“あべこべ”の戦争ポスター
- 2023年08月31日

“あべこべ” の戦争ポスター
岩手県立美術館にその画家が残した作品はあります。
昭和19年、戦時下の盛岡で国民の戦意高揚のために開かれた
戦争ポスターの展示会に出品されました。


現代では展示会といえば、アーティストたちが心から表現したい思いを作品に込めて
披露する場ですが、戦時中は違いました。
画家たちが当時の軍部に求められて制作した戦争ポスターや戦争画は
「お国のため」という世論のもとに国民を団結させることを目的としており、
軍人の勇ましさなどを強調した作品が多くありました。

そんな中で“あべこべ” の戦争ポスターのうち「征け大空へ」という作品で描かれている
航空兵はどこか遠い目をしています。勇ましいスローガンに合った表情には見えません。

こちらの作品でも後ろに立っている女性はニコニコ笑っているのに
前の兵士の表情はどこか沈んだように見えます。
どちらのポスターからも戦争ポスターに求められる「勇ましさ」はあまり感じられません。

描いたのは、洋画家 松本竣介です。
松本は戦後の一時期、「抵抗の画家」と呼ばれていました。
戦時中に表現の自由を制限しようとする軍部に抗議する内容の文章を発表したためです。
しかし、一方で戦争画や戦争ポスターを制作していました。
表現の自由を守ろうとした画家はなぜ
“あべこべ”の戦争ポスターを描いたのでしょうか?

「人」を描いた松本竣介
東京で生まれ、岩手で育った松本竣介は13歳の時に病気が原因で聴覚を失います。
これをきっかけに絵を本格的に描き始めるようになり、
16歳で学校を中退して画家の道を志して上京します。

二科展にも入選するようになり、新進気鋭の画家として注目を集めるようになった松本。
作品の多くは都会の風景とそこに生きる人々を描いたものでした。

「人々のデッサンをしようと思ひ立った。
僕が最も嫌悪を感じるものは人間である。
そして最も好んでゐるものも亦人間なのだ」
松本竣介の次男、松本莞さんは父が生活の身の回りにあるものを
モチーフとしていたことについて

社会の中にいて自分が何をできるのか、
世の中がどう動いているのか耳が聞こえないだけに
ものすごく気にしていた。
絵も兵器だ

松本が画家として本格的に歩みだしていた時代は
日本が太平洋戦争へと突き進んでいた時代でした。
画家も戦争ポスターや戦争画を制作して戦争に協力することを求められ、
協力しない画家にはキャンバスや絵具の配給の停止もほのめかされていました。
なぜこうまでして軍部は画家たちに戦争協力を求めたのでしょうか?
戦争を勝ち抜くためには国民が気持ちを奮い立たせて戦場へ向かい、
戦費のために国債を購入するなど
「お国のため」という名のもとに一致団結する必要があると考えられていたためです。
いわばプロパガンダのために画家たちの表現力を利用しようとしました。
この時代を松本は次のような文章で形容しています。

「人間としての最も根本的なものが、世の中の大きな歯車によつて、
ガリガリ喰ひつぶされてゆく時代」
「腹がたつても怒るまい、悲しくとも泣くまい、
可笑くとも笑ふまいというのが欺瞞のはじまりであつた」
表現の自由を守る
昭和16年 危機感を抱いていた松本はある文章を発表します。
タイトルは「生きてゐる画家」


「今、沈黙することは賢い、けれど今ただ沈黙する事が
凡てに於て正しい、のではないと信じる」
軍部による美術への干渉に抗議したのです。
当時は軍部に抵抗しているとみなされた画家は逮捕されていた時代。
なぜ危険を顧みずこのような文章を書いたのか。

戦争に反対することはなかったし、
負けては困るぞと思ってた。
ただそういう社会の中で
軍部がものを考えることとか創ることとかそういうことにまで
制限をかけてきたことについてはものすごい反発をしていた。
かなりいろんな制約の中でだけど自分はこうでなければいけないって
思い続けながら生きていた。
制限の中でも・・・

同じ昭和16年、松本は戦争画の展覧会に「航空兵群」という一枚の戦争画を出品します。
本来ならば兵士を勇ましく描かなければいけない戦争画ですが、
この作品の兵士たちはどこか思い詰めたような表情をしています。
岩手県立美術館の学芸員 加藤俊明さんは、
この絵に込めた松本の強い思いを感じると言います。

強制的に描かされた作品の中でも自分なりの個性を強く出そうとしていた。
松本竣介の考えとして、画家が描かなければならないのは抑圧から解放された人間としての自由なあり方。
戦争ポスターであっても描くべきもの

松本が描いた“あべこべ”の戦争ポスターも
兵士らを戦争に勇ましく向かう「国民」ではなく、一人の「人間」として
その心の内側を描こうとしたものでした。

鼓舞する前に戦地へ赴いて戦わなければいけない人の心情とか
やらなきゃいけないんだけど後ろに引っ張っているものがあるはずだとか
送り出して守りは心配しないで
天皇陛下のために死んでらっしゃいって建前では言うけれども
本当にそう思って送りだしたんだろうか?
そんなことが頭をよぎったんじゃないか。
戦争が終わり軍部による「表現の自由」の制限がなくなった中、
松本は一つの詩を書きます。

1948年、36歳の若さで亡くなった松本竣介。
現在息子の松本莞さんは
おぼろげな父との記憶などを
書いてまとめる作業に取り組んでいます。

その中に父との幼いころのあるエピソードを書いています。
家の中で落書きをして祖母に怒られた莞さん。
それを見た父は
アトリエの中なら自由にどこになにを書いてもいい
と言ってくれたと言います。

子供がやりたいと思ったことはできるだけ自由にやらせてあげたい
そんな気持ちを感じられた。
戦争という名のもと自由がなかった時代。
表現の自由を守り、人間の心を描こうと松本竣介は静かに戦い続けました。
その生きざまが“あべこべ”の戦争ポスターに刻まれていました。
(NHK盛岡放送局 下山慧)