番組10周年記念対談:「100分de名著」クロニクル
 名著とともに歩んだ10年

3月放送の「100分de災害を考える」のシリーズで、2011年にスタートした「100分de名著」がまる10年目となりました。そこで、歴代もっとも多く番組講師を務めた批評家・若松英輔さんと歴代もっとも長くプロデューサーを務めたAこと、秋満吉彦が、裏話を交えながら番組10年の歴史を振り返り、番組の魅力を改めて掘り起こす対談を企画しました。前後編でお送りします。ぜひご一読ください。(構成:仲藤里美)
※写真は、対談開始前の約1分間ほどの時間で撮影したもので、対談本編は、ソーシャルディスタンス、換気、消毒などに十分な配慮をして行いました。

10年の歴史の中で、若松英輔さんが選んだシリーズ

  • 第一期(2011-2013年) アラン「幸福論」 フランクル「夜と霧」
  • 第二期(2014-2016年) 小泉八雲「日本の面影」 レヴィ=ストロース「野生の思考」
  • 第三期(2017-2020年) オルテガ「大衆の反逆」 「100分deメディア論」 
  • 前編
  • 後編

近代の矛盾に真正面から向き合う──『苦海浄土』

秋満
明治以来の近代化の中で見過ごされてきたものに光を当てたのが八雲と内村だとすれば、もう一歩進んで、そこから生まれてきた危機にどう向き合うかを考えた人、たった一人でも向き合おうとした人が、『苦海浄土』(2016年9月)の石牟礼道子さんだと思います。
 企画の段階では、石牟礼さんがまだご存命だということで、「今の段階で名著と呼んでいいのか」という議論もありました。でも私は、その5年前の東日本大震災と福島での原発事故を考えるときに、『苦海浄土』はなくてはならない本だと思ったんですね。同時に、あらゆるものを量や効率で判断しようとする近代にあって、徹底して「個」に光を当てたこの本を、名著と呼ばずしてどうするのか、という思いもありました。水俣病公式確認から60年に合わせての放映という形ではありましたが、番組を企画した意図はもっと深いところにあったんです。
 そして実際に、若松さんの解説も素晴らしかったし、最終回には水俣の漁師で、かつて水俣病患者認定運動の最前線に立っていた緒方正人さんにもいらしていただけた。緒方さんは、憎悪の連鎖を断ち切るために自分は「加害者」であるチッソを許す、そして近代の豊かさを享受して生きてきた自分たちもまた「チッソだった」という話をしてくださって。私の中でも忘れられない、非常に印象深い回です。
若松
番組が放映された後、石牟礼さんに会いに熊本へ行ったのですが、会う人会う人に「ありがとう」「ありがとう」と言われたんです。最初は「来てくれてありがとう」かなと思ったのですが、よく聞くと「番組をやってくれてありがとう」ということでした。あの番組が放映されたことで、今まで届かなかった人にも石牟礼さんの本が届いた、というんです。多分、私たちの知らない反響があったのだと思います。
秋満
ある新聞社から、「番組放映をきっかけに、福岡や熊本で『苦海浄土』が読み直されていて、書店に特設コーナーができているからそれについて取材させてくれ」という連絡がありましたよ。
若松
スタジオジブリのプロデューサーの鈴木敏夫さんが伊集院光さんのラジオ番組に出られたときに、「『苦海浄土』をジブリでアニメ化したい」とおっしゃった、という話もありましたよね。「100分de名著」を見て非常に心動かされたから、と。
 いつもは自分が出させてもらった番組は、完成した段階で「やりきっちゃった」という感覚で、あまり放映後のことは気にしないのですが、この回に関しては反響が大きかったこと、中でも石牟礼さんやその周囲の人たちが喜んでくださったことが、ほんとうにうれしかったです。
秋満
この回は、引用されていた一つひとつのフレーズが今も心に残っています。たとえば、国に訴えをするために東京へ向かった水俣病患者たちの言葉です。「東京にゆけば、国の在るち思うとったが、東京にゃ、国はなかったなあ。あれが国ならば国ちゅうもんは、おとろしか。(略)どこに行けば、俺家の国のあるじゃろか」。国が責任をまったく取ろうとしない、責任の主体が存在しない。これは、現代社会の構図ともまったく同じです。
 そして、若松さんが石牟礼さんに「あなたにとって詩とは何か」と問いかけたときに返ってきた言葉として紹介いただいた「闘いだと思ったんです。1人で闘うつもりでした。今も闘っています」。これは震えるような言葉だったし、『苦海浄土』は近代の矛盾を引き受け、真正面から書き切った作品だと改めて確信しました。
 しかもそれを、石牟礼さんご自身の言葉で書くというよりは、水俣病患者の言葉をその身に宿し、「器」となって書いていく。若松さんも番組の中で何度もおっしゃっていたように、それがこの作品のすごいところだと思います。

