【キャスター津田より】8月26日放送「福島県 葛尾村」

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 今月24日、福島第一原発で出た処理水が、海に放出されました。岸田総理は放出開始を決めた関係閣僚会議で、「政府の姿勢と、安全性を含めた対応に、漁業者から『理解は進んでいる』との声をいただいた」と判断理由を説明しました。この“理解”とは、安全性への理解と、他に選択肢はないことへの理解の2点を指しています。政府は、安全面ではIAEA(国際原子力機関)の包括報告書が出され、選択肢がない点も説明会で良い反応があったと認識しています。とはいえ、隣県も含めて様々な場所で圧倒的な数の説明会を開き、漁業者一人一人の疑問に向き合ってきたわけではありません。漁業者個人にとって、自分が参加可能だった説明会は数えるほどです。漁業者の無力感は察するに余りあります。

 さて今回は、福島県葛尾村(かつらおむら)の声です。人口が1200あまりで、今年4月、村の誕生から100年を迎えました。原発事故後に全村避難し、2016年に一部を除いて避難指示が解除されました。
基幹産業は農業で、稲作では、乾燥などを行うライスセンターが完成し、隣接地には育苗施設も整備されます。畜産(肉牛)も復活し、今年4月、村が整備した2つの大規模農場(最大飼育数:約320頭)が畜産会社に引き渡されました。生乳の出荷も5年目となり、今年7月には、村が整備した大規模酪農施設(最大飼育数:約500頭)が、自動搾乳ロボット等を導入した大規模経営の牧場に引き渡されました。他にも、養鶏やブランド化を目指したヒツジの肥育、コチョウランの大規模栽培も行われています。産業面でも、震災後に進出したニット工場が稼働し、産業団地も造成を終え、企業誘致を進めています。

 はじめに、村の復興交流館“あぜりあ”に行きました。特産品販売や情報発信の場にしようと5年前に建てられ、村民の会合や演奏会、展示会などにも使用できます。職員の松本民子(まつもと・たみこ)さん(68)は、避難した三春町(みはるまち)の仮設住宅で暮らし、避難指示解除の2年後、元の土地に自宅を再建しました。現在は夫婦で暮らしています。

「結局、うちに帰りたかっただけなんです、葛尾に…。帰りたくても帰れない人もいますし、たまにしか来られないからって、立ち寄って“ああ、いたのか”って言ってくれる村民の人もいます。それが楽しみで、ここにいます。言いたいことは言って、したいことはして、自然のままで生きていきたいと思っています。人の温かさ…これまでも助け合って生きてきたのでね」

 松本さんは職場の若者にも慕われており、“葛尾村の我々の世代は、必ず“ちゃんと食べたか”って声をかけるし、食べてない時は無理に食べさせて…お世話しすぎる感じなんでね“と笑いました。
 次に、村で唯一の鉄工所を訪ねました。松本晢山(まつもと・てつやま)さん(66)は、7年前に夫婦で村に帰還し、農業用の器具や設備をオーダーメイドで製作しています。震災前は兼業で畜産や稲作も行なっていましたが、原発事故の影響で牛は全て殺処分になり、農業はやめました。以前は4世代10人で暮らしていましたが、子どもと孫は村外の避難先に定住したそうです。お盆や正月には帰省するため、夏は孫と流しそうめんをするのが何よりの楽しみだと言いました。

「政府から (原発から)20キロ圏内は殺処分決定と命令が出た時に、みんな情報を聞いて泣いたね。殺処分がなければ、自分も牛を避難させて、戻して今も牛飼いをやってるんじゃないかな。本当に今、家族もバラバラ。自分の代で、先祖から受け継いだ農地を守るのも終わりかなという気持ちもあります。それは残念ですね。やっぱり孫の顔を見て、孫と一緒に虫取りをしたり、野菜を採ったり、それが一番の幸せかな。あとは孫たちが“じいちゃん、葛尾に住みたいよ”って言ってくれれば…そういう言葉が聞ければ…。まあ、叶わないことかもしれないけども」

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 文字では表現できませんが、一つ一つの言葉の合間には長い沈黙があり、無念さが伝わってきました。
その後、地域おこし団体が主催する村民の交流イベントがあると聞き、訪ねてみました。避難指示解除後、村内には移住者が増えており、この日は帰還した村民と移住者が流しそうめんを楽しみました。地域おこし団体の職員・大山里奈(おおやま・りな)さん(39)は、茨城県出身の元美術教師で、2年前に村へ移住しました。村にアーティストを招致し、アートで村を発信する取り組みも行っています。

