語り始めた大川小の子どもたち 紫桃朋佳さん
「しゃべることが、自分にとって悪いことじゃないっていうのをわかってきたのが、最近だと思います」
宮城県石巻市の大川小学校の卒業生で、東日本大震災当時・中学1年生だった紫桃朋佳(しとう・ともか)さん。妹の千聖(ちさと)さんは、大川小学校に通う5年生だった。
あの日学校にいた千聖さんは、東日本大震災の津波で亡くなった。
大好きだった妹と会えなくなって12年。
千聖さんのことや家族のこと、ふるさとのこと・・・
思い出してつらかったり、でも、夢に出てくるとうれしかったり・・・
これまで抱えてきた思いやこれからのことを、少しずつ語り始めている。
(仙台放送局 ディレクター 中島 聡)
東北ココから「語り始めた大川小の子どもたち」
7月21日(金)午後7:30~7:57放送予定(宮城県域放送)
※放送から2週間、NHKプラスで見逃し配信をご覧いただけます
大好きだったふるさと 大好きだった家族 大好きだった妹
朋佳さんがふるさとや家族、妹のことを楽しそうに話す笑顔が印象的だった。
朋佳さんが生まれ育った地域は、子ども会の活動が盛んで季節ごとにさまざまな行事が行われていた。
春はお花見、夏は流しそうめん、秋は焼き芋大会、冬はクリスマス会・・・
大人も子どもも、家族ぐるみのつきあいだった。朋佳さんの父・隆洋(たかひろ)さん、母・さよみさんも行事へ積極的に参加し、子どもたちを温かく見守っていた。
「人と人が近すぎる。楽しいですよ」
朋佳さんが震災前のふるさとについて、笑ってそう教えてくれた。
そして、妹の千聖さんとはいつも一緒だった。家の周りは至る所が姉妹の遊び場で、近くに流れる川で沢ガニを捕ったり、田んぼでドジョウ取りをしたり、母親に教えてもらった木の実を採りに行ったり・・・。
朋佳さんによれば、千聖さんは末っ子ということもあってか、周りの子との関わり方が上手で社交的、家族や親戚からもかわいがられるタイプだった。
オシャレにも気を遣っていて、朋佳さんの着る服を選ぶほどだったという。
一方、朋佳さんは内気で、見た目にも無頓着。決まった幼なじみと遊ぶか、千聖さんと一緒に過ごすことが多かったという。
そんな性格が違う姉妹だったからこそ、友だちのように過ごせたのかもしれない。
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紫桃朋佳さん
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「常に周りにはいましたし、千聖は。ずーっとお風呂も一緒、寝るときも一緒、登校も一緒、ずっと一緒でした。動物園で2人で迷子になったんですけど、それも一緒でしたもん」
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紫桃朋佳さん
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「家の中はすごいにぎやかだったかなって思います。お父さんもお母さんも仲いいし。その日あったことは、全部 親に話すみたいな。本当に普通の家族ですね」
“あの日”から変わった 家族のために「笑わなきゃ」
朋佳さんが、“あの日”からのことを一つ一つ丁寧に教えてくれた。
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紫桃朋佳さん
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「お父さんが『千聖、だめだった』って言われたのをすごく覚えていて。でも『違う違う違う』みたいな。安置所にはみんなで行って。私とお兄ちゃんは一番後ろの後部座席に乗って、お父さんとお母さんが助手席と運転席に座って、『ちょっとまだ待ってろ』って言われて待っていたんですけど、すごいお母さんの叫び声が聞こえて。それでも『うそだ、うそだ、うそだ』って思っていたんで。
千聖に会いに行って、これが千聖だっていうのを認めたくなくて。ずっと信じてなかったです。でも着ている服も全部そうだったし・・・。
その日一緒に家に帰ってきて、みんなで千聖を囲んで寝て。本当起きたくなかったし。ずっと千聖がいるのに千聖の顔を見られなかったです」
千聖さんがいなくなってから、朋佳さんたちの生活は変わった。家族や親戚は毎日、悲しみに暮れた。
いつも一緒で大好きだった千聖さんがいなくなってしまったことは、当時中学1年生だった朋佳さんにとっても受け入れることができない、あまりに大きすぎる出来事だった。
さらに、わが子を失った親たちのこれまで見たことのない姿に戸惑い、苦しんだ。
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紫桃朋佳さん
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「お母さんのあんな顔見たことなくて。泣いていたとかじゃないです。悲しんでいるって顔でもないし、本当に放っといたら死んじゃうんじゃないかみたいなって」
そして朋佳さんが始めたことは、笑うことだった。震災前の明るい家族を少しでも取り戻したい思いだった。
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紫桃朋佳さん
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「笑い方とか、家族の前での笑顔の仕方が、千聖が亡くなってからわからなくなって。でも笑わなきゃみたいな。たぶん子どもながらにくみ取ったんでしょうね。わからないですけど。
