「あの日のあと、生き方が広がった」|わたし×高校時代の先生
「『震災遺児とはこういう人です』と定義を特定するような節があると、違うよなって思います」
このプロジェクトが立ち上がる際、私たちに率直な意見や気持ちを教えてくれた遠藤洋希さん。
実は、脳腫瘍の最も重いグレードと診断され、2年の余命を宣告されていました。しかし、遠藤さんは絶望することなく病気と向き合い、いまは余命の2年を超えても体調的に問題がない状態です。
そんな遠藤さんが「いま話したい人」として名前をあげたのが、高校2年生以降のクラス担任の先生でした。
卒業後も定期的に交流を続けているふたりですが、コロナ禍でしばらく会うことは叶いませんでした。
「転職」や「闘病」など、話したいことがたくさんたまっているという遠藤さん。2年ぶりに会うことになりました。
(報道局 政経・国際番組部 ディレクター 松村亮)
遠藤さん×NHKディレクター
対話はこちら
2回、死と向き合う機会があった
もう10年ぐらいの付き合いですかね。
切れずにずっと一緒にいる生徒はヒロくんだけ。ほんとオンリーワンよ。ほかにも交流が続いてる子もいるけど、優等生を演じていた高校のときから比べたら、一番変わったのはやっぱヒロくん。
変わってますかね。
真面目だった。いつもで背筋がピンとしてて、しっかりしてて、ゆるみがない子だった。悪いわけじゃないけど、全部真面目にやってるね、みたいな。
なんか高校卒業するぐらいから動き回りたいって気持ちはあったみたいで。「みちのく未来基金」から、大学に入るタイミングでもらえる奨学金に最初に行ったとき、そこで抱負みたいなの書いたんです。未だに残ってるんですけど「とにかく動き回る」って書いてあるんですよ。で、その通りに行動しまくった大学生だったんで。
大学時代にやりたいことを迷わずやるようになって、フランスに行って更に考え方がワールドワイドになって達観した。病気になってさらに変わったと思う。
病気、大きかったっすよ。
病気になってからは、勢いが増した。やりたいことは今すぐに、じゃろ?
そう。震災と病気の2回、死と向き合う機会があったんですよね。1回目が震災で。でも震災って、確かに同級生の子とか流されちゃったし、自分も親が流されて家もなくなったけど、いま思うと自分が死ぬっていう感覚は1ミリも感じなかったんですよ。自分の死とは向き合ってない。ただ、死を身近に感じた初めての機会が震災だったんですよね。
「日常がない」っていうのを感じた瞬間だった?
そうです。当たり前と思ってたものが死んだっていう機会が震災で。当たり前が当たり前じゃないんだって、本当に気付けた。で、いつ死んでも悔いが残らないように生きていくのが大事なんだなって考える土台ができたんですよね。
いわゆる価値観なんだと思うけど、私も気仙沼に行った時に広がったよ。教員しかやってないから、教員の中での物差しなんだけど。
出会いは“クラッカーで号泣”
森先生が働く広島県では、全国の学校に教師を派遣し、交流から学びを得るという方針をとっています。その一環で森先生が2011年に赴任することになったのが、宮城県の気仙沼高校でした。
震災発生の3か月後から担任を受け持つことになりますが、町は復旧作業の真っ最中。生徒たちが置かれた状況を想像し、自分に担任が務まるのか自信が持てず、極度の緊張状態に置かれていたと言います。
朝、「あいさつしてくれ」って言われて、いや覚悟はしとったけど。教室内でほかの先生に紹介してもらえるかと思ったら廊下にしかいないのよ。「私だけ教室に入るの?」みたいな。それで教室に入ったら、歓迎のクラッカーが鳴ったんよ。あれだけはすっごく覚えている。
めっちゃ覚えてますよ。バンバンやって。
びっくりしちゃって、泣いて。
ぼろ泣きでしたよ(笑)。あのときAKB48が男子の中でブームだったんですよ。前田敦子さんがセンターのときに、「森敦子が来る、あっちゃん来るらしいよ」みたいな。どんな人なんだっていろんな予想してて。クラッカーをバンバン鳴らしたら、めっちゃ泣いてるじゃん…って。