「茨城出身なので、福島は隣の県ですごく気になっていたけど、直後は実情を見たりというのはすごく怖かったので、10年過ぎて自分の目でしっかり見たいなと…。震災後は皆さん、戻る、戻らない、家を壊す、新しいのを建てると、結構大きな判断をその時その時にしなくてはいけなかったのが、すごいというか…。私だったら悔しいだけで判断できないだろうし、そういう話はお茶飲みの会でもそんなに出ないけど、ぽろっと聞ける時があると身が引き締まります」

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いま村は、中心部で集合住宅や子育て世帯向けの一戸建ての建設を進めています。幼稚園、小中学校、診療所などがあり、前述の復興交流館に加え、宿泊交流館“せせらぎ荘”や観光牧場、キャンプ場も営業しています。去年、“移住・定住支援センター”も開設され、避難指示解除後の転入者、つまり移住者は、8月1日現在で143人になりました。村内居住者の3割にあたり、村の変化を如実に表しています。

 その後、帰還困難区域に指定された野行(のゆき)地区に行きました。去年6月、この地区の一部で避難指示が解除されましたが、村内の他の地区に比べれば6年遅れで、帰還した住民は1世帯です。お盆の墓参りに来ていた半澤富二雄(はんざわ・ふじお)さん(69)は、野行地区の営農組合の事務局長で、2015年に避難先の郡山(こおりやま)市に自宅を新築しました。去年、村にある敷地にも家を建て、ほぼ1日おきに通っています。一時帰宅した地区の人を気軽に招き入れて話せるようにと、玄関を開けてすぐに、靴を脱がずに休める場所をつくり、テーブルと椅子を置きました(いわゆる昔の土間です)。

「帰還困難区域の解除が遅すぎた。他の地区のみんなはいいな、 安心して暮らしているなって、すごく羨ましかったね。野行は戻れないんだよなぁって。みんな避難先に落ち着いてしまっているから、結局もう帰れないんだよな。野行地区を残したいです。夏場は木陰から冷たい空気が入ってくるし、春先の土の匂いとか秋の風とか、そこから自分が抜け出せない…やっぱりここの良さを思い起こして、“そうだよなぁ”って思うんだよね。ここで絶対に、最後まで生き続けていきたいなと思います」

野行地区の避難指示が解除されたエリアでは、おととしからコメや野菜の試験栽培が進み、去年4月には、ホウレンソウやキャベツなどの野菜の出荷が可能になりました。村も集会所の再整備や一時帰宅用の宿泊交流施設の整備を行い、住民が集まる機会をつくり出そうと力を入れています。
 さらに、10年前に取材した、農家の大関順功(おおぜき・むねのり)さん(58)を再び訪ねました。全村避難後の村で防犯パトロールをしていた方で、去年パトロールの仕事を辞め、営農組合の受注を受けて除草などを行う仕事に就いています。10年前は“除染後は戻るかどうか、ちょっと微妙…いま悩んでいます。戻りたいけど、作物つくっても売れないなら、戻ってもしかたない”と言っていました。すでに自宅は解体しており、現在は三春町に建てた家で妻と息子2人と暮らしています。

「とりあえず三春町に家を建てようかということで建てた、でも、いざ建てたら村に建てる予算がなくて、三春町に腰を据えるしかないんです。もう子どもたちは村に帰って来ないと言っているし、自分が動けるうちは、自分の土地を守っていくしかないのかなと思っています。手入れをして、これから畑や田んぼでソバとかコメを作ろうかと、ちょっと考えています」

 最後に、8年前に取材した中学2年生、吉田裕太(よしだ・ゆうた)さんに再会すべく、三春町に向かいました。現在23歳で、郡山市の運送会社に勤めています。葛尾村の避難者が住む公営住宅で、祖父と父、兄夫婦と暮らしており、三春町の仮設住宅で初めて会った時は、“でっかい家をつくりたいです。家をつくって、家族をびっくりさせる”と言っていました。その夢の通り、吉田さんは高校を出て就職するとすぐ、父と兄と共同ローンで葛尾村に家を新築しました。ただ、帰還の見通しは立っていません。

「もう、いつでも住める状態で…。帰りたい気持ちはあるんですけど、仕事はこっちで葛尾から通うと遠いし、友達もこっちにいて、葛尾村に行ったら誰も友達がいないので、両立するのが本当に難しい感じです。いつか葛尾村に帰りたいです。畑とか田んぼもやりつつ、牛も飼っていたので、いずれはやりたいと思っています。そうなるといいですね。そう願うだけですね」

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人口のうち、実際に村に住むのは36%です。住んでいないのが約7割ですから、帰還していない方々のほうが一般的な村民の暮らしです。“3割対7割”という数字は、ここ数年ほとんど変わっていません。