【キャスター津田より】6月18日放送「福島県 双葉町」

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 今回は、福島県双葉町(ふたばまち)です。事故を起こした福島第一原発が立地しており、町の面積の96%が帰還困難区域(放射線量の高い区域)に指定され、全町民が町を離れました。
帰還困難区域を外れた約4%の地区と、帰還困難区域の中でもJR双葉駅周辺については、常磐(じょうばん)線の全線再開に合わせ、2020年3月に避難指示が解除されました。このエリアは、生活インフラが整わないため居住はできませんが、すでに産業団地には県内外から工場が進出し、2020年には県が整備した津波と原発事故の伝承施設もオープンしました(開業1年の来訪者は65000人)。隣にある産業交流センターには、東電の福島復興本社や建設会社など10社に加え、飲食店や土産物店も入っており、130室余りビジネスホテルも開業しました。両竹(もろたけ)地区で栽培されたホウレンソウなど5つの葉物野菜は、試験栽培を経て、出荷制限もなくなっています。

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 そして今、帰還困難区域の中にある通称“復興拠点”と呼ばれるエリアも避難指示が解除される見込みで、いよいよ町での居住が始まります。復興拠点は、JR双葉駅を中心とした約500haのエリア(=町面積の1割)で、国が優先的に除染やインフラ整備を行いました。これまで町は復興拠点について、2022年6月以降の避難指示解除と帰還を目指すと表明してきました。
 復興拠点では、JR双葉駅西側に災害公営住宅(86戸)を整備中で、10月に入居開始の見込みです。駅東側を“にぎわい拠点”と位置づけ、役場の仮設庁舎を整備中で、行政機能も町内に戻します。その近くには、スーパーや飲食店をテナントとした商業施設をつくる予定で、駅西側には平屋の診療施設も着工予定です。去年から、復興拠点内でのコメと野菜の試験栽培も始まっています。

 はじめに、復興拠点内にある、JR双葉駅の旧駅舎を改装した交流スペースに行きました。ここに拠点を置くまちづくり会社では、今年、23歳の女性が新たに社員に加わりました。東京都内や県内各地で避難生活を続け、現在は仕事のため家族と離れ、隣の浪江町(なみえまち)で1人暮らしです。町の情報発信やイベント企画を担当しています。

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 「双葉町の思い出がすごく良かったり、人々の温かさや関わりがとても素敵な町だったので、双葉町で働くのが私に合うというか…。震災後、避難でいろんな所に転校して、体調が崩れてばっかりで、でもここに戻って働き始めてから、1回も風邪をひいたことがないんですよ。町でやりたいことは、皆さんと一緒にご飯を作って食べたいなとか…。小学生の時、毎年サツマイモを焼いてみんなで食べることがあったんですけど、ちょっとしたことがすごく幸せだったので、やってみたいと思っています」

 次に、同じく復興拠点内にある、JR双葉駅から続くメインストリートに行きました。11年間手つかずの店がただただ並んでいて、接骨院では40代の男性が片付けをしていました。聞けば、神奈川出身で、妻の実家がある双葉町の自然に憧れ、震災の数年前に移住したそうです。念願の接骨院を開業したものの、3か月後に原発事故が発生。神奈川に避難して接骨院を再開しましたが、結局、妻と4人の子を連れて福島に戻る決意をしました。今年4月から、内陸部の伊達(だて)市で接骨院を開業しています。

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 「やっと自分の店を持てて、いろんな人と出会って、これからという時に地震と原発事故になって残念です。避難後はもう、すごく葛藤していましたね。神奈川で接骨院をオープンして、本当に落ち着いちゃったら、自分が福島に行った意味は何だったんだろう?って…。10年たって家族と話し合って、子ども達も福島が好きなんで、“福島に行こう”とみんなついて来てくれました。何しろ双葉が大好きなので、またこの地に戻って働きたいと夢見ています。当時の人とまた会ってお酒飲んだり、ここで楽しく過ごしたいなと思っています」

 さらに、双葉駅から1.5kmほどの下羽鳥(しもはとり)地区に行きました。ここは復興拠点内にある田園地帯で、除染は終了しています。農地の保全作業を行っていた70代の男性2人に話を聞くと、一人は東京都内で夫婦で暮らしており、もう一人は須賀川(すかがわ)市に新たな居を構えたと言います。2人とも遠路はるばる町に通い、トラクターに乘って田んぼの整備をしていました。