「何を見るか」の重要性──『野生の思考』

秋満
もう一冊、第二期の中から若松さんが選んでくださったのが、レヴィ=ストロースの『野生の思考』(2016年12月)。フランスの人類学者が、近代の矛盾を鋭く突きつつ、その矛盾を解きほぐす鍵となる「野生の思考」が、日本には残っていると指摘している。これもすごい本だと思いますが、若松さんはこの回、どう見られましたか。
若松
指南役の中沢新一さんが、大家として知られる「でき上がった」レヴィ=ストロースではなく、「できつつある」レヴィ=ストロース、若い時代も含めて描き出してくれたと感じました。中沢さんは、もちろんものを書く才能も豊かな方ですけど、同時に「よく読める」人であることも、改めて、番組からもテキストからも伝わってきました。
 テキストの序文に、こう書かれているんです。〈「名著」というものは繰り返し、ゼロから読み返すべきものなのでしょう〉。中沢さんの秘密はここになるのか、と思いました。繰り返し読むのは誰でもできる。でも「ゼロから読み返す」ことはなかなかできない。自分がその本をかつてどう読んだかということをいったん手放して読み返すということが、とても大事なんだと思います。
秋満
あのときは、中沢さんの熱の入れ方もすごかったんです。民族学者、文化人類学者としてのレヴィ=ストロースの入門書はあるけれど、思想家、哲学者としての面を描いた本はない。だから、自分がその「決定版」をつくりたいんだと言ってくださって。テキストを作るときも全編が真っ赤になるまで修正を入れておられたし、撮影のときにも端々から熱意が伝わってきて、凄みすら感じました。
 失礼ながら、中沢さんってスター性のある方ですし、もう少し軽いところのある人かな、というイメージだったんですよ。それが、ここまで真摯に取り組まれる方なんだということを知って、仕事のやり方にも影響を受けましたね。
 また、レヴィ=ストロースは晩年、日本を訪れたときの講演でこんなことを話しているんですね。西洋の職人は、頭の中にある設計図をそのまま、自然を支配する形でつくり上げていく。しかし日本の職人は、陶工であれば「土がなりたがっているものをつくるだけ」、仏師であれば「木の中に眠っている仏が出てくる手助けをするだけ」だという。主体が支配的にふるまうのではなく、あるものをあるがままに生かしていく、そうした日本の働き方は、近代文明が行き詰まっている今、世界を変えていく力があるのではないか──。
 これは、日本に住む私たちですら忘れていたことだと思うんですが、数週間の滞在でそれに気づくレヴィ=ストロースはすごいと感じると同時に、自分の番組づくりも「支配的にふるまう」ようになっていなかったか、と考えさせられました。特にプロデューサーになったばかりのときは気負いも大きかったし、すべてを自分の色に染めようとしているところがあった。今はそうではなくて、講師やスタッフが私の予想を覆すようなことをやってくれたときのほうがいいものができると感じる。それぞれのいいところ、自然とにじみ出てきたものを生かすような番組づくりが、多少はできるようになってきたかなと思っています。その転換点になったのが、この『野生の思考』でした。
若松
それは面白いですね。
 今回、この対談をさせていただくにあたって、レヴィ=ストロースと先ほどの小泉八雲を照らし合わせて読んでみたのですが、文化人類学と文学、分野は違っていても明らかに同じものを見ているのが分かりました。現代の私たちは、どう語るかばかりを考えていて、何を見るかということを忘れてしまっているのではないでしょうか。それに対して八雲もレヴィ=ストロースも、「そうじゃなくて、何を見るかということをもうちょっと考えよう。今見ているものが絶対ではないということに気づこう」と言っている。そういう、とても素朴だけれど大事なことを教えてくれている2冊です。

