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大瀬戸寮の人々 ~ボートピープルを受け入れた地元住民~

  • 2024年02月08日

 

大量のレコードを所蔵する西海市の「音浴博物館」。そこはかつて「大瀬戸寮」と呼ばれ、1980年から15年間、「ボートピープル」と呼ばれたベトナム難民のべ671人を受け入れました。シリーズでお伝えしている「大瀬戸寮の人々」、今回は大瀬戸寮に滞在する難民を地元住民が働き手として受け入れた話を取材しました。 (長崎放送局・記者 榊汐里)

左:坂口範雄さん 右:川崎公子さん

【ボートピープルを受け入れた縫製会社「コットン」】

坂口範雄さんと川崎公子さんです。
大瀬戸寮は、かつて2人が働いていた縫製工場から車で1時間離れたところにありました。
1991年、工場の経営者だった坂口さんは、大瀬戸寮の門をたたきました。
当時は、平成のバブル景気にわき、地方にある多くの企業が人手不足に悩んでいました。
坂口さんは工場を立ち上げたばかりで、同じ地域にいるボートピープルの存在を知り「自分の工場で
働いてもらえないか」と相談に来たのです。

 

坂口範雄さん

(坂口さん)。
「なんとか人を確保しなきゃいけないときに、ボートピープルの話があって、これだったら駄目でもともと行ってみようと思って訪問しました」

交渉の末、日本赤十字社からは「日本の習慣や日本語を学ぶ」という目的で、ボートピープルの女性3人の就労が特別に許可されました。

縫製工場で働いていたボートピープルの女性たち

【初めての外国人、社員たちはどう融和した?】

坂口さんは受け入れにあたり、社員の中から海外旅行の経験が豊富な川崎さんをボートピープルの「生活指導員」に任命し、日本人従業員との「橋渡し役」を頼みました。

(坂口さん)。
「日本人の従業員の人たちにスムーズに受け入れてもらったのは、あいだに立ってコーディネートしてくれた川崎さんの一番のおかげです」

川崎さんは最初、3人に日本の生活習慣を教えるとともに、日本人従業員との距離を縮めようと腐心したと言います。

川崎公子さん

(川崎さん)。
「食事をいたしますよねお昼ごはんを。その時にはやはり最初はベトナムの3人は自分たちでかたまって日本人は別のテーブルでしたけれど、日本人従業員の中にはお母さんぐらいの年齢の方もいましたのでその方たちに”ちょっと自分の娘のように少しお世話してくれる?”っていう事で頼みました」。

最もてこずったのは、日本流の厳しい品質管理をベトナム人に分かってもらうことでした。

(川崎さん)
「いい商品、これはよくない商品っていう見極めですね。それはボートピープルの彼女たちも苦労したし、わたしたちも覚えてもらうのに苦労しました」

一方、坂口さんは中古のワゴン車を購入し、毎日、大瀬戸寮と工場の間の送迎にあたりました。片道1時間の車中で様々な話しをするうちに、3人がボートピープルとしての過酷な経験を明かしてくれるなど、徐々に心を開いてくれたと言います。

(坂口さん)。
「私のほうから聞くのは最初は遠慮していたんですが、だんだん慣れてきたら本人たちのほうから船の中での生活、やっぱりねトイレと水だよね。そして途中で亡くなる人もいるわけですから、その時には船から流すしかないわけ。あしたは自分かもしれないという中で、たどりつく目的地がわからないわけですから、それは精神的にきつかっただろうなと思います」。

働き始めたボートピープルの3人はメキメキと技術を向上させていきました。逆境をばねに、ひたむきに仕事に取り組む姿が今も忘れられないと2人は口を揃えます。

(川崎さん)。
「とてもまじめで、仕事に対しても非常にあの前向きだし、そしていいものを作ろうという部分では、彼女たちの方が成長が早かったと思います。そこで日本人の作業の人たちも次第に彼女たちを認めていったという経緯はあると思います」

(坂口さん)。
「”やったことがないことでもできますか?”って言ったら普通だったら、”ちょっとわたし無理です。まだやったことないから”ってなりますけど、ベトナム人の場合は”できます!やります!”
ここが大きく違うところでした」

就労開始からまもなくして、受け入れ人数は3人から8人に増え、大瀬戸寮に滞在するボートピープルの間でも、働きたいという希望者が相次いだといいます。

大瀬戸寮でのパーティーにも招かれた

立ち上げたばかりで人手不足に悩んでいた工場は、大瀬戸寮が閉鎖されるまでの4年間に116人のボートピープルを受け入れ、経営は軌道に乗りました。
ほかの地元企業にも受け入れの機運は広がり、合わせて15社が大瀬戸寮からボートピープルを受け入れました。

【日本とベトナムの架け橋に】
そして、現在。
坂口さんとベトナムとの付き合いは さらに広がっています。
 

技能実習生の研修施設にて

技能実習生を受け入れる監理団体を立ち上げ、この20年あまりでベトナム人を中心に1700人を受け入れ、県内外の企業に派遣しています。

かつて工場のピンチをボートピープルに救ってもらった坂口さん。恩返しをする意味でも、ベトナムとの架け橋としてこれからも力を尽くしていきたいと語ります。

(坂口さん)。
「今の仕事に導いてくれた一番のきっかけは、ボートピープルの彼女たち。当時、ボートピープルから”いま、そのときを大事にする” このことを教わったような気がします。”その日を全力投球。明日はわからない”当時のベトナムはまさにそうだと思う。戦争ですからね。そういう中で、”この日一日を大切に。”だからここに書いている。”今を全力投球。今日一日を全力投球。できれば楽しく”それを教えてくれたのは、彼女たち」

【取材後記】

ボートピープルの中には、就労を希望する人がたくさんいたと知って、時代や政治に翻弄され、仕事や勉強などやりたいことが理不尽にも奪われてしまった人たちがたくさんいたことを実感しました。戦争は本当に理不尽です。そうした中で坂口さんや川崎さんがボートピープルたちとかけがえのない時間を過ごし、いまもそれぞれの人生に刻まれていることを取材できてよかったです。

  • 榊汐里

    長崎局 記者

    榊汐里

    長崎5年目になりました!ことしもがんばります!

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