おもわく。
おもわく。

2020年5月25日、アメリカで黒人男性のジョージ・フロイドさんが白人警官に殺害された事件は世界を震撼させました。この事件をきっかけに、黒人の命の尊重と人種差別の是正を訴える「ブラック・ライブズ・マター」運動が世界中に広がっています。そんな中、一冊の本が静かに読み直され始めています。「黒い皮膚・白い仮面」。書いたのは、黒人差別の構造を精神医学・心理学の立場から追求した精神科医で、後にアルジェリア独立運動に尽力した思想家、フランツ・ファノン(1925-1961)です。自らも仏領植民地出身者として、いわれない差別を受け続けた黒人です。人種差別の問題に真っ向から取り組んだ彼の著作を通して、「差別とは何か」「差別はどうして生じるのか」「どうやったら差別を乗り越えることができるのか」といった普遍的な問題を深く考えたいと思います。

ファノンは仏領マルティニーク島で生まれた、アフリカからこの地に連れて来られた奴隷を祖とする黒人。若き日は、叶う限り白人のフランス人に同化しようとした過去をもちます。しかし、どれだけ努力しようとも差別はやみません。フランス本国で圧倒的な疎外感にさいなまれた彼は、やがて精神科医となり、なぜこのような差別が生まれるのかという問題を精神医学・心理学を武器に使って解明しようとします。その集大成が「黒い皮膚・白い仮面」なのです。

古今の文学や思想を渉猟しながら、ファノンは、差別が単に差別する側の心理機制だけでなく、その差別の構造を内面化し自発的隷従に陥ってしまう黒人の側の心理機制をも明らかにしていきます。その背景にある社会構造にもメスを入れます。その上で、どうやったらその差別の構造を乗り越えることができるのかを指し示そうとするのです。

この書は、単に人種差別を告発するだけにとどまりません。この問題が、すべての「人間」につながる普遍性を帯びていることを明らかにしていきます。虐げられた黒人たちを目にして私たちが動揺するのは、彼が人種差別の犠牲者であると同時に、虐げられ辱められているのが「人間」そのものだからです。ファノンの思想は、人種や言語の壁を超えた普遍的な痛みを共有することを私たちに求めているのです。

番組では、作家の小野正嗣さんを講師に招き、新しい視点から「黒い皮膚・白い仮面」を解説。そこに込められた「人種差別の問題」「差別を生み出す社会構造」「人間を疎外から解放するには何が必要か」など、現代に通じる普遍的な問題をテーマを読み解いていきます。

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第1回 言語をめぐる葛藤

【放送時間】
2021年2月1日(月)午後10時25分~10時50分/Eテレ
【再放送】
2021年2月3日(水)午前5時30分~5時55分/Eテレ
2021年2月3日(水)午後0時00分~0時25分/Eテレ
※放送時間は変更される場合があります
【指南役】
小野正嗣…早稲田大学教授。芥川賞作家。
【朗読】
北村有起哉(俳優)
【語り】
小口貴子

人種差別がなぜ生じるのか、そして差別を受ける側がその差別構造を内面化してしまうのはなぜかを考究する「黒い皮膚・白い仮面」。この著作の成立には、ファノン自身の出自が深く関係している。仏領マルチニーク島で生まれたファノンは、フランス人に同化すべく第二次大戦中は白人たちとともに前線で闘う。にもかかわらず、白人たちの差別はやまない。圧倒的な差別構造に直面したファノンは、精神科医の資格をとりながら、この差別構造を心理学や言語の分析から明らかにしようと決意する。この著作では、こうした彼自身の半生をも俎上に上げて、徹底的に心理分析のメスをいれていく。第一回は、ファノンが辿った人生の紆余曲折を追いながら、一人の人間が、差別の構造に足をとられながらも、やがてそこから抜け出していくきっかけをいかにつかんでいくかを明らかにしていく。

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第2回 内面化される差別構造

【放送時間】
2021年2月8日(月)午後10時25分~10時50分/Eテレ
【再放送】
2021年2月10日(水)午前5時30分~5時55分/Eテレ
2021年2月10日(水)午後0時00分~0時25分/Eテレ
※放送時間は変更される場合があります
【指南役】
小野正嗣…早稲田大学教授。芥川賞作家。
【朗読】
北村有起哉(俳優)
【語り】
小口貴子

黒人たちが登場する文学作品には、極めて明快に、差別が固定化していくプロセスが浮かび上がる。作品に描かれる典型的な黒人女性たちは、白人の男と結婚することで血統を白くしようとする。これを「乳白化の願望」と呼び、歪んだ心理的機制だとファノンは分析する。また作品に描かれる黒人男性たちは、白人女性との結婚を求めるが、素直に結婚に踏み切れない内面的な葛藤にさらされる。これらは、過剰な白人へのコンプレックスから生じる自発的隷従であり、この歪みから解放されなければ差別の構造はなくらならないという。第二回は、ファノンの文学作品の分析を通して、差別の構造がなぜ内面化されてしまうのかを明らかにする。