時代と番組が結びつく──「100分deメディア論」

秋満
さて、最後の第三期です。そのスタートとなる2017年は、1月にアメリカでトランプ大統領が就任、ヨーロッパでも、フランスの大統領選でマリーヌ・ル・ペンが決選投票に残るなど、排外主義と極度の愛国主義が力を持った時期でした。同時に、SNSの普及などで、人々は自分にとって心地よい、都合のいい情報にしか目を向けなくなり、そこに広がっている世界がすべてだと思い込むようになった。右と左、それぞれにまったく違う世界を見ていて、さらにはトランプ大統領のような強権的な人が「あいつらは敵だ、あいつらを排除すればすべてがうまくいく」と煽ることで人々が引き裂かれ、分断が深まっていく。そういう状況が起こっていたように思います。
 その中で、無力感に襲われるところもあったのですが、分断をもう一度融和させるというのも、名著が私たちに与えてくれる大きな力の一つだったはずで。私たちは非力であっても、やっぱり種をまいていかなくてはならない、「世界はそんなに単純に白黒分けられるものではない」ということを伝えていかなくてはならないんじゃないか、と考え始めた時期でもありました。
 その思いから、17年の9月にはハンナ・アーレントの『全体主義の起源』を取り上げました。一つの国家が、ナチズムやスターリニズムのような一つの色に染まっていくときには、どんなメカニズムが働いているのか。そして、アーレントが「世界最大の悪は、ごく平凡な人間が行う悪です」と書いているように、悪とは何か特別なものではなく、自分たちもまたそこに手を貸してしまうところに恐ろしさがあるんだということ。そうしたさまざまな問題があぶり出されて、名著の凄さを改めて感じた回になったと思っています。
若松
「100分de名著」という番組の社会的な役割と影響力が、2017年ごろから明らかに変わってきたと考えています。アーレントを取り上げられたことも印象的だったのですが、忘れられないのは翌年に放映された「100分deメディア論」です。
 堤未果さん、中島岳志さん、大澤真幸さん、高橋源一郎さんの4人がそれぞれ1冊ずつ、メディアに関する「名著」を紹介して議論されていたのですが、見ていて「ここまで言うのか」と思う内容でした。全員が「ここで発言しなかったら、自分は何も言わなかったことになる」という覚悟で語ってらっしゃったのだと思います。
特に中島さんは、何かを賭けて話していることがはっきりと伝わってきました。
あまりにも危機的な状況の中で、メディアには何ができるのか。もちろんこの番組自体もまた一つのメディアであるわけで、それがなし得る役割に、それぞれの方がすべてを賭けて話しているなという印象が強くありました。
秋満
あの回は放送記念日に合わせたスペシャル番組という形で、18年の3月に放映したんです。ところが、なんとその同じ3月に、財務省による公文書改ざんが明らかになった。番組の中では、高橋さんがオーウェルのディストピア小説『1984』を紹介してくださって、権力は公文書を、そして歴史を改ざんしようとする、だからメディアがチェックしなきゃいけないんだという話が出ていたんです。そうしたら、その編集中に現実の改ざん事件が起こったわけで、スタッフみんなびっくりしましたね。
若松
「100分de名著」は、今はNHKオンデマンドで後からでも見られるようになっていますけど、「今見る」ことが大事な面もあると思います。今、この時期に見ないと意味がない、来年に見てもその内容を自分が受け止めきれない。でも一度見て、受け取っておけば、来年もう一度見ても理解を深めることができる。そういうふうに、時代とこの番組とがとても深く結びつき始めたのが、2017年という年だったと思います。

