漫画「はだしのゲン」とは
原爆投下後の広島をたくましく生き抜く少年の姿を描いた漫画、「はだしのゲン」。学校に置いてある数少ない漫画だけに、子どものころ手に取って読んだことがある人も多いのではないでしょうか。
「はだしのゲン」はことし6月、連載開始から50年を迎えました。 長年読み継がれてきたこの漫画には、どんな思いが込められていたのか。 作者を支えた“最初の読者”に話を聞きました。
「はだしのゲン」とは
「はだしのゲン」の連載が始まったのは、1973年。描いたのは中沢啓治さん(1939-2012)。6歳のときに広島で被爆した漫画家です。
次の世代を作っていく子どもたちに原爆のおそろしさを知ってもらいたいと筆をとった中沢さんをそばで支えたのは、妻のミサヨさんでした。
―――啓治さんはどのように漫画を描いていた?
ネームを描くときはひとコマひとコマが本当に真剣勝負で、いかに短い文章で的確に表現できるかというところは苦労していましたね。そういうときは部屋に閉じこもってやっていました。絵の場合はいくらか気楽に、ラジオを聞きながら描いてましたよ。
一番はじめに読むのは私です。私は原爆について詳しいことは知らなかったので、初めて細かく知ったのは「はだしのゲン」です。感動する場面ではじーんとくるときがあるし、私が涙ぐんでいたりすると、感想は聞いてこないんですがちらちらと横で見てきましたね。
主人公ゲンは、広島に投下された原爆によって家族を亡くします。それでも、「踏まれても踏まれてもまっすぐ伸びる麦のように強くなれ」という父のことばを胸に、たくましく、力強く戦後を生き抜いていきます。この作品は、中沢さんが父、姉、弟、そして8月6日当日に生まれた妹を亡くした自身の体験をもとに描かれました。ゲンたち中岡家の家族構成は中沢さんの家族そのものです。
原点は“怒り”
中沢さんはかつて、NHKのインタビューでこのように語っていました。
「葬儀のあとお袋を火葬にしたときに骨がないんです。驚いたね。 いくらかきまわしてもこんな小さな骨しかないんです。こんなばかなことがあるかと。 お袋の骨がないというのはどういうことだと、ものすごいショックを受けてね。 原爆の放射能が骨の髄までとっていきやがったと。こりゃあもう許せんぞと。 そこで原爆をテーマにしようと思った」
(中沢啓治さん 2005年放送)。
これまでに24の言語に翻訳されるなど、海外でも広く読まれてきた「はだしのゲン」。原爆を題材にした作品と聞くと、絵のインパクトからもまずこの作品を思い浮かべる人は多いかもしれません。
―――原爆のおそろしさを訴えるようなこわい描写のシーンがたくさんあります。
少年誌の編集長から連絡をいただいことがきっかけで連載が始まりました。でも人気がないと打ち切られちゃうでしょう。
だから私が当初、「ケロイドや傷口にウジ虫が湧く様子は子どもが読まないから、もうちょっと表現を抑えて、やさしく描いたらどう?」と言ったら怒られたんです。
「これでも最小限に抑えて描いているんだ。これ以上簡単に描くと原爆じゃない。実際はもっともっとひどい。目玉が飛び出たり、腸が飛び出た人もいたんだ」って。ただ、そういうことまで描くと子どもが目を背けるから最低限のことだけ、こわさを抑えて描いているんだと言っていました。
ーーー原爆のこわさをどう表現するか、悩んでいた?
原爆の被害をごまかしちゃいけない。でもどうしたら子どもたちに読んでもらえるかというところはとても苦労していました。
目を黒く表現しているのは、子どもだったらここまでは見てくれるんじゃないかという思いでああいう感じで描いてあるんです。それでも「皮膚が垂れ下がっているのは本当なんだから隠すわけにはいかない。そういう部分をちょこっとだけ描いていたら、原爆のこわさも、当時の悲惨さも伝わらない」と言っていましたね。
子どもに向けて描いた「原爆漫画」
多くの学校の図書室にも置かれている「はだしのゲン」。連載開始から50年が経ついま、広島の小学校を取材すると、図書室や学級文庫には読み込まれてボロボロになったゲンがありました。そして、どの学校でも10巻すべてそろっていることはなく、誰かが借りている状況。いまの子どもたちからも根強い人気があると実感しました。子どもに向けてゲンを描いていた中沢さんは、学校でゲンが受け入れられていることをどう思っていたのでしょうか
―――図書室や教室に置いている学校も数多くあります。
主人は学校で読まれていると聞いてとても喜んでいましたよ。昔は教職員たちが集まる講演会によく呼ばれていて、そこで先生たちから話を聞くみたいなんです。帰ってくると「あそこの学校では学級文庫がボロボロになって何回も入れ替えたと先生が話していたよ。あそこの学校では表紙が破れて、木の板を貼っているらしい」ってうれしそうに私に報告するんです。子どもに読んでもらいたいと思って描いた作品だから、子どもが自ら手にとってくれていると聞いたら、それはうれしいですよね。
―――なぜ子どもに読んでもらいたかった?
子どもは純粋で、記憶がすごく残るでしょう。主人も6歳で被爆していて、当時のことをずっと覚えている。漫画を見たときに、戦争はおそろしい、原爆は二度と落ちてほしくないという思いを子どもたちには持ってもらいたかったんでしょう。とにかく「繰り返してほしくない」という思いがすごくあったんです。
あるとき、「うちの子はこの漫画を読むとこわくて夜眠れないんです」という手紙が届きました。そのときに、「お子さんは感性が豊かな子ですね。大人になったら立派になりますよ」と返していたんです。被爆の実相をとにかく描き残して、子どもたちに読み継いでもらいたいという思いで描き続けていました。
ーーーこの作品には“麦”が大切な存在として描かれています。
ゲンはどんなときでも、周りを明るく励まして麦のようにたくましく生きていきます。主人は「母親が生きていたからまともな人生を歩むことができた。一人だったら野垂れ死にしていただろう」と生前話していました。当時の広島でそういった孤児たちをよく見てきたんですね。子どもどうしで1人じゃ生きていけない。そういう環境でいかにして助け合って生きていけるかとか、その力強さ、人間愛、そういうものを「はだしのゲン」には込めたんだとよく話していました。
市民から見た戦争とはなにか。きのこ雲の下ではどんな悲惨な光景が広がっていたか。次の時代を作っていく子どもたちに伝えたいという思いで描き上げられた「はだしのゲン」。
作者の中沢啓治さんが亡くなり10年が経ったいまも、麦のようにたくましく生き抜くゲンの力強い言葉が色あせることはありません。
ミサヨさんはこれからも多くの人に読んでもらいたいと話します。
半世紀にわたって読み継がれることは感謝ですよ。当時読んでいた小学生の子どもたちは60歳以上。孫がいる年齢ですよね。主人が残したこの漫画はすごい作品だとしみじみ思います。
主人は子どもが自分から読み始めることを喜んでいました。なにかのきっかけで、子どもたちが自ら興味を持って手に取ってくれたらうれしいですね。
世界が平和になるまで読み継がれていってほしいです。