名著、げすとこらむ。ゲスト講師:斎藤幸平
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第3回 「呪われたるもの」の叫び

【放送時間】
2021年2月15日(月)午後10時25分~10時50分/Eテレ
【再放送】
2021年2月17日(水)午前5時30分~5時55分/Eテレ
2021年2月17日(水)午後0時00分~0時25分/Eテレ
※放送時間は変更される場合があります
【指南役】
小野正嗣…早稲田大学教授。芥川賞作家。
【朗読】
北村有起哉(俳優)
【語り】
小口貴子

「黒い皮膚への偏見や差別をいかに乗り越えていくか」の答えを模索し続けるファノン。たどり着いたのは、自らの中にある黒人性、黒人文化、ルーツとしてのアフリカ文化を再評価し、その尊厳性を強調することで、白人に対する黒人の優位を示そうという運動だ。大地と一体化するような生命力あふれるリズムなど黒人固有の独創性を鼓舞するこの運動は「ネグリチュード」と呼ばれ、世界中に大きな影響力を与えていた。この運動にファノンは一時共鳴するが、「ネグリチュード」は白人優位に対するアンチテーゼにすぎず最終目的ではないと指摘した哲学者サルトルによって、その見方は一変。「ネグリチュード」は、黒人/白人の二項対立へと人間を閉じ込め、対話の可能性を閉ざしてしまうのではないかとファノンは疑念を持ち始める。第三回は、差別を乗り越えるために自らのルーツやアイデンティティを掘り起こすことの有効性と限界を、ファノンが共鳴した「ネグリチュード」を通して読み解く。

安部みちこのみちこ's EYE
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第4回 疎外からの解放を求めて

【放送時間】
2021年2月22日(月)午後10時25分~10時50分/Eテレ
【再放送】
2021年2月24日(水)午前5時30分~5時55分/Eテレ
2021年2月24日(水)午後0時00分~0時25分/Eテレ
※放送時間は変更される場合があります
【指南役】
小野正嗣…早稲田大学教授。芥川賞作家。
【朗読】
北村有起哉(俳優)
【語り】
小口貴子

「おお、私の身体よ、いつまでも私を、問い続ける人間たらしめよ!」これが「黒い皮膚・白い仮面」を締めくくる言葉だ。ファノンは、人種差別の問題を突き詰めていく中で、「人間を閉じ込めるものから人間を解き放つこと」という普遍的な問題に到達する。人種差別は黒人だけの問題ではなく、そこでは「いかにしてわれわれは非人間の状態から抜け出して真の意味での〈人間〉になりうるのか」が問われているというのだ。ファノンのその叫びの残響は、現代を代表するパトリック・シャモワゾーらクレオール作家や黒人作家たちの思想にも鳴り響いている。それは、人種や性別、立場を超えて連帯を生んでいる「ブラック・ライブズ・マター」とも相通じる思想だと小野さんはいう。第四回は、ファノンの思想と今を生きる黒人作家たちの思想をつないで読み解くことで、「人間の解放」という普遍的な問題を考えていく。

アニメ職人たちの凄技アニメ職人たちの凄技
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○NHKテレビテキスト「100分 de 名著」
『黒い皮膚・白い仮面』 2021年2月
2021年1月25日発売
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こぼれ話。

問い続ける人間たれ

長年、番組制作を続けていると、「奇跡」ともいうべき瞬間に立ち会えることがあります。少し大げさに感じられる方もいらっしゃるかもしれませんが、事前に準備した台本にも、打ち合わせ時にも決して出てこなかったような言葉が、その場、その時間でしかありえないような仕方で現れてくることがあるのです。ファノン「黒い皮膚・白い仮面」の第四回で、そんな言葉に出会うことができました。この著作を締めくくる、ファノンの「おお、私の身体よ、いつまでも私を、問い続ける人間たらしめよ!」という言葉について、伊集院光さんがこう語ってくれたのです。

「問い続けることをやめるってことは、『答えが出たと思う』か『諦める』かのどちらかになるのではないか。でも、『諦める』ことは完全な分断だし、『答えが出たと思う』ことは偏見だと思うんですよ」

あまりにも鮮烈な言葉に講師の小野正嗣さんは、「伊集院さん、もう一回言ってください」と思わず問いかけました。そこに重ねるように伊集院さんは語ってくれました。

「『諦める』ということは、『この人のことをもう知らなくていい』ということなので、完全な分断だと思うんです。そして、『答えが出た』ということは、そこで『偏見』が完成することだと思う。だから、一番大切なことは、『問い続ける』ことで、『よかれと思って言ったことがもしかしたら傷つけているかもしれない。じゃあ、こういう言い方をしたらどうなんだろうか』と思い続け、自分をバージョンアップし続けることではないか」