しんどいです。しんどい、しんどい。しんどいです。でも、やんなきゃって。
『こんな時期にヘラヘラしてる朋ちゃんどうなの』って思われてるのかなとか思ってはいたけど、それよりも明るくしなきゃっていうほうが強すぎて」
「娘の気持ちに気づく余裕のない日々を送っていた」
父親の隆洋さんは当時、朋佳さんの気持ちに気づく余裕のない日々を送っていた。
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紫桃隆洋さん
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「子どもたちは『自分たちもいるよ』と叫んでいたんだろうし、『悩んでるよ』と叫んでいたんだろうし、そのときに少しでもいいから寄り添って話を聞いて、そういう時間も大切な時間だったのになって」
震災から3年後。隆洋さんたち一部の遺族は、市と県を相手に、裁判に踏み切った。なぜ学校は子どもたちの命を守ることができなかったのか。その理由を知りたい一心だった。
裁判が終わったのは、震災から8年後。隆洋さんは今、朋佳さんの気持ちに向き合えるようになってきたという。
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紫桃隆洋さん
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「子どもたちはどんなに苦しい思いで、それを語ることもできないし、そういった苦しいながらも社会に出て頑張ってる姿、親でありながらすごいなって思いますよ」
最近は、自分のために笑えるようになってきた
朋佳さんは5年前から地元・大川を離れて、横浜の写真スタジオでヘアメークの仕事をしている。
オシャレに無頓着だった朋佳さんが、中学3年生ころから自分でメークをし始めると、楽しくなってきたという。気づくと、ファッション誌やユーチューブでメークの方法を研究することに夢中になった。
憧れていた仕事を始めた朋佳さんだったが、最初はたびたび戸惑った。写真スタジオには入学式や卒業式、七五三など、晴れの舞台を写真に残そうと子ども連れの家族もたくさんやって来るからだ。
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紫桃朋佳さん
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「私と同じ姉妹とかを見てると、『あー、そうだったな』とか。最初は超つらかったですよ。私も千聖がいればなとか、超大変だった。そこにいるのもつらかった。でもその子たちを笑わせる仕事だから」
でも同時に、相反する気持ちもわき上がるようになってきた。
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紫桃朋佳さん
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「『お姉ちゃん、お姉ちゃん』って言ってる妹とか、3歳の子とか見てると、あー、そうだったなみたいな。そういう子たちに限って、ちょっと頑張ろうって思います。ヘアメークをもっとかわいくしてあげようとかって思っちゃうんですよね。かわいくしてあげたいって思って」
これまで周囲を明るくするために笑っていた朋佳さんだったが、最近は自分のために笑えるようになってきたと感じている。
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紫桃朋佳さん
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「周りのことを明るくするためにっていう感じで生きてきたけど、やっと落ち着いてきて、自分の成長のために、自分が悔いなく生きられるようにするっていう感じに変わりましたね。前までは人のために周りのために、今は自分のためにっていうのは変わりました」
朋佳さんは地元を離れるとき、実家から千聖さんとの思い出の品を持ってきた。千聖さんが誕生日のときに撮られた二人の写真や千聖さんのぬいぐるみ。
今も千聖さんに会えない現実を思うとつらくなる。でも・・・。
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紫桃朋佳さん
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「普通に シンプルに 『会いたいな』は いつも思います。でも何でなんですかね、人間って、ちゃんと認めるんですよね。自然と徐々に徐々に。『千聖がいないことを認めてたまるか』って思っていたけど、自然と認め始めて、それがどんどんなじんできたっていうのかな。しゃべることが、自分にとって何か悪いことじゃないっていうのをわかってきたのが、たぶん最近だと思います」
あの日から気持ちが揺れ動いてきた12年。今、大切にしている思いを語ってくれた。
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紫桃朋佳さん
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「思い出してつらいことはあります。思い出したくないっては思わない。千聖に会ったときに恥ずかしくない、楽しかったって言える人生にしようっていうのがあります。ずっとある。楽しかったよって言える生き方」