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「ツナミプランツ」~被災地に芽吹く命の記録~

  • 2023年03月06日

植物の記録が伝えるもの
 

12年前、東日本大震災の津波でほとんどが失われた場所に、
春になると少しずつ草花が芽吹き始めました。

福島県南相馬市で震災後に咲いたミズアオイ

そうした、津波浸水域に生きる植物を「ツナミプランツ」と名付け、その記録を描くアーティストがいます。

倉科光子さん
高校時代までを青森県三戸町で過ごし、今は東京で活動しています。
幼いころから植物が大好きで、いつも地面ばかり見て歩く子だったと言います。
着物に草花を描く友禅の仕事を経て、植物画を描くことが自身のテーマになりました。

「植物に対して、君頑張ってるね、すごい勢いで生えてるねとか。1つ1つ、こんな風に生えたいよねって思いながら、描いちゃいます。1人1人の表情を描く感じ。」

東日本大震災が起きたとき、倉科さんは東京にいました。
覚えたのは、無力感でした。

「ふるさとの東北があんなことになって、こんな状態で絵なんて描いていていいのだろうかと。でも、何ができるわけでもないし。」

そうした葛藤の中、倉科さんはある話を耳にします。

「阪神淡路大震災の被災地では、がれきの隙間からスミレが咲きほこったそうなんです。それが、被災した人の心を慰めたと。それを聞いて、もしかしたら東北にもスミレが咲くかもしれないと思ったんです。そして、私だからこそ東北の植物をしっかりと描けるんじゃないかなって。だから被災地の植物を描きたいと思ったんです。」

震災の2年後から、倉科さんは被災地の植物に何度も会いに行き、記録を重ねてきました。

最初の作品となったのは、久慈市の砂州に見つけた「シロヨモギ」
地元で開催された植物観察会に参加したときに出会いました。

題「40°12'32"N 141°47'54E」
倉科さんの作品のタイトルの多くには
その植物が生えていた場所を示す緯度経度が使われている。

震災から2年後、津波から生き延びた1株が命をつなぐ姿です。
 

「これ、震災のあと初めて咲いた花が枯れているんです。津波から生き残ったんですけど、その年は花を咲かせるところまでは行かず、次の年にようやく咲いた花です。そのあと、下には新たな葉が生えてきたところ。花が咲いている時期よりも、「私、花を咲かせたわよ!」っていう風に見えて。印象に残って描きました。」

「出会った日は特にやませがすごかったので。もう私とシロヨモギしかいないぐらい、周りが真っ白だったんですよ。だからもう2人な感じがしましたね。生きている者同士、2人だけ取り残されてる感じ。」

倉科さんが「ツナミプランツ」に重ねるのは、人が希望に向かう姿です。

「なんか、植物も人間も同じというかねどこにでも種が埋まってて。光とちょっとした水さえあればどこにでも芽が生えてくるし光を求めて生えてきている植物もありましたっていうことを私は記録しています。」

 

「ツナミプランツ」の評価は海外にも広がっています。

アメリカの国際コンクールや、イギリス王室主催のコンテストで賞を受賞。
更には去年、世界遺産・キュー植物園の中にあるシャーリー・シャーウッド氏のギャラリーにも収蔵が決まりました。

特に、描かれる植物が語りかける震災の記憶に世界の注目が集まりました。

「東日本大震災について、聞きたくても聞けないという人が海外には多かったんです。だから、ツナミプランツから伝わる物語を評価する言葉がたくさん寄せられました。涙する人もいましたね。」

今も見つめる被災地を生き抜く植物

ことし2月11日。倉科さんは、福島県南相馬市にいました。

今も津波浸水域に生きる植物に会いに来ています。
冬になり枯れた植物に覆われている土に、
ほとんどの人は存在にも気づかないであろう、小さな花を見つけ声をあげました。

「オオイヌノフグリが咲いてる!!」

その表情は、マスクとサングラスを着けていても想像できました。

「私はどちらかというと、こんな風に植物に出会える、好奇心とかワクワクする気持ちで来てるんですよ私が一緒に行って悲しんで、悲しい絵を描いたからって、それは何もならないような気がするんです。」

震災から12年。描きためた作品も12を超えました。
倉科さんは自分が描く植物の生きる姿が、
少しでも被災した人たちの希望につながればと願っています。

私が描いているところは、鎮魂の場であり、祈りの場であるということは重々承知しているんですけど。悲しくて泣く時間がすごくたくさんある中の、その中の1回でも、植物が生えてきたらしいな、とか、そのくらい思い出してもらえればそれでいいかなって。

12年分の思いを込めて 東北で初の展覧会

ことし、倉科さんは初めて東北で展覧会を開きました。
12年にわたり、絵筆にのせてきた思い。
ようやく、被災した人たちに届けられる場所に立ちました。

福島県 南相馬市博物館

作品を見つめる観客を不安そうに見つめる倉科さん。

怖いですよ負の感情みたいなものも絶対必ずあるはずなんですね。だけどそれは多分直接言ってくる人はいないでしょうし。そこはちゃんと想像していこうと思ってます。」

しかし、絵を見た地元の人たちから聞かれたのは、倉科さんへの「感謝」でした。

被災を経験した母親と震災後に生まれた子ども

「何もなくなったところで、こんなにたくさんの植物が一生懸命生えてきているっていうか、生きているっていうのを絵を通して知って、植物の力強さを感じたし、人間も負けてられないって思いましたね。植物を通してそう思わせてくれる、倉科さんには感謝したいです。」

いわき市で被災した女性

「特に福島、原発事故があったせいで、あんまりいいイメージもたれなくて。でも、倉科さんが福島で描いた作品で、葉っぱの影がきれいに映っているところがあって。水面の表現がすごくきれいだったんです。これ書ける人なかなかいないんじゃないかなと思って。何かもう倉科さんが福島に、東北地方にかける思いっていうのが伝わってきて。ありがたいっていうか、なんか特別な人だなと思いました。」

相馬市で被災した女性

「私たちの思い以上のものをその絵に込められているっていうのが分かってすごいなと思ってみていました。ここまで被災地のことを思って通って描いてくださっているというのは、本当に頭が下がりますね。」

ふるさと・東北へ、何かできることはないかと悩み、描き続けた倉科さん。
12年分の思いは「ツナミプランツ」から届き始めています。

「自分がやってきたことが、人の力になるようなことがやっぱりあるんだなって。実感できたのがきょうなんですよね。自分の描きたいものを描いていく気持ちはより強くなりました。」

「植物の生き様。生き様っていうか。そうですね…。その枯れていく姿もそうですし、これから新たに育っていくものもそうだし、遺骸となってしまったものの姿もそうですし、そこの場所のすべてを描くのが自分のテーマなので。植物のそういう姿を描いていきたいです。」

 

 

~取材後記~

 倉科さんに話を聞く中で感じたのは、植物への愛情だけではなく、心の奥底に見える、12年前、被災地にいなかった多くの人が持ったであろう、「何か力になりたい」という思いの一方で感じる「無力感」や「うしろめたさ」でした。ただ、絵を見た人たちは、倉科さんに感謝の言葉を口々にしていたのが印象に残っています。被災地への思いの寄せ方は人それぞれ。それも、うまく伝えることはなかなかできないもので、倉科さんの場合は12年かかりました。それでも、その思いが被災を経験した人たちに届く瞬間を見て、「思い続ける」ということの尊さを実感し、大切にしていきたいと感じた取材でした。

  • 菅谷鈴夏

    NHK盛岡 アナウンサー

    菅谷鈴夏

    2020年入局

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