優しいビール醸造ができる地を探し、たどり着いたのが都路町です。

 「原発事故が自分はすごいショックだったんですよ。ものすごいショックで、これからは地球にとって本当にいいことをするような仕事をしたい、そういう思いを持ちました。原発で避難した所でブルワリーをやっても風評被害があるし、こんな山奥でやっても誰も来ないだろう、ビジネスとして成り立たないと、みんな反対しました。でも、ここは標高630mですごくいいホップが採れる、あと、あぶくま洞の天然水をくみ上げて使っている、本当に自然のものしか使っていない、すごくいい場所なんです」

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 現在、ビールの搾りかすをたい肥化してホップ農園で利用し、廃棄物ゼロも達成しています。

続いて、川内村(かわうむら)の声です。川内村は人口が約2,300で、原発事故の5日後、独自に全村避難に踏み切りました。その後、村の東側に国から避難指示が出て、西側は戻って住むことが可能になりました。国の避難指示は、2014年、16年と段階的に解除され、田村市都路町と同様、早くから帰還の制約がなくなりました。現在、人口のうち8割以上は、実際に村で生活しています。
村には今、コンビニも入る小さな商業施設や農産物直売所があり、郵便局、診療所、信用金庫、デイサービスセンターや老人ホームも再開しています。屋内プール施設も整備され、2年前、村内の小中学校を統合した一貫校『川内小中学園』が開校しました。震災後に造成した田ノ入(たのいり)工業団地にはすでに数社が進出し、2015年から川内産のブドウによるワイン製造が官民一体で行われています。

 はじめに、8年前に郡山(こおりやま)市の仮設住宅で取材した、猪狩(いがり)チヨコさん(94)を再び訪ねました。震災前から一人暮らしで、毎週、村外に住む娘が訪ねて来ますが、家事のほとんどは自分でこなしています。以前の取材では、避難所で体調を崩して以降、郡山市内の病院に通っていて、自宅のある地区は帰還が可能なものの、村の医療体制が不安でためらっていました。

 「仮設住宅を出てなくちゃならない時が来たら、どうしようもないよ。家に帰るしかないよ。郡山で家を借りれば月いくらか払うし、そうして病院に通っていたのでは、年金くらいでは生活できない」

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 その後、猪狩さんは言っていた通り、仮設住宅の閉鎖に伴って村へ帰還しました。通う病院を郡山市内から田村市内の病院に変え、行き来には村の送迎サービスを利用しています。

 「(実際、戻ってみると)やっぱりいいね。自分が住んだ所はいいよ。楽しみは、知っている人とお話しすることだね。一人でいるより、みんなで遊んだりするのが一番だね。川内村は住みすい所です」

 その後、村の郊外で5種類のブドウを栽培する、佐久間(さくま)きみ子さん(72)を訪ねました。人気のシャインマスカットをはじめ、ハウスにはブドウがたわわに実っていました。佐久間さんは12年前、寝たきりの義母と、生後15日の孫を連れて避難し、家族6人で親せきの家や仮設住宅で避難生活を送りました。自宅は国の避難指示を免れたため、震災翌年に村へ戻り、介護の末に義父母をみとりました。果樹栽培を始めたのは帰還後で、今では村の品評会で入賞するほどです。

 「果樹栽培なんて何にも知らない、農業の「の」も知らなかったです。果物を目当てにみんな村に遊びに来てくれたらいいかな、そんな思いで始めました。正直、川内村に若者はいないです。この辺の息子さんたち、お嫁さん、お孫さんとか、一緒に住んでいて、いっぱいいたんですよ。避難したと同時に、みんな帰って来ない…。今年やっと、三春町(みはるまち)のほうからお客さんが来てくれたり、やっぱり植えていてよかったです。また頑張らなくちゃと思いました」

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子育て世代が村を離れ、定着していないのは明らかで、村の学校に通う小中学生は、震災直前に232人いましたが、現在は60人あまりにすぎません。
 最後に、震災後いち早く移住した、民泊施設の管理人を務める中村雄紀(なかむら・ゆうき)さん(39)を訪ねました。10年前にいわき市から移り住み、妻と3人の子どもと暮らしています。村内外の人が参加するイベントや交流会を企画したり、移住希望者の相談にも乗ってきました。

 「ここでの生活に不便はないです。みんな“スーパーが遠い”“病院が遠い”って言いますが、車で40分ぐらい走ればあるので、その距離が慣れるんです。30分ぐらいが、“ちょっと先”とか“すぐ”という感覚になってくるんです。おかげさまで(移住相談を受けた人が)10世帯ぐらい移住してきました。来月も、僕と同世代の人が移住してきます。自分はこの地に根を下ろしたんで、一番下の子どもも2歳ですし、この村で楽しく暮らせる環境を、あと20年は何とか残したいと思います」

現在の移住者は160人で、村内で暮らす人の約1割に達しました。若者の減少に危機感を抱く村は、移住者のための集合住宅を整備し、40歳未満の移住者への交付金(20~30万円)、最大3年間の家賃補助(半額)、村で家を建てた場合の建築費の助成金(10%、上限200万円)等々、移住のパンプレットは支援策のオンパレードです。役場の意気込みがかなり感じられます。