佐賀 ウクライナから避難の女性 日本語で伝える平和への思い
- 2023年08月29日
ロシアによる軍事侵攻が続くウクライナ。佐賀県内でも、依然として20人以上が祖国での戦闘を逃れて避難生活を送っています。その中のひとり、アンナ・ポジダイェヴァさん(50)は、ウクライナでの現実を伝えたいと佐賀市で講演を行いました。かつて福岡に留学した経験から日本語が話せるアンナさん。佐賀の人たちに自分の言葉で訴えたかった思いは何か、取材しました。
日本語で語られるウクライナでの現実
2月24日、午前4時30分、キーウ市で爆弾によるひどい音がして、家族と私は目が覚めました。これは何だろう、恐ろしい夢だろうかと思っていましたー。
ロシアによる軍事侵攻が始まったその日、アンナさんは家族4人で、ウクライナの首都キーウで暮らしていました。大きな爆発音で飛び起きると、しばらく何が起きたかわかりませんでした。戦闘は、突然始まったといいます。
佐賀県ユニセフ協会が主催した講演会には、佐賀の人たち約80人が集まりました。アンナさんは、緊張した面持ちで、ゆっくりと深呼吸をしたあと、話し始めました。ミサイルがビルを破壊する動画や、煙のあがった住宅街の写真などを見せながら、爆撃で変わり果てたウクライナの状況を、通訳を介さず日本語で伝えていきます。
ミサイルが爆発する音を聞いたのは、私の家から およそ15分歩いたところ。すごくびっくりした。私の家もゆるゆる…、日本語で何といえばいいかわからない状態でした。
侵攻で壊された日常
アンナさんは、弁護士の夫、それに中高生の娘2人と、生活支援を受けながら日本で暮らしています。
住んでいたキーウは激戦区のひとつになり、侵攻が始まった日、自身が経営する美容サロンが入っているビルにミサイルが直撃しました。空襲警報が毎日のように鳴る中で、家族は自宅の1階部分に身を寄せ、姿勢を低く、固まって夜を過ごしました。食料品店はすぐに品薄状態になり、冬の間は凍えながら3時間以上並んで、やっと1袋のパンを手にしました。仕事も、日常生活も、侵攻によって一変したといいます。
命の危険を感じ、 2022年11月、アンナさんは、先に娘を連れて佐賀市に避難しました。その後、2023年4月に、視覚に障害があって国外に避難が許された夫・オレグさんが来日。半年間離ればなれになった家族は全員無事に再会を果たしました。
講演に向け 日本語の修練
家族の運命を変えた軍事侵攻―。アンナさんは、こうした過酷な体験のありのままを伝えたいと、講演会の1か月ほど前から、地域の日本語教室に通い原稿の準備を重ねてきました。
福岡の専門学校に留学し、6年間日本で暮らした経験があるアンナさんですが、それは20年前のことです。きれいな日本語を話すのは簡単ではないといいます。自らが日本語で書いた原稿を日本語講師に添削してもらいながら、音読の練習を繰り返しました。
「ウクライナの出来事はひと事ではない」
迎えた講演会当日。日本で暮らす人たちへ訴えたのは、「ウクライナで起きたことは決してひと事ではない」という思いです。
私はいい環境で暮らしていますが、明日のことは全く分かりません。深くも考えられません。年老いた両親、夫、ペットと離れる決断をした時、人の心の中で起こっていることを想像してみてください。原爆の恐ろしさを親戚から聞いている方の中には、私の言っていることを理解していただけるのではないかと思います。
講演の最後は、避難生活を支えた佐賀の人たちへの感謝のことばで締めくくりました。
私たちは常に温かさと思いやりに囲まれています。見知らぬ人々の悲しみに対する関心に、永遠の感謝を申し上げます。
(佐賀市・70代)ウクライナのことはテレビで見たり聞く機会があるが、流してしまっている部分があるので、本当に勉強になった。
(佐賀市・10歳)話を聞いて、命の大切さとか、戦争の大変さとかを知りました。
アンナさんは、平和な日本だからこそ、今を大切に生きてほしいと考えています。
戦争があった時、私たちの生活は全部変わりました。そして考え方も変わりました。人生は、1日、いや、1分でも終わらせることできるんですよね。ですから、人生は大事にしなきゃいけないなと思います。
講演会のあと、実はアンナさんたち家族は、仕事などの都合で、佐賀を離れて東京へ引っ越しました。猛暑に耐えながら、新たな土地での生活をスタートさせています。アンナさんは「将来的には日本に永住し、得意な料理も生かしながらウクライナのことを伝えていきたい」と話しています。