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「“震災遺児”は自分のほんの一部」|わたし×レインボーハウス職員【前編】

東日本大震災で、親や家族など大切な人を失った子どもたちの“いまの気持ち”を、誰かとの対話を通じて記録する「いま言葉にしたい気持ち」。
「家族」「生き方」「人生」…個人の名前が出る話などはのぞき、ありのままの言葉を残していきます。

去年、夢を追ってフランスに渡った久我理亜さん(25)。東日本大震災で父親を亡くして以来、自分に“震災遺児”というイメージがレッテルのようについたことに、違和感を覚えながら過ごしてきました。
新型コロナに見舞われ、思い通りにいかないことも多い海外生活。震災以来、夢や目標を打ち明けてきた、東北レインボーハウスの2人の職員と、国境を越えて1年半ぶりに語り合いました。

久我 理亜さん(25)

宮城県の内陸部、富谷町(現・富谷市)出身で、中学2年のときに震災を経験。地元に津波被害はなかったが、発災時に仕事で沿岸部の名取市閖上(ゆりあげ)にいた父・正春さん(当時43)を、津波で亡くす。2015年ごろから東北レインボーハウスに通い、去年フランスに渡る。
左:山下 高文さん(31) 右: 四海 結花さん(30)

あしなが育英会が運営し、震災などで親を亡くした子どもたちの支援を行う「東北レインボーハウス」の職員。2人とも東北出身で、学生時代に遺児との交流プログラムを通して「当事者が語れる環境」や「思いを受け止めてくれる存在」の大切さを痛感し、あしなが育英会に就職した。

新型コロナの壁 たどり着いたフランスで…

3人の対話はリモートで実施
久我さん

お久しぶりですね。本当に。

山下さん

調べたら2020年の2月に“にじカフェ(※)”に参加してくれて以来かな、直接顔を合わせるのは。緊張してきた…(笑)

※にじカフェ…
東北レインボーハウスが18 歳以上の子どもたちを対象に定期的に開催してきた、社会への巣立ちを応援する場。親を亡くした子どもたちや職員たちが集まり、その時々で直面している悩みや将来の目標などについて、毎回ざっくばらんに語り合われている。
久我さん

そっか、もう1年以上前ですね。まだ私がまだ大学生のときでしたもんね、前回会ったのは。

フランス・レンヌ 渡仏して1年以上がたつ久我さん

3人の対話は近況報告からスタート。久我さんはフランスに渡ってはいるものの、大学には通わずに各地を転々としているといいます。本来なら去年秋からボルドー大学で社会学を学ぶはずでしたが、新型コロナの感染拡大が立ちはだかりました。

久我さん

ボルドー大学側から受け入れられてはいたけれど、学生ビザが下りなくて、学生として来られなくなってしまったんです。3年間フランスで勉強するつもりだったので、それができなくなってしまって。いま迷っていて、どうしたらいいかなって。とりあえず3か月間はフランスとか、ヨーロッパの国でフランス語と英語の勉強をしてから帰ろうかなとも思っていて・・・。

山下さん

フランス語はもうだいぶ問題なく話せます?

久我さん

はい。フランス語は大丈夫です。1年間セネガルで勉強して、その後10か月フランスにもいて、もう3年間ぐらい勉強しているので大丈夫になりました。

山下さん

にじカフェの中で「(フランス語)猛勉強してます」って聞いていたので、安心しました。フランスの大学で学びたい気持ちはどうですか。(延期が続くと)違う予定を立てようかなって感じですか?

