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「美談にしないでね」ぼくの母校は震災遺構

「美談にしないでね」

ことし1月、母校で開かれた同窓会で、同級生たちから言われたことばだ。
12年前のあの日、ぼくの母校は津波に襲われ、地域で多くの人が亡くなった。
そして、ぼくと家族はすぐに県外へ移った。

「ぼくは被災者なのか」
「あの日のことを伝えていいのだろうか」

記者として、ひとりの人間として、ずっと考えながら生きてきた。

(宇都宮放送局 記者 齋藤 貴浩 )

あの日ぼくらはこの学校にいた

宮城県石巻市立門脇小学校。「門小」の名前で親しまれていた、ぼくの母校だ。市内でも歴史ある小学校として知られ、かつてはおよそ300人の児童が通っていた。

しかし、東日本大震災で津波に襲われ、その後、児童数の減少によって閉校に。津波の痕跡を大きく残す校舎は、保存と整備を経て、去年4月から震災遺構として一般公開されている。

焼けた教室の壁。骨組みだけになった机やいす。

真っ白だった校舎は黒く変色している。
でも、確かにあの日、ぼくらはこの学校にいた。

あの日のこと

12年前、ぼくは小学6年生だった。

小学6年生の筆者
小学6年生のぼく

卒業式を1週間後に控え、最後の思い出づくりに一生懸命。
休み時間には友達とドッジボールに熱中していた。

2011年の3月11日。校庭で掃除をしていた時だった。
突然の激しい揺れに、最初は何が起きたのかよくわからなかった。
揺れが収まってやっと、地震だと理解した。

学校に残っていた児童は、先生と一緒に裏山へと避難した。
そこは、同じように高台へ逃げてきた人たちでいっぱい。
みんな、不安そうな表情をしていたのを覚えている。

日和山に避難した時の様子
日和山に避難した時の様子(画像提供:寳優介さん)

記憶では、揺れが起きてから50分後くらいだったと思う。
目の前に突然、黒い壁が現れた。
車や家が次々と浮かんでは流されていく。津波が街を襲った。

ぼくの住んでいた地区では、行方不明者を含めて500人以上が犠牲となり、小学校でもすでに下校していた児童7人が亡くなった。
ぼくの家族4人は無事だったが、家は津波で流された。
そして学校は、津波と火災に襲われて大きな被害を受けた。

震災直後の門脇小学校
震災直後の門脇小学校

母校での卒業式はできなくなった。

県外へ避難したけれど・・・

震災から1か月後、高台にあった中学校の一室を借りて卒業式が行われた。これが、同級生と過ごす最後の時間になった。

小学校の卒業式の時の筆者
小学校の卒業式の時のぼく

ぼくは家族と一緒に、親戚を頼って青森県へ。そのまま青森県内の中学校に入学した。

てっきり石巻に戻ってみんなと同じ中学校に進むものだと思っていたから、初めは驚いた。でも、生活の再建に向けて慌ただしくしている両親にはそのことは言えなかった。

少しずつ、日常生活が戻ってきた。
学校で1時間目から授業が始まって、放課後は部活もある。新しい友達もでき、遊ぶこともできる。

でも、石巻に残った友達は、授業がなかなか再開せず、給食も簡易的なものだと聞いた。

「自分だけいい思いをしているんじゃないか」
「石巻に残ったみんなは、ぼくのことをどう思っているんだろう」

次第に、自分の生活を客観的に振り返って“後ろめたさ”や“申し訳なさ”を感じるようになった。この気持ちはずっと残り続けた。

「齋藤って石巻から来たん?」

2011年の夏、ぼくは親の転勤で群馬県に引っ越した。
めまぐるしく変わる環境に戸惑いながらも、群馬でも少しずつ友達ができ、生活に慣れていった。

群馬の中学校では、石巻出身だということを明かしていなかった。

「被災地出身」と言うとあれこれ聞かれて思い出させてしまうだろうということで、学校と両親でそう決めたのだと後から聞いた。
ぼくの紹介は「青森県からの転校生」ということになっていた。

