脳科学者が認知症の母を介護してみたら… 母と“出会い直す”ことができた
「記憶を失っても、母らしい感情は残るのか」
私は、脳科学者として、娘として、ひとつの疑問を抱き認知症の母を介護してきた。
認知症の母の脳を分析し、母の行動を観察してきた7年間。
私は、ひとつの答えにたどり着くことができた。
(取材:大阪拠点放送局ディレクター 加藤弘斗)
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恩蔵絢子(おんぞう・あやこ)さん 脳科学者
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金城学院大/早稲田大/日本女子大 非常勤講師
自意識と感情・脳の働きについて研究を行ってきた
海馬の萎縮度は最も深刻な状態に
7年前、母がアルツハイマー型認知症になった。65歳の時だった。
診断から7年がたち、母の脳は、着実に萎縮が進んでいる。およそ1年半前、病院で脳の状態を調べると、記憶を司る海馬の萎縮は最も深刻なレベルに達していた。
「ショックではなかった」と言ったら嘘になる。だけど、私は失われていくものではなく、母の“母らしい感情”が残されていることを確かめたいと思った。
私は、脳科学者として人の感情と脳の働きの関係について研究してきた。母の脳を分析し、日々の行動を観察することで、“母らしい感情”が残っていることを示すことができたら、認知症の人やその家族にとって、何か役に立つかもしれないと思ったからだ。そして何より、私自身が母を理解したいと思った。
「脳科学者の私が、認知症の母を“観察”してみた 見えてきた わずかな希望」
脳の分析結果などがわかる過去の記事はこちら
重度になっても台所にやってくる母
診断から7年が経ち、母は料理ができなくなった。
着替えもできない。時間と場所の感覚もあやふやだ。
失われていくことばかりだったけれど、認知症になってからも残り続けている母らしい行動がある。私が台所で料理をしていると、母は必ず私の様子を見に来るのだ。手伝うことはほとんどできなくても、時折、「危ないよ」などと言って、私を見守ってくれる。
きっと、「自分も何かやりたい」という気持ちや、娘の私を心配する気持ちを抱えているから見に来てくれるのだろう。認知症になり、“変わっていく母”がいることは確かだが、“変わらない母”もまた存在しているのだった。
口癖は「なんでもやってあげるよ」
母は23歳で結婚し、働き詰めの父を支えながら、私と兄、二人の子どもを育ててきた。
子どもが大好きで、地域の子どもたちに、長年、ピアノを教えていた。
料理が得意で、ピアノのレッスンがどんなに忙しくても、家族のためになるべく違うメニューを作ってくれるような母親だった。
「なんでもやってあげるよ」という言葉が口癖で、掃除も家事も完璧にこなす人だった。
こうした母のイメージはあるけれど、それ以上に、母がどんな人かなんて、認知症になるまでは考えたこともなかった。
久しぶりに聞けた 母らしい言葉
母が認知症になったことで、“何でもやってくれる母”ではなくなった。
だけど、「何かをしてあげたい」という気持ちは残っている。そう強く感じる出来事があった。
以前、母は施設から抜け出して行方不明になったことがある。スリッパのまま家を出て、近くの公園で見つかったこともあった。だから、私は申し訳ない気持ちを抱えながら、玄関に鍵をかけざるを得なかった。
すると、母は外に出たそうな様子を見せるようになった。家の中を一通り歩くと、玄関で立ち止まっている。私は、母が外に出たそうにしている時に、鍵をあえて外して、後ろからこっそりついて行くことにした。母が自由になった時、どこに向かい、何をしたいと思っているのかを知りたいと思ったからだ。
家を出ると、母は、しばらく後ろを振り返ることなくスタスタと歩いていく。数百メートルのところで母が振り返った。気付かれてしまった。しかし、私が後ろにいることを確認すると、また歩き出した。