久我さん

去年も新型コロナのせいで大学側から「(入学を)延期して下さい」ということだったんで、今年もだめになってしまい、そろそろ待てないかな…という感じですね。

“14歳の自分”に声をかけるなら…「環境を変えてみて」

東日本大震災の発生から10年。東北レインボーハウス職員の四海さんは、以前久我さんが語った、10年前の震災当時に抱いていたという思いが忘れられないでいました。

四海さん

聞きたいと思ってたんだけど、「世界はとても暗かったです。何っていう理由もなく毎日悲しくて仕方なかったです」って、14歳のときのことを振り返って理亜が話してくれたことがあって。10年たって、いろいろなことを経験して25歳になっているじゃない?もし14歳の理亜ちゃんに、いまの理亜が何か声や言葉をかけるとしたらどんな言葉なのかな。

久我さん

たぶん14歳の私は、誰の言葉も聞かなかったと思いますね。いろいろなものに反抗していたし、言わないけれど、心の中では何も信じていなかったし。いまの私、まあまあ明るくなってるじゃないですか。こういう明るい「わー、自由だ」って言っている人が、14歳の自分に何かを言ったところで、きっと何も届かなかったかなと思います。言葉だけじゃ何も変わらなかったんじゃないですかね。たぶん、違う世界に連れ出さなかったら何も変わらないかな。

四海さん

理亜にとっての、環境を変えるきっかけが海外に行くことだったのかな?

久我さん

それもあるし、学校が好きじゃなかったのもあって。震災後、中学校が本当に嫌で。だから、みんなとは違う高校に行ったんです。環境を変えたことと、高校の友達のおかげがたぶん大きいですね。海外も大きいですけど、高校の友達は本当にずっと仲のいい、大好きな友達なんです。

四海さん

そうなんだ。同じように思春期で親を亡くした子どもたちにアドバイスではないけれども、伝えられることがあるとしたら“環境を変えてみる”ことがいいのかな。

久我さん

環境を変えてみるのはとても大事。環境が変わると、自分自身も変わるというか…。だからいっぱい変わるチャンスがあると思う。私が初めて1人旅をしたときに思ったのが、「ここは誰も私のことを知らないし、言葉もあまり通じない」。それが、いままでで一番自由な瞬間だった。「私は誰でもないし、何者でもない。だからいま自分がどうあろうが、誰も何も言わない。自分がどんなふうにもなれる」って。だから変わるチャンスが欲しいのであれば、環境を変えるのが一番いいんじゃないですかね。

「震災遺児という“レッテル”は一部、そう思えてすごく楽になった」

四海さん

真っさらな自分でいられることがよかったのかな。

久我さん

そうだと思います。レッテルの話で、震災が起きたとき、私の顔の一番見える所に「震災遺児」みたいなレッテルが貼ってあったと思うんです。周りから見たら、かわいそうな子。でも、そのレッテルは別の環境に行ったら、もう簡単に外せるし、外して自分の好きなところにつけられる。自分の“残したい自分”だけを残しておいて、ずっと要らなかったものは捨てられる。高校に入って、私はすごくよかったのかなと思います。いまは震災遺児のレッテルが、たぶん肩とか背中とかあまり見えない所にあるので、いまは見せたいときにだけ、チラって見せればいいぐらい。
どうしていま自分がいるかって言ったら、震災があったからこういう自分がいるので、自分を知ってもらいたい人には、見せる必要があるなって。昔だったら、たぶん自分が震災でお父さんを亡くしたって言ったら、ただかわいそうな目で見られて終わってしまったことが多かったけど、いまは震災が自分のほんの一部でしかなくて、それ以上にもっと面白いことをしてきたと思っているので。だから、いっぱいの経験、いっぱいのタグみたいなものがあって、“震災遺児”というタグを見せたところで、みんながそこだけに気を取られるわけではなくて。一部でしかないから、「この人はセネガルに行ったんだ」「この人は音楽をやっている、絵を描いている」ということも見てくれるから、そこまで重大なポイントにならないと思うんですよ、震災遺児であることが。だから、そんなに見せても問題じゃなくなったのはありますね。

四海さん

いろいろなレッテルがあるわけで、一部に過ぎないということだよね。“震災遺児”1つというだけじゃないよね。

久我さん

そうそう。ここら辺にいっぱいあって、「ここにもあります」「ここにもあります」って(笑)
震災が起こったばかりのときって、そのレッテルが大きいじゃないですか。だからそこに捕らわれがちですけど、そこから10年がたつと他にもいろいろなレッテルが出てくるので。だから10年前よりはすごく楽ですね。あまり気を遣わないというか、震災遺児だけではない。