びっくりと、気持ちが緩んだんだろうね。気仙沼の被害を見てる中で、子どもたちの状況を想像した上で教室に行く。そりゃあ緊張してる中で「なんだこのクラッカー」みたいな。ブワーって泣いて…「森敦子です」って。もちろん震災で被災した子はいるし、それはもう平等にクラスにいるんだけど、生徒もいろんな気質があるじゃん。性格とか、進路とか。いろいろな事情があるけど、震災がなければ、保護者対応とか生活態度において、ほとんどトラブルのないだろうなっていう子が集めてあったんよ。私のために。
楽しかったっすね。僕らが英語力つけるには圧倒的に森先生だったんですよ。ただ、厳しいっていう印象だった。(笑)
生徒にも救われて、先生たちにも救われた。「広島にいるようにやってくれたらいいから」って。普通に授業ができた。面談とかもするんだけど、私は勇気がなくて全然(震災のことを)聞けないけど、いいかって言ったら「聞けなかったら聞けなくていい。聞かなくていいから」って。だから甘えてたな。広島に戻ってきてから振り返って、めっちゃ後悔。もっとできただろ私って。今も未熟だけど、どれだけ未熟者だったんだって思うよ。
「生きてりゃいいじゃん ハエいないし」
生徒をはじめ多くの人間とかかわる職業柄、ささいなことでストレスを感じてしまうことが多かったという森先生。しかし、気仙沼高校から戻ってきて以来、自分の中の物差しが大きく変わったといいます。
最後に行き着く先は「生きてりゃいいじゃん」っていつも思うんだよ。
そうなんですよね。
それこそ授業中にトイレ行くのすら気にする子がいっぱいいる中で、私は「え?好きなだけトイレ行けばいいじゃん」ってスタンスだけど、でも昔の私はね、「トイレは休憩時間に行きなさい」って言ってたんだよ。「休憩時間にトイレ行ったら、今トイレ行かなくていいでしょ」って、言っていた自分をすごく後悔していて。
何かあったんですか。「生きてりゃよくない?」って思えるようになったのは。
覚えてる?2011年の7月よ。ハエがいっぱい飛んどった時。
ハエ、すごかったですね…。がれきやヘドロから大量発生して、飯くえなかったですよ。ここら辺をハエがうわーって飛んで。で、ハエ捕りのための2リットルのペットボトルを用意して。
ペットボトルに酢を入れるんだよね。そうするともう、ハエで真っ黒になる。授業どころじゃなかった。でもあの時って、ハエにはイライラするんだけど、子どもにも学校にも、何も思わない。でも日常が戻ると、細かい部分が目に付くようになってくる。「あの生徒はどうして言うことを聞かないんだろう」とか「あの先生のここが気に入らない」とか。そういう時に「学校で普通に教えられている今って、あの時と比べて大したことなくない?」って考えると、イライラがスッと収まって。「生きてりゃいいじゃん。ハエいないし」ってなるの。もう基準ハエなんよ。
僕も働いてると、働き方とか仕事をミスったポカしたっていっぱいあるんですけど。
どうでもよくなる瞬間ない?大事なんだけど、究極、スッと自分の許せる基準を下げてもいいわけよ。気仙沼高校に行って思ったのはそこ。超神経質なんで基本的に許せる範囲が狭いんだけど、ふっと広がる瞬間がある。この幅におそらく生徒は救われとるし、私も救われている。 教員って人の人生に関わる仕事やけん、病む人多いけど、私が病んでないのは、ふっと「どうでもよくない?」ってなるから。生きているし、みたいな。
確かに。「これやっても死なないからな」って思うと楽なんですけど、病気になってさらに変わったのが、別に死ぬ、死なないもどうでもよくなってきて。死ぬ時に悔い残ってなきゃいいなと、だけになりました。
生きる原動力となった“恩送り”
遠藤さんには、震災後に生きる指針となった言葉があるといいます。病気と向き合う上でも大きな原動力となっているという言葉。人生の転機となった震災と、その後の出会いについて話しが進みました。