人生を変えるきっかけに──『生きがいについて』

秋満
「100分deメディア論」は、公文書改ざんや「忖度」などの危機に際してメディアが有効に機能しない、そういう時代状況の中で自分たち自身にメスを入れる、批判を向けるという意味で作った番組です。結果として、ギャラクシー賞優秀賞を受賞するなど高い評価をいただくことができたのですが、一方で「これで終わってはいけない」という思いもありました。時代をとらえるだけではなく、私たち自身が「個」として問題に向き合わなくてはならないと感じていたんです。
 そのときに大きなヒントをくれたのが、若松さんとご一緒した『生きがいについて』(神谷美恵子/2017年4月)や『善の研究』(西田幾多郎/2019 年10月)でした。
 神谷と西田とでは時代も、思想の系譜も違うのですが、それでも2人の言っていることにはとても近い部分があると感じます。よく覚えているのが、若松さんと『善の研究』の回の打ち合わせの中で、パリのノートルダム大聖堂火災について話したときのこと。どこか人ごとのようにとらえていた私に、若松さんは「あれはキリスト教徒にとっては『母の家』が燃えているのと同じなんですよ。単に文化財が焼失したというレベルで見ていませんか」とおっしゃった。自分自身が、他者に対して、さまざまな物事に対して非常にドライになっていると気づかされました。
 自分と他者とを切り離して考える、この姿勢がまさに近代化というものですよね。その中で、神谷や西田が言ったのは、主客を分けることなく、他者のことをわがことのように考えようということだったと思います。この社会の分断に挑み、解決の糸口を見つけるときの、一番ベースになる考え方を教えてくれている。そのことを、若松さんとご一緒させていただいて再発見できた気がしました。
若松
『生きがいについて』で忘れられないのは、伊集院さんとともに司会を務められていたアナウンサーの島津有理子さんが、番組の後で「医師を目指す」ために退職されたことです。今も医大生として頑張っておられますけど、記憶が定かではないのですが、番組の後どのくらいでおやめになったのでしょうか。
秋満
番組の放送が4月で、私のところに報告に来られたのが7月くらいですね。そのときにはもう完全に退職が決まっていたので、番組を収録してからそれほど経たずに決断されたんだと思います。
若松
こういうことは本当に起こるんだ、と思いましたね。神谷さんは本の中で、「自分を賭けなきゃいけないときには賭けなきゃだめだ、自分の生きがいはそうして取り戻していくものだ」ということを何度も書いています。番組収録のとき、隣に座ってそうした言葉を聞いておられた島津さんが、まさに人生を賭けた決断をされたというのは、本当に忘れられません。
秋満
医師になるというのは小さいころからの夢で、番組だけが退職を決意した理由ではないそうですが、島津さんにとっての一つの大きなきっかけになったのは間違いない。そして、同じようなことが、おそらく全国で起こっているんじゃないかという気がするんです。大小のレベルはあるかもしれませんが、番組を見て人生が大きく変わったとか、それをきっかけに原典を読んで新しい決断をしたという人もいるんじゃないでしょうか。そう考えるとすごく責任重大だなと思って、さらに身を引き締めた回でもありました。
若松
何か自分の中で温めているものがあったときに、きっかけが与えられると一気に花開くことはあります。でも、そういうことが起きるというのは、緊張感を持って番組を見てくださっているからこそだと思います。
秋満
時々、講演などで視聴者の方とお話しさせていただく機会があるんですが、「放送日を待ちに待って、テレビの前に正座するくらいの気持ちで見ている」とおっしゃる方がいるんですよ。だから、視聴率の数字だけ見れば決して高いとはいえないけれど、視聴者一人ひとりに与えているインパクトは非常に大きいんじゃないかという気がする。ザッピングしながら見るのとは全然違う、一言も聞き逃すまい、くらいの感じで見てくれているという真剣さを感じますね。
若松
神谷さんが敬愛した宗教者で、内村鑑三の高弟でもあった藤井武という人がいるのですが、その藤井が亡くなったときに、親友だった経済学者の矢内原忠雄がこういうことを言っているんです。「藤井は、広く読まれる人ではないけれど、深く読まれるべき人だ」。それに倣えば、『100分de名著』も、広く見られるというよりも、深く見られる番組だといえるかもしれません。