正直、隠すことでもないと思ったし、大好きな石巻をなかったことにされたみたいで悔しかったけど、大人の考えもわかったので、それに従った。

ある日、同じ学年の生徒にこんなことを言われた。

「齋藤って石巻から来たん?」

えっ、なんで知っているんだろう。話を聞くと、学校の図書室に置かれていた震災関連の書籍に、門小の卒業式に出ていたぼくの写真が載っていたのだという。

気づいた時には、このことは多くの生徒の間に広がっていた。

「震災の時、何していたの?」
「津波見た?」
「石巻なんでしょ、大変だったね」
「避難所ってどんな感じ?」


しばらくの間、いろんな人からこんなことを聞かれた。海のない県に住む同級生、いま思えば純粋に「何が起きたのか知りたい」という気持ちだったのだろう。

でも当時は思い出すのもつらかったし、かといって適当にはぐらかせるほど器用でもなかったので、きちんと答えていた気がする。

たまに疲れて、保健室に行っては先生に相談していた。震災の捉え方がこんなにも違うんだと、驚いた。

少し時間がたちその騒ぎが落ち着いたころ、ふと冷静になって考えてみた。
ぼく自身は、震災発生時は石巻にいたけれど、2週間で離れ、現在進行形で進む復旧工事や生活の変化を知らない。地元の復興に向けた取り組みはテレビのニュースで見るだけで、住んでいた地区はぼくの知らない姿になっていく。一方で群馬の同級生たちは、ぼくのことを「被災者」として見てくる。

自分は何者なんだろうか。この感情をどこに向けていいかわからない日々が続いた。

ぼくは被災者なのか

2017年、ぼくは群馬の高校から青森県内の大学に進学した。
聞きなじみのあることばづかいやおいしい料理、そのすべてが懐かしかった。自分は東北の人間なんだと、改めて感じた。大学では、東北の文化や芸術、それに震災前後の人口動態などを学んだ。

一方で、入学時は「被災者」ということで入学金や授業料は免除となった。

支援自体にはとても感謝している。でも「震災を利用して大学に入った」という意識がどうしても消えなかった。

「被災者」ってなんだろう。ぼくは「被災者」だと言っていいのだろうか。考えすぎなのかもしれないが、自分が何者なのか、わからずにいた。

大学時代の筆者
大学時代のぼく

大学3年生になると、就職活動が本格化。周囲もその話題で持ちきりだった。

ぼくはというと、震災の経験を後世に残したいとマスコミを目指し、エントリーシートを書いていた。しかし、志望理由を書こうとすると手が止まってしまう。

「災害報道に携わりたい」「被災地の取材をしたい」

どうしても被災した時の経験にひも付けてしまい、全部本当のことなのに、どこかためらいを感じたからだった。

面接で話す話題も、震災のことばかり。

「ひょっとして震災を“コンテンツ”として消費している?」

自分がとても嫌になった。震災を踏み台にして生きているような気がしたから。NHKに就職が決まった時はうれしかったが、この気持ちにどう折り合いをつけていいか、その答えは見つかっていなかった。

突然目にした母校のニュース

現在、ぼくはNHK宇都宮放送局の2年目記者として、警察や裁判の担当をしている。事件や事故が起きれば現場に飛んでいって取材をする。同じ日はないくらいめまぐるしく、忙しいけれど充実した日々を過ごしている。

燃料高騰の酪農家への影響をリポートする筆者
2023年1月 燃料高騰の酪農家への影響をリポートするぼく

一方で、ぼくが携わりたいと思っていた被災地の取材は、まったくと言っていいほどできていなかった。東北に赴任した同期がふるさとの復興の様子を取材していて、うらやましいと思った。

そんなある日「門脇小学校が震災遺構として公開」というニュースが目に入った。

「えっ、もう公開されたの」

思わず声に出してしまった。家もなにもかも流された自分にとって、母校が残ってくれたのは、石巻で生きていた証になる。

「やっと中に入れる」

卒業生として素直にうれしかった。一方で、「自分で取材したかったな」とも思った。正直、複雑だった。

同級生に会いたい 取材もしたい

震災遺構となった門小に、ひとりで行ってみた。

母校の教室
母校の教室

記憶の中の小学校とは大きく形を変えてしまったけれど、見学するうちに、みんなとの思い出がどんどんよみがえってくる。

思えばこの12年、同級生と片手で数えるほどしか会っていない。震災があった時は12歳。震災前と同じ分の時間がたった。これからはもっと長い人生を歩むことになる。

この12年、どんなことを思っていたのか。ぼくのように石巻を離れた人、残っていた人、それぞれどんな心境だったのか知りたい。ぼくが抱えてきた後ろめたさも、同級生になら話せるかもしれない。門小も残った。

ぼくは、震災遺構となった母校で、同窓会を開くことを決めた。

ただ、記者として、あの日門小で起きたこと、みんなが生きてきたその後の12年を伝えるのも、ぼくの仕事だと思った。

でもそれって結局、震災を“コンテンツ”にしている、ということじゃないか?

