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沖縄戦79年 少年だったわたしのおじさんが語る家族の死

  • 2024年04月11日

 

79年前の沖縄戦で、沖縄本島中部の読谷村では2947人の住民が亡くなりました。わたしの父親は読谷村出身。亡くなった人の中には親戚も含まれています。今回、両親と妹を失ったおじさんが、初めてみずからの体験を語ってくれました。

NHK沖縄放送局 宮城杏里キャスター

おじさんの沖縄戦

「自分ももう年だし、今のうちに知っていることをあんたに話しておこうと思ってね。」

そう話し始めたのはわたしのおじさん、読谷村に住む宮城儀昌さん(87)です。父親のいとこで、正確には“いとこおじ”ですが、昔から親しみを込めて“おじさん”と呼んでいます。

おじさんは沖縄戦で、旧日本軍に召集された父親の信貞さんと、母親のフサさん、それに妹のトモ子さんを亡くしました。これまで妻以外に話すことがなかったという家族の最期を語ってくれました。


79年前の1945年3月、アメリカ軍の激しい艦砲射撃が始まります。読谷村の海岸は艦艇で埋め尽くされていました。

海岸を埋め尽くした艦艇

4月1日の上陸を前に、おじさんは母親と姉、幼い2人の妹、それに親戚とともに避難するため、本島北部へ向かいました。

「トンボ」と呼ばれたアメリカ軍の偵察機に見つかると艦砲射撃の標的になるため、みんなで身を隠したといいます。

今のセスナ機かな、赤い色だったと思う。空の上を小さい飛行機が飛ぶと、翌日はこっちに艦砲が飛んできて攻撃をする。見張りだったと思うんだよね。だから、飛行機が飛ぶと、みんなしゃがんで、隠れて見えないように逃げたよ。

食べるために必死だったことを覚えているといいます。

泥棒みたいだが晩はいもをほじくって食べた覚えがある。煙が出ると見つかるから、生で食べていたんじゃないかな。ほかには、お米をもらってきて食べたけど、石油のにおいがしたよ。油が混じっているような味がしたね。

ガマに避難しましたが…。

3歳の妹が、体におできができていて、ずっと痛いと泣いていたんだよね。ある日、ガマに避難したら、そこにいた男性に「あんたたちと逃げたら、やられてしまうから一緒に逃げたくない」と追い出されたんだよ。今考えると戦争だから仕方がないけど、当時はすごく嫌な気持ちになったのを覚えているよ。

避難生活は旧日本軍の組織的な戦闘が終わったとされる6月23日以降も続きました。

そして7月7日の七夕の日。栄養不足で日に日に弱っていた1歳の妹のトモ子さんが、おじさんの腕の中で息を引き取りました。

お母さんや親戚が洗濯をしに行っていて、私がトモ子を抱っこして、2人で留守番をしていたとき、トモ子がいきなり、ひきつけみたいなのを起こして、震え出して、そのまま息をしなくなってね。お母さんたちが帰ってきたから「トモ子が動かなくなっているよ」って言ったんだよ。翌日かその翌日か分からんが、葬りに行ったよ。炭焼き小屋の近くの木の根っこの下に、分かりやすいように。

1週間後の7月15日の夜、食料も底をつき、体力の限界に達したおじさんたちは投降することにしました。しかし、山を下りている時、さらなる悲劇に襲われます。

山を下りていくときに自分がアメリカ軍の陣地のケーブルというか、ホースみたいなものじゃなかったかな、足で踏んでしまったから陣地でピーーって音がして。それから照明弾が「ボン!ボン!」ってあがって、真昼間のように明るくなったあとに機関銃が。

激しい銃撃が始まりました。しゃがみこむ自分の近くで、横たわっている母親の姿が脳裏に焼き付いています。

「かあちゃん」と叫んで、触ってみたら動かなくてさ、揺さぶっても。そのときはいちもくさんに逃げてね。後で親戚の兄さんに聞いてみたら、頭の脳を撃たれて即死状態だったって。今考えたらあれだが、その時分には泣くこともできなかった。

母親を埋葬する余裕もなく移動を続け、数日後、収容所にたどり着きました。

国から贈られてきた勲章

戦後、親戚に育てられたおじさんは中学を卒業したあと、会社員やタクシー運転手として働きました。仕事に励むことで両親を失った悲しみを抑えていたといいます。

本土復帰後、30代後半になったおじさんのもとに国から贈られてきたのは、母親が旧日本軍に協力した「戦闘参加者」と認定されたことを示す賞状。そして、勲章です。

国から贈られた勲章

こういうのが届いてどう思いましたか。

親が亡くなって寂しい気持ちになりました。こんなのが届いてもね…。

勲章を見ると、なぜ母親たちは命を落とさなければならなかったのか考えてしまうといいます。

戦争がなかったらどんな家族だったと思いますか。

いい家族じゃなかったかね。思いやりのある。

母と妹が亡くなった場所 今は米軍基地となり入れない

この日、おじさんは母親のフサさんと妹のトモ子さんが亡くなった場所を案内してくれました。2人の遺骨は戦後、掘り起こしました。命日にはここで手を合わせています。ただ、今はアメリカ軍基地の中にあり、入ることはできません。

今でも世界で行われている戦争のニュースで小さな子どもが犠牲になっている映像を見ると、自分と重ねてしまいテレビを消してしまう。若い人たちには同じ思いをさせたくない。二度と戦争はやってほしくないと、それを自分は祈っています。

取材後記

おじさんの話を聞きながら沸き上がってきたのは「戦争が憎い」という感情でした。わたしはこれまで、悲しいことやつらいことを思い出させてしまうのではないかと考えて、特に自分の身近な人から沖縄戦の体験を聞くことにちゅうちょしていました。ただ、79年が経ついま、もっと体験者のことばを聞き、記録していかなければならないと考えています。

  • 宮城杏里

    キャスター

    宮城杏里

    沖縄市出身。現場の空気を大切に、 沖縄の魅力を心を込めてお伝えしていきます。 取材先で皆さんにお会いできることを楽しみにしています。

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