体に電気が走るようでした。この言葉を聞いて。

そして、このシリーズを通して一番伝えたかったことを、凝縮して伊集院さんが語ってくれたことへの深い感謝が湧き上がってくるとともに、この言葉は、講師の小野正嗣さんの真摯な問い、安部アナウンサーの丁寧なサポート、関係したスタッフ全員が準備してくれた場があって、それらが化学変化を起こしたからこそ現れた言葉だと実感しました。この言葉は、この先ずっと私の心の中に生き続けることでしょう。

この番組企画のきっかけは「おもわく」でも書かせていただいた通り、2020年5月25日、アメリカで黒人男性のジョージ・フロイドさんが白人警官に殺害された事件でした。ずっと、この事件のことが心から離れずにいました。その後、国や立場を超えて「ブラック・ライブズ・マター」という運動が世界中に広がっていきました。一部、過激な暴動に発展し批判も巻き起こりましたが、運動の中核部分は非暴力が貫かれていました。テニス・プレイヤーの大坂なおみさんの勇気ある行動にも注目が集まりました。私自身も、自らの置かれた立場で何ができるかを考え続けていました。例えば、キング牧師の「自由への大いなる歩み」や「ネルソン・マンデラ自伝」といった著作を人種差別の問題を考えるために番組で取り上げるのはどうだろうかと。

そんなとき、作家・小野正嗣さんが新聞紙上に発表した文芸時評に目が止まりました。小野さんはBLMの動きに呼応するように、差別の問題をその時評で主題化していました。それは次のような言葉で締めくくられます。

「警官に膝(ひざ)で首を押さえつけられ、母に救いを求めながら亡くなった人の姿に、僕たちが深く動揺するのは、彼が人種差別の犠牲者であると同時に、虐げられ辱められた者だからだ。彼の命とともに僕たちの中にある〈人間〉も辱められたと感じるからだ。〈文学〉は、人種や言語の壁を越えたそうした普遍的な痛みをつねにその懐に宿し、決して忘れない」

この文章に深く心を揺さぶられるとともに、一人の思想家のことが頭に浮かびました。「差別」の問題を大所高所から語るのではなく(つまり「他人事」ではなく)、自分事としてとらえるためには、あの人の本しかない。そう、それがフランツ・ファノンでした。

フランツ・ファノンの名前は、学生時代、サルトルの「黒いオルフェ」という文章を読んで知りました。当時「人類の知的遺産」という、作家や思想家の生涯と主要著作が手際よくまとめられた全80巻のシリーズが大手出版社から出ており、その78巻目に、海老坂武さんが「フランツ・ファノン」について実に見事にまとめていました。この著作に大変な刺激を受けて「黒い皮膚・白い仮面」の原典も読みました。大変難解な本でしたが、若きファノンの心の叫びのようなものが聞こえてくるような強い印象をもちました。あれから四半世紀、まさかこのタイミングで再びファノンに再会するとは思いませんでした。

実は、一昨年、大江健三郎「燃えあがる緑の木」の解説を小野さんに依頼した際、最初の候補にあがったのが、ウィリアム・フォークナーとフランツ・ファノンでした。特に、ファノンは小野さんに決定的な影響を与えた人だということも聞いていて、私もその機会に読み直しを始めました。ただ、どのタイミングでこの本を取り上げるかについては迷いがありました。しかし、ジョージ・フロイドさんの死と、小野さんの文芸時評という二つの出来事に遭遇して「やるなら今しかない」と確信したのです。

先にも書いた通り、単に「人種差別問題」について「正論」を打ち出すような形で考えるのではなく、「我が事」としてとらえたいという思いが強くありました。ファノンは、自らも差別される側だけでなく、差別する側に身を置いたこともある人であり、そのことに、のたうち回りながら、自分自身をも切り裂くようにして、この問題を考え続けた人です。「差別問題」は全く他人事ではありません。私たちの周囲にもさまざまな差別があります。ジェンダーやLGBTQの問題、外国人労働者や技能実習生の問題、隣の国々をはじめアジアの国々への偏見・差別…等々、枚挙にいとまがないほど、数多くの問題があふれています。私たちは、それらの問題の当事者です。そして、自分自身への戒めを込めて書きますが、どんなに清廉潔白を主張する人でも、例外なく心の中に「差別の芽」が存在するのです。私たちも、ファノンと同じく、自分自身にもメスを入れ続けなければなりません。

「日本には差別はない」「わが社は、純粋な日本人しか雇用していない」といった言葉が平然と公の場で叫ばれている昨今、私たちは、もう一度、「いつまでも私を、問い続ける人間たらしめよ!」というファノンの言葉を噛みしめ、パトリック・シャモワゾーのいう「関係性の木」をそれぞれが育てていかなければならない。番組を終えて、深く決意しなおしています。

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