過去と、死者と対話し続ける──『大衆の反逆』

秋満
第三期の中でもう1冊、若松さんが印象に残った本として挙げてくださっているのが、オルテガ『大衆の反逆』(2019年2月)です。政治学者の中島岳志さんに指南役を務めていただいたのですが、「敵とともに生きる、反対者とともに統治する」というくだりが非常に印象に残りました。私たちはどうしても自分に反対する者を排除しようとしがちだけれど、そうではなく考え方がまったく違う人たちと共存して生きていこうとすることが一番大事なんだということを、オルテガは20世紀初めに語ってくれている。この分断された社会でどう他者とつながっていけるか、それを考えることが、名著を読む意味の一つだと強く感じました。
若松
私がもっとも印象的だったのは、「死者」についての考え方です。中島さんもテキストの中で取り上げておられましたが、オルテガは、過去と向き合い、死者とともに生きていくことでこそ、私たちは未来をまなざすことができるとして、「死者」の存在を非常に重視しています。考えてみると、今回選ばせていただいた本の作者は、みな熱意を持って「死者」のことを語っている人ばかりなんです。番組を見ていて素朴に「いいな」と思った回を選んだだけなのですが、そこがはっきりと共通していることに数日前に気がつきました。
 アラン、フランクル、小泉八雲、レヴィ=ストロース、そしてオルテガ。生きた時代も国もまったく違う人たちなのに、「死者」という存在がそこを貫いている。東日本大震災から10年経って、これからどう私たちの道をつくっていくのかを考えるときに、これらの本はとても大事なことを教えてくれています。
 『大衆の反逆』のテキストの中で中島さんが引用している、フランスの詩人ポール=ヴァレリーの言葉があります。「湖に浮かべたボートを漕ぐように、人は後ろ向きに未来へと入って行く」。後ろを向いて、過去を見つめながら未来へと入っていく。それはもちろん「死者とともに」ということでもあって、今の私たちにとても大事な助言を与えてくれているような気がします。私たちは、常に前を見ようとしがちだけれど、実際には後ろを振り返るしかないときもある。でも、それこそが本当の未来への着実な一歩なんだということを、ヴァレリーも中島さんも、そしてオルテガも言っているんだと思うのです。
秋満
いみじくも、今回若松さんに解説をお願いした「100分de災害を考える」でも、「死者との対話」は一つの大きなテーマになっていましたね。柳田国男の『先祖の話』もそうですし、セネカの『生の短さについて』もそうです。  過去の死者たちと対話をすることからしか、未来は開いていかない。「100分de名著」という番組自体も、ある意味では「死者と語る」番組だといえるかもしれません。登場する作家たちは、一部の例外を除きほとんどが「死者」たちですから。私たちは、ともすれば今のことばかり見がちだけれど、今の問題にどう対応しようというときにも、死者たちが積み上げてきたものが助けてくれる。そのことを、名著は読むたびに思い出させてくれるんだと思います。
 数少ない、存命中に扱った作家の1人が今日も話に出た石牟礼道子さんですが、石牟礼さんも水俣病のことに取り組むときに、まず田中正造と足尾鉱毒事件のことを学び直した、という話をしていましたよね。そして私たちも福島の事故の後、石牟礼さんの本との対話によって豊かな学びを得ることができた。この「過去と、死者と対話し続ける」という姿勢は、今後も見失ってはいけないものだと思います。