ぼくは迷った。何より、同級生にそう思われるのが怖かった。

みんなに会いたい、でも取材もしたい。その2つの気持ちが常にせめぎ合っていた。

最終的に、ぼくは同窓会にテレビカメラを入れることにした。放送する時はみんなの思いをきちんとくみとって伝えようと心に決めて。当たり前だけど。

震災遺構で開いた同窓会

2023年1月、同窓会当日を迎えた。同級生50人のうち45人と連絡がつき、参加すると言ってくれたのはおよそ20人。

本当に来てくれるのか。会話ははずむのか・・・ぼくは直前まで不安を抱えていたが、杞憂に終わった。集合時間にやってきたみんなは、とても楽しそうだった。

ぼくがその輪に入れないほど盛り上がり、まるで12年前に戻ったみたいだった。一方で、変わり果てた校舎を見学する時は、みんなの目にはむなしさが映っていた。

同窓会では、当時の担任2人や校長先生も招いて、みんなで話をした。会場は、卒業式をするはずだった体育館。話を聞いていくと、震災後の12年は本当に人それぞれだった。

地域振興を学ぼうと石巻市内の大学に進学した子。体験を語り継ごうと先生になった子。経験の語り部をしていた子。震災の影響を受けながらも、それを力に変えながら、人生を歩んでいた。

抱えてきた“後ろめたさ”の正体

「石巻に残った人は離れた人のことをどんなふうに思っていた?」

ぼくはこの12年、ずっと心の中で引っかかっていた問いをぶつけてみた。

「一緒の中学校に行くと思っていたからさみしかった」
「それぞれ状況は違ったけど、みんな大変だったのは同じ」
「遠くに行った人のことを恨むとか、まったく考えたことなかったよ」


石巻に残っていた人たちは口々にそう言った。
初めて聞いた同級生の気持ち。そうか、どこで暮らしていようが、みんな震災に翻弄されながら生きてきたんだ。

「自分はかわいそうな人じゃない」

会の中で特に印象的だったのが、高校卒業後、都内で看護師として働いたあみちゃん(徳増亜美さん)のことばだ。

あみちゃん(徳増亜美さん)
あみちゃん

「まわりから出身地を聞かれて『石巻です』って答えると、『聞いてごめんね』という雰囲気を出され、どこか『かわいそうな人』って思われてしまうことがあった。でも自分はかわいそうな人じゃないし、震災も経験したからこそ、できたこともあると思う」

ぼくも中学校のころを思い出した。12年間、いろいろなことがあったけど、震災後の混乱や、抱えてきた後ろめたさも含めて、すべてがぼくの経験となった。それを「かわいそう」と思われることに抵抗があった。

悩んでいたのは、ぼくひとりじゃなかった。気付くと自然にことばが口からでてきた。

「12歳であんなことが起きて大変だった。石巻に残りたかったけど残れず、いまだに帰れていない。県外に出た自分が『被災者』っていう顔をしていいかもわからなかった。でも『石巻の出身でしょ?』って聞かれたら『そうです』って言って体験を話さなきゃいけないと思って、それが本当にしんどかった」

いままで抱えてきた12年分の思いを、この日、やっと打ち明けることができた。気付くと、目から涙が出ていた。

みんなに会ってよかった。その思いは、ぼくだけじゃなかった。ぼくと同じように、震災直後に石巻を離れたちあき(安倍千晶さん)もそうだ。

「忘れられてないか心配だったけど、覚えていてくれて安心した。また石巻に帰ってきてもいいんだなって。みんながいるし、戻ってくる場所がちゃんとあったってことを思い出せた。石巻ってふるさとなんだなって思えた」