しばらく行くと、母は野菜の直売所で足をとめた。そこで、母が言った。
「やってあげるね」
さらに、母は以前買い物をしていた別の野菜の直売所でも立ち止まり、こうも言った。
「やってみようか」
久しぶりに、昔の母の口癖を聞くことができた。母と会話をすることは、日に日に難しくなっていて、意思を確かめることは容易ではない。
「ダメだから」「もういいじゃない」そんなネガティブな言葉ばかり漏らしていた中で、ようやく母の前向きな気持ちに触れることができたのだ。
母の口癖は、なぜ引き出されたのか。脳には、「デフォルト・モード・ネットワーク」と呼ばれている回路がある。脳の前側に位置する内側前頭前野と後ろ側にある後部帯状回などをつないでいる回路で、実は、この回路は、集中して何かに取り組んでいる時よりも、休んでいる時やリラックスしている時の方が活性化するとされている。私たちは休息している時にこそ、これまで脳に取り込んだ情報や記憶を整理することができると考えられているのだ。
お風呂に入っている時や、散歩をしている時に、今まで一度も思い出さなかったようなことを思い出してはっとしたり、何か良いアイデアがひらめいたりした経験はないだろうか。これこそ、デフォルト・モード・ネットワークの働きで、母も行きたい場所に自由に行けるリラックスした状況の中で、昔の記憶を思い出し、「やってあげるよ」という言葉を口にしたのかもしれない。
そして何より、野菜の直売所に着いて、娘である私がそばにいることが刺激となり、「料理を作ってあげないと」という気持ちが出てきたのかもしれない。
「やってみようか」は家族のために、ずっと料理を作り続けてきた母だからこそ、こぼれた言葉なのだろう。
人生をかけて母がやってきたことをあらわしている言動に思えた。
認知症が重度に進行した今も、母が「人の役に立ちたい」という思いを持っていることが嬉しかった。久しぶりに、昔の母に会えたような気がした。
台所に来なくなった母
去年の夏。母が、台所に来なくなった。
何かやりたそうな気持ちをのぞかせながら、私を心配して見守ってくれていた母。その姿を見ることができなくなって、私は母が台所に来てくれていたことが、どれだけありがたいことだったのか初めてわかった。
さらに、母は、ひとりで食事をとることもできなくなった。
この時、初めて母の死を意識した。自分の部屋に戻ると、たまらなく寂しい思いで胸がいっぱいになった。
あれだけ世話をしてもらったのに、母に何もできなかった。いつもやってもらうばっかりで。
私は次第に、母の残された時間を意識せざるをえなくなった。
感情が残っていることを確かめる旅
「最後になるかもしれない」。私は、そんな思いで母を旅行に連れ出すことにした。
だけど、動機はそれだけではなかった。
私は、母に母らしい感情が残っていることを、旅を通して確かめたいと思っていた。
旅行が大好きだった母。認知症になってからも、旅先で豊かな表情を見せてくれた。きっと重度になった今も、新しい環境で新しいものに触れれば、“母らしい感情”を引き出せるのではないかと信じていた。
長良川の鵜飼いを一緒に見た。母にとっては、人生で初めての光景だ。
それでも母の反応は乏しい。
「ママ、あれ見て」
私は、何度も指をさして母の注意を引こうとしていた。母が、ぼーっとしている姿を見ていたくなかったから。
無意識に、私が見ている“はっきりとした世界”に母を引き込もうとしている自分がいた。
これまでは、一緒に旅行に行けば、いろんなものを見て、いろんな感情を抱き、それを言葉で共有することができていた。そんな当たり前のことが、どれだけ貴重な時間だったのか思い知らされた。
旅行の最終日。私は、お寺に立ち寄った。そこで、私は思わぬ願いを口にしていた。
「治りますように」
認知症は治らない。そんなことはわかっているはずだった。科学者らしくない言葉だったと思う。だけど、次第に衰えていく母を前に、娘として、そう願わずにはいられなかったのだと思う。