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 「私たち元々農家だけど、田畑が荒れ果てた姿ではいい町だって言えないから、私らが元気なうちに、基盤整備をして大型圃場(ほじょう)にして、子ども達が農業をやりやすいように、農地を借りてくれる人が喜んで仕事できる、そんな田んぼにしてやりたいと思ってね。解体して家は無くなっても、これから孫、ひ孫たちが住んでみたくなるような町になってくればいい。やっぱり11年は長かったよ。3、4年ぐらいなら、仮設やアパートで待ったけどね。向こう(東京や須賀川)は今後も住んでいく所、でも“ふるさと”はこっちだな。何十年も住んでいたから。簡単に忘れられるものではないよ」

 その後、実際に町民が住む避難先の自治体を回って取材しました。最も多くの双葉町民が暮らすいわき市では、5年前に取材した“いわき・まごころ双葉会”の皆さんを訪ねました。2013年、いわき市に避難して近所になじめない町民などのために結成され、旅行をはじめ様々な催しで町民の絆を維持し、いわき市の歴史を学ぶ活動や企業訪問なども行い、力を合わせていわき市になじむ努力をしてきました。前回、80代のある男性は、“ふるさとを失くしたという重いものを背負っているけど、それにすがりついていくわけにはいかない、前に進まなきゃ”と言いました。今回再び話を聞くと、140世帯あった会員も110世帯になり、高齢化などのため、来年度からは活動休止の予定だそうです。

 「毎年、亡くなる人も多いし、そこはつらいです。会員が住む地域も広くて、高齢者は運転免許も返納して集まるのが容易でないから、とりあえず活動を一時停止しましょうと…。解散ではないですけど。孤立気味の人は解消しているし、絆は深まっているし、まあ、いわきになじめたということで、会の目的は達成した、やることだけはやった感じはあります。双葉町も確かな復興を目指して進んでいるのが目に見えてきたので、これからさらに前進していくのを楽しみにしています」

 また、同じくいわき市で、避難者のために整備された“勿来酒井(なこそさかい)団地”に行きました。80世帯ほどの双葉町民が暮らしていて、災害公営住宅に加え、商業施設、診療所、町民の交流や高齢者のデイサービスなどを行うサポートセンターも一体的に造られました。ここまでの町外コミュニティーを整備したのは、全町避難が長引く双葉町だけです。4年前に戸建ての災害公営住宅に入居した80代の男性は、町では建具店を営んでいました。すでに自宅は解体し、現在は妻と2人暮らしです。

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 「本当は今でも町に帰って、アユ釣りとかしたいんだけど、しょうがないからこの辺で(いわきの海で)釣りをして、今はこれが生きがいだ。家を建てるぐらいの資金はあったけど、家を建てるとそこに居ついてしまうような気がして…。年をとったら、釣り、キノコや山菜採りをやろうと考えていたけど、だめだよ、双葉に帰れなくなっちゃったもの。話しているうちに、双葉のことが恋しくなりました。1日でも早く帰りたいです。(町には)急いでもらわないと、あの世にいってしまう…。困った問題だね。こういう話をすると、最近は涙もろくなってき俺もだめなんだ」

 そして最後、浪江町にある料理店に行きました。双葉町で35年間営業していた店で、店主の60代の女性は、所有していた貸家を自宅兼店舗に改修し、去年6月に再開しました。千葉県や埼玉県に避難し、千葉県内に新居も建てましたが、現在は週のほとんどを浪江で過ごしているそうです。車で1時間かけていわき市内で食材を調達し、昼は弁当の販売、夜は自慢の手作り料理とお酒を提供しています。双葉町中心部の避難指示が解除されたら、戻って店を開こうと考えているそうです。

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 「お弁当も安い値段で、仕入れのガソリン代かけたら一緒って感じですね。営業としては儲かりません。でも来た人たちが、次は2人で来て、今度は家族を連れて来てくれたり、おもしろいですよ。料理を作っている時が一番幸せです。私より大変な人たちはいっぱいいる…だから怒られるかもしれないけど、試練も楽しんでやらないと。追われてみると双葉町はよかったですね。気持ちがのどかになるし、安心する。双葉に店を出したら、みんな待ってるからね。ごちそう作ってあげるから、みんな来てね」

少しずつ復興する双葉町ですが、復興庁が発表した最新の住民意向調査では、“町に戻りたい”と回答したのは11%です。また、復興拠点から外れた約4000haは手付かずで、政府はこの地域について、住民登録があり、家屋と土地がある住民に対して今夏をめどに意向調査を実施し、帰還意思や営農再開の意向を確認します(結果を受け、24年度に除染開始予定)。復興の道のりは、まだまだ続きます。