「美談にしないで」

同窓会が終わったあと、複数の同級生からこんなことばを言われた。

「私たちの話を美談にしないで」

ぼくは同窓会でのみんなのことばを聞いて救われたと思っていた。だからこそ、言われた時は衝撃だった。

ことばの意味を確かめたい。そう思い、6年間同じクラスだったもも(阿部桃花さん)に話を聞きに行った。彼女はこう言った。

もも(阿部桃花さん)
もも

「震災の話をした時に『大変だったね』『つらいことを経験してきたんだね』っていうだけの話になるのは嫌なのかなって。みんなきっと同じことを思っているんじゃないかな」


「震災のことを前向きに話す子が多かったけど、本気でそう思えるくらい、長い年月がたったってことなのかなって思うようになった」

ももは、震災後も石巻に残って生活していた。中学の文化祭で友人とバンドを組んだことで音楽に熱中し、その後も高校、大学と音楽活動をしてきた。

大学時代の阿部桃花さん
大学時代のもも

その間に、震災前にはなかったライブハウスが石巻にできたり、有名なアーティストが復興支援で訪れたりして、いろいろと刺激を受けたそうだ。

震災は絶対になかった方がよかったけど、震災があったからできたこともあった。震災がなかった世界を自分たちは知らないし、街は新しい姿になっていく。石巻に残った彼らには、離れたぼくとは違った葛藤があっただろう。

いいこともつらかったことも全部ひっくるめて、この12年、苦悩や心境の変化があったはずで、それをなかったことにしないでほしい、「美談」として消費しないでほしい、というメッセージだったのかもしれない。

そもそもぼくは、同窓会に来られなかった人の声を、まだ聞けていない。今回のみんなの話を「当時の小学6年生の思い」とひとくくりにしてはいけない。同窓会を経て、取材者として気づかされたことだ。

震災はあの日の出来事だけじゃない

同窓会のあと、ぼくは栃木県に戻って記者を続けている。

原発事故で避難してきた人たちを取材
2023年2月 原発事故で避難してきた人たちを取材

「被災者」とか「原発事故の避難者」とか、「震災○年目の朝」とか、ぼくたちマスコミは何かしらの枠でくくったり、区切ったりしがちだけど、震災はあの日の出来事だけじゃない。

被災したあの一瞬だけじゃなく、その後も形を変えて押し寄せる苦悩や痛み、いいことも悪いこともすべてひっくるめた、生活の変化の連続なのだと思う。

被災したからこそ得られたつながりや経験も震災の一部。3月11日やその周辺で伝えることだけが正しいとは思わない。

ぼくが思う「震災」はこれからも続くもの。愚直に伝え続ける。それが美談だと言われても、それだけで終わらないように・・・。

ドキュメント20min. 「卒業から12年の春に〜石巻・門脇小学校〜」

12歳で東日本大震災を経験したぼく。津波で被災した母校の小学校で、同窓会を開くことを決めた。1人で抱えてきた悩みを打ち明けるために。震災のその後を考える20分。

3月27日(月)午前0:00~放送
※放送から1週間、NHKプラスで見逃し配信をご覧いただけます

齋藤 貴浩

宇都宮放送局 記者

2021年入局。警察や裁判などをはじめ、防災や選挙など幅広く取材。

担当 齋藤記者の
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みんなのコメント(1件)

感想
すずき
50代 男性
2023年4月28日
美談にしないで、震災は決してあって欲しいものではないけど、あの経験があったからこその今があると言うニュアンスの発言があったと思いますが、私自身もそれをすごく感じています。世代は異なりますが、震災の捉え方に同じ様なモノを感じていること嬉しかったです。震災遺構、未だメンタル的に向き合えないのですが、映像では笑顔のシーンがあって少しホッとしました。良い思い出も甦る場所なんだなと。

震災の記憶、防災意識の更なる向上は全国的に必要です。熊本でも被災した方の話は説得力ありました。震災テーマの映画、すずめの戸締り 東北人は避けているところもあるもののインバウンド獲得のための聖地巡礼、それに掛けた防災ツーリズムのチャンスです。辛い記憶を呼び起こすかもしれませんが、東北人のアピール下手を払拭し、メディアの皆さんの力をお借りして時流にのせ、世界中に本当にあった災害を知る契機として発信頂きたいと思います。