「いまも父から学んでいるし、追いかけている」

写真左:ベースを弾く父・正春さん 手前の少女:久我さん

以前、東北レインボーハウスの2人に「いまの自分があるのは、お父さんが亡くなった経験があるからで、お父さんを亡くしたあとの出会いや、与えてもらった機会はとても大事」とも話していたという久我さん。話の内容は次第に、父・正春さんの話になっていきました。

山下さん

お父さんが亡くなった経験とか、お父さんへの気持ちって変化はありますか?

久我さん

気付かない間にお父さんが好きだったものを追いかけている自分がいるのが少しあって。音楽とか特にそうなんですけど、お父さんが聞いていた音楽とかが私も好きで。14歳までしか知らないから、お父さんのことそこまで知らないじゃないですか。でもそのときに見ていた父親は、音楽と本と釣りが好きな人だったから、釣りに対するロマン、音楽に対するロマン、そして本を読むことの大切さは、いまでも父から学んでいるというか、追いかけてる部分があるかなと思います。

山下さん

追いかけているのは、震災から時間がたって気付き始めたのかな。それとも震災直後から何となく追いかけている感じがしているの?

久我さん

震災後すぐは、もう頭の中はいろいろなことがガーって混ざっていて、何を考えていたのか、あんまり覚えてないんですよね。ただ暗かったのが、パッと印象に残っているだけなんです。でも、お父さんのギターを弾き始めたのもあるので、震災直後から何となく追いかけていたのかもしれません。好きな映画が「ザ・ブルース・ブラザーズ」っていう、サングラスと黒い帽子で、スーツ姿の2人組の男が、仲間を集めて一緒にブルースをやる映画なんですけど、それが私は一番好きな映画で。お父さんもその映画が本当に大好きで、フィギュアとかレコードとか持っていて、いま私がそれを持っているんです。それで私の誕生日が5月29日なんですけど、「ブルース・ブラザース」の車のナンバーは「529」だったんです、たまたま。それに気付いたのが、震災が起きてからけっこう後なんですけど、「これ、お父さん知っていたのかな」ってしばらく思っていたんですね。お父さんの車のナンバーも「529」だったんですけど、それは私の誕生日だったからなのか、「ブルース・ブラザース」を知っていたからなのか分からなくて。でも、お父さんは自分でシールを作っていたんですけど、「ブルース・ブラザース」の車と同じ「BDR529」って書かれたシールが貼ってあることに1~2年前に気付いて。「ブルース・ブラザース」の車が、私の誕生日と同じことを知っていたんだ!って初めて気付いて、うれしかったな。

四海さん

生活の中で、そういうつながりを見つけるとうれしいよね。

久我さん

うれしいですね。自分は父親の娘だから、そういうのに気付けたんだろうというのはありますね。普通に生きてたら気付かないんだけど、娘だからこそ気付けたこと。そこはやっぱり、つながってるんじゃないですかね。 あとお父さんがバンドを組んでいたので、そのカセットテープがあって、その音源を携帯に入れていて、いまもお父さんのベースを聞ける、いつでも。

四海さん

それいいね。お守りみたい。

久我さん

音楽のすごいところは、残ることなんだなといつも思っていて。それもあって、私も歌を書き続けてるのかもしれないです。1回作ったら、それは自分が死んだ後も残る。友達とかが、私がいなくなった後に思い出してくれるように、みたいな。ギターはずっとお父さんのギターを使ってます。

山下さん

そうなんだ。身近にお父さんを感じるようなものがあるんだね。

久我さんが大事にしている父・正春さんのギター

対話は後編に続きます。後編では、この10年で大きく変わったという、豊かさや死に対する価値観などについて語り合いました。

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この記事の執筆者

プロジェクトセンター ディレクター
笹川 陽一朗

NHK仙台放送局に勤務していた入局1年目に震災を経験。その後、被災地の子どもたちの取材を続ける。

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