進学を支援してくれた「みちのく未来基金」の長沼理事長が言ってて。「恩は返すもんじゃなくて送るものなんだぞ。だから恩返しじゃなくて“恩送り”をしなさい」って言ってたように俺は記憶してて。自分の中の原動力って、突き詰めていくと“恩送り”ですね。多分返せないから、すこしでも誰かに送っていけたらいいなって。俺は勝手にすごくいいなって思って大切にしてる言葉ですね。震災っていう特殊な大きな転機があった上で、それを機にいろいろな素敵な人たちと出会えてやりたいことを見つけて、やりたいことを追える環境があってすごく幸せになれたんで。なんか自分が今度、恩を送ってあげる側として何かしたいな。
【関連記事】
「みちのく未来基金」代表の長沼孝義さんの対話記事
・わたし×支援団体の代表【前編】
・わたし×支援団体の代表【後編】
“恩送り”の精神で自分にできることを続けている遠藤さん。この秋、「みちのく未来基金」の理事となり、震災で家族を亡くした子どもたちと関わり続けようとしています。森先生は、そうした遠藤さんの生き方に大きな刺激を受けているといいます。
ヒロくんは、私の中では世界を広げてくれる人で、ヒロくんの話を私は自分の生徒に還元する。教員ってアウトプットの仕事じゃん?教える仕事でしょ。でもインプットしないと、出すものはないんだ。インプットにはすごい感動がないと駄目で、本だったり経験だったり何でもいいんだけど 、私はヒロくんの震災の体験とか、病気になったうえでの生き方とか、自分では絶対に経験しないさまざまなことをインプットするんだよ。で、それを生徒に出していく。ヒロくんとしゃべると出すものが多くなるんだよ。
それはうれしいですね。
命の危険があって、すごく心配するんだけど、病院で会ってもどこで会っても、変わらない。しんどいときは、もちろんあっただろうけど、私が行ったときに変わらないから。お見舞いに行った後、広島の教員は何人かヒロくんを知ってるので「どうだった?」って聞かれるけど、「元気だった」って。「えっ、病気なのに元気だったの?」みたいな。
それめっちゃ言われました、入院してたら。「何だ、心配して損したわ」って。病気も捉えようですよね。
もちろん病気は病気だけど、マインドだよね。ポジティブな感じというか。私は自分の世界の延長線上で子どもと接しないといけないから、ヒロくんの話をめっちゃする。「震災後、こういうふうに変わった子がいるよ」って。ヒロくんの広がったところを、自分の生徒に伝えている。
サンプルとしてはちょっと変かもしれないですけどね。
その変なのがいい。“変な人”っていないから、あんまり。自分の中で子どもに話すときに「こんなふうに過ごす子もいるよ、だから自由にしていいのよ」っていう。私は厳しくて、型にはめちゃうパターンの先生なんだけど、その私が言う意味があるんだろうなと思う。「自由な子はいていいんですよ」って。
病気になっても、楽しいことやって、伸び伸びやるのがいいかなって言ってます。一応その中でも、日々の生活リズムとか、食事とか睡眠とか気にしながら、そのぶん、楽しむときには楽しむ。
ハッピーだと、やっぱりいいホルモンが出るらしいよ。適当なこと言ってるけど。
そういうことです。そうやって、いっぱい人と会う口実をつくれる。改めて僕は本当、先生としてじゃなくて、純粋に人としてみたいなところで、森先生と出会えてよかったなってめちゃくちゃ思っていて。純粋に楽しいし、面白い。本当に何も考えずに何でも喋れるっていう関係が学校とか全部超えて、本当にいい出会いだったなって。ありがとうございますと、これからもよろしくお願いします。
「いま言葉にしたい気持ち」過去の対話・インタビューはこちらから読めます。
-「一緒にいたかった。会いたいです」|こころフォト×いま言葉にしたい気持ち
-「絵を描くことが、私にとって“祈り”」 絵本作家・神田瑞季さんインタビュー
-大切な親との別れ 言葉にできるようになるまで
-「“震災遺児”は自分のほんの一部」|わたし×レインボーハウス職員【前編】
-“死”のイメージが少し明るくなった|わたし×レインボーハウス職員【後編】
-「10年経っても、家族は“6人の円”かな」|わたし × “保健室の先生”
「コメントをする」からあなたのコメントを書き込むことができます。
対話を見て感じたことや、あなた自身が経験したことをお寄せください。