母のレシピ
父が、思いがけないものを見つけてくれた。
リビングの引き出しの奥深くにしまわれていた、400以上のレシピが記された母のノート。
結婚後から料理番組を見てメモをとったり、新聞記事を切り抜いたりして、母がコツコツと書き留めてきたものだった。
一枚一枚めくっていくと、私の中に母との記憶が蘇ってきた。
子どもの時、誕生日によく作ってくれたニンジンケーキ。いつも誕生日が楽しみだった。
毎年、秋になると作ってくれた茶碗蒸し。具だくさんで、食べられる日が来るのを家族みんなが心待ちにしていた我が家の定番料理だった。
家族のために、毎日違う料理を出してあげたい。好きなものを見つけて、作ってあげたい。そういう母の気持ちがにじみ出ていたレシピだった。
家事やピアノのレッスンで忙しかったはずなのに、一品一品、地道に書き足していった母の姿が思い浮かんだ。母は、こんなふうに、家族のために時間を使うことをいとわない人だった。
私が忘れていた母が、蘇ってきたようだった。
忘れていた母との記憶
私は、母のことを何も知らなかった。何でもやってくれたから、それが当たり前になっていた。母が空気のような存在になっていた。
母が認知症になって初めて、母が私にかけてくれた愛情をかみしめるようになった。
朝、家族のために、一段一段階段を丁寧に拭いてくれていたこと。
いつも、家族のために台所に立ってくれていたこと。
大学を出るまでずっと、駅までの道を車で送り迎えしてくれたこと。
終電になっても、心配して、いつも迎えに来てくれたこと。
母は、頼まれたら「嫌だ」ということがない人だ。
家族のために、時間を割くことをいとわない人だ。
人のために動き続けて、止まっていることがない人だ。
それが、私を育ててくれた母という人だった。
今も流れ続けている 母らしい感情
認知症の母と過ごしていると、奇跡のような、必然のような、そんな瞬間に出くわすことがある。母のレシピに書かれていた茶碗蒸しを、私が作っていた時のことだ。
この日、母は私が初めてひとりで茶碗蒸しを作る姿をじっと見つめていた。
時折、私の方を指さしているような動作を見せることもあった。
母が台所に来てくれることはなくなった。でも、今私は、母がじっと私を見つめていることすら、「料理を作りたい」という気持ちのあらわれなのだと感じている。
母はそうして今も私と一緒に料理を作っている、と言えるのではないかと。
料理を始めて30分ほどたったころ、母がゆっくりとイスから立ち上がった。リビングにある机のまわりをウロウロしているかと思えば、次第に私がいる台所に近づいてくる。
以前の足取りよりも、ゆっくりではあったが、一歩ずつ。着実に。
料理に戸惑う私の様子を見て、「あの子が大変だ、手伝ってあげよう」と腰を上げてくれたのだろうか。母が、時間をかけて、久しぶりに台所にやってきたのだ。
重度の認知症になっても、母が人生の中でずっと大切にしてきたことは変わらない。
“その人らしい感情”があり続けるのだということを、母との日々の生活の中で、私は信じている。
母は一生懸命な人である。他人の役に立ちたいと、ずっと心を動かしてくれる人である。
こうして母を表現する言葉を見つけるのに、長い時間がかかった。
「記憶が失われても、母らしい感情は残るのか」
今、この疑問に対して、私は答えを見つけたような気がしている。
母がずっと抱き続けている、「人の役に立ちたいという気持ち」「家族に対する愛情」。
こうした感情は、認知症が進行すればするほど、見つけづらくなることは事実である。しかし、見つけるのが難しくなっているだけで、母の根底には、人生を通じて、ずっと流れ続けているのである。
NHKスペシャル「認知症の母と脳科学者の私」
放送:2023年1月7日(土)22:00~[総合]
恩蔵絢子さんと母の恵子さんを取材した番組を放送します。
※1月14日(土)までNHKプラスで見逃し配信をご覧いただけます