種をまき続け、水をやり続ける

秋満
さて、第三期の終わり、ちょうど番組開始から10年を迎えた昨年から今年にかけては、新型コロナという大きな問題が起こりました。それに対して何ができるのか、私自身も模索のときだったと思います。
 まず、昨年4月にはカミュの『ペスト』(本放送は2018年6月)を再放送しました。これが本放送のとき以上の反響をいただいたこともあり、パンデミックが起こったときに社会はどうなるのか、人々はどうすべきなのかということをもう一度考えようと、9月に取り上げたのがデフォーの『ペストの記憶』です。
 この小説は、ペストが大流行した17世紀のロンドンが舞台で、デマや偽薬についての話もたくさん出てきます。そうしたら、放送直前に「うがい薬がコロナに効く」という論が出されて、大問題になったんです。現実のほうが名著に近づいてきていると思えるくらいのタイミングでした。
 また『ペストの記憶』の中のロンドン行政府は、失策もたくさんある一方、きちんと反省し、直接市民の声に耳を傾けようともする。市民の不安に正面から向き合うことが、その不安を解消することにつながると考えているわけです。今いくつかの国々の政府がやっていることと非常に対照的で、名著の普遍性を改めて感じさせられました。
 その後、ここから問題になってくるのは、中小企業の倒産や非正規労働者の失職など経済問題だろうと考えて取り上げたのが、マルクス『資本論』(2021年1月)です。コロナ危機の中では、マスクや消毒液が一時期全然手に入らなくなり、医療崩壊も懸念されていました。なぜそんなことになったかといえば、私たちの社会がひたすら効率を優先し、生命の安全を守るには必須なのに、平時に無駄なものは切り捨てるということを続けてきたからです。その問題点を根源的に指摘していたのがマルクスだったのだと思います。
 マルクスというと、硬直した計画経済や抑圧的な体制というイメージが強いのですが、マルクス本人は弱い立場の人に寄り添い続けた「ヒューマニズムの人」だった。その視点から、私たちの社会──人の命に関わるものすら「非効率だ」といってカットし続けて、挙げ句の果てには医療崩壊寸前、という状況に対する問題提起ができたかなと思っています。
 また、2020年半ばからは、人種差別の是正を訴える「ブラック・ライブズ・マター」運動がアメリカから世界中に広がりました。日本の私たちにとっては人ごとだったかといえば、もちろんそんなことはない。外国人労働者の問題、入管の長期収容問題、さらには男女差別やLGBTQの人たちへの差別など、私たち自身が直面している差別の問題がいくつもある。そこで「差別」について改めて考えたいと、今年2月にフランツ・ファノンの『黒い皮膚・白い仮面』を取り上げました。
 どれも考えに考え抜いてたどり着いたラインナップですが、多くの方たちに見ていただき、励ましの言葉をたくさんいただけた。10年目にして、本当に視聴者の方々と一緒に歩んでいるという感じがしました。真っ暗闇の中で模索を続けながら、いいタイミングでいい番組をつくることができた1年だったと思います。
 さらにこの3月には、若松さんに解説いただいて、「100分de災害を考える」というシリーズをつくることもできた。この対談の時点ではまだ放映されていないので反響はこれからなのですが、東日本大震災の直後に始まったこの番組の、記念碑的な回になったと思います。改めてお礼申し上げます。
若松
こちらこそありがとうございます。
秋満
先日、「100分de名著」の熱心なファンだという大学生たちと話をする機会があったんですよ。その中で「自分は教育学部なんだけど、同じ学部の友人たちが全然本を読まない。将来教員を目指す彼らに本を読む魅力を伝えていくにはどうしたらいいでしょうか」と聞かれたんです。
 「押しつけても読む気にならないだろうから、自分の『この本を読んで本当によかった』という思いを、全身で表現したらいいんじゃないか」と答えたのですが、この10年間番組を続ける中で、何らかの種をまくことはできたのかな、と感じられて嬉しくなりました。学生たちがしっかりと自分でものを考え、しかも本を読むだけではなくて周りの人たちにも読んでもらいたいと使命感に駆られている姿を見ていて、そう思えたんです。
若松
若者に「届ける」というのは、とても難しいことだと思います。もちろん、若者たちに「本を読め」と言えば読むでしょう。でも、読書の魅力とは、読むことで自分の中で何かが変わっていくことです。そのためには、自分自身を一度解きほぐして、空っぽにしておく必要があるけれど、若者たちはその準備ができていないことが多い。だから、そういう人たちにこの番組が届いているというのは、本当に素晴らしいことだと思います。番組が始まったとき20歳くらいだった人たちは今、30歳になっているわけですが、「若いときに見ていて、どうでしたか?」と聞いてみたい気がします。
秋満
そうですね。社会の中でもある程度発言権を得ている人もいるだろうし、番組を見て感じたことを仕事の中で生かしてくれている人もいるかもしれない。そう考えると、全体の流れの中では非力であっても、着実に種は芽吹き、育っていて、そこから少しずつでも社会は変わっていく可能性はある。私は、やっぱりそこを希望にしたいと思います。
 『資本論』の解説をお願いした斎藤幸平さんが紹介されていたのですが、ハーバード大学の研究で「3.5%の人々が非暴力的な方法で本気で立ち上がれば、社会が大きく変わる」という説があるそうなんです。その3.5%の人たちに種をまき、育てていくのが僕たちの役割なのだろうし、それをできるだけ続けていきたいと考えています。
若松
3.5%というと非力なようですけど、たとえば、上場している株式会社でも3.5%の資本を持っていれば、相当な発言力がありますね。
秋満
そうですよね。視聴者からの反響など、種が芽吹いて伸びてきているのはすでに実感しているので、あとはそれを絶やさないようにしたい。
 私は、番組(2015年11月『実存主義とは何か』)でも取り上げた、サルトルの最期の言葉がとても好きなんです。「世界は醜く、不正で、希望がないように見える」「だがまさしく、私はこれに抵抗し、自分ではわかっているのだが、希望の中で死んでいく。ただ、この希望、これをつくり出さなければならない」。種をまき続け、水をやり続け、育てていくという地道な作業を、手を抜かずにやっていきたいと思います。
100分de名著・神谷美恵子「生きがいについて」の
テキストが大幅な加筆を経て一冊の書籍になりました。
『「生きがい」と出会うために~神谷美恵子のいのちの哲学~』
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