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瀬戸内海の魅力 国立公園指定90年

  • 2024年02月27日

    ことし(2024年)3月、瀬戸内海は国立公園指定90年を迎えます。その瀬戸内海の歴史と魅力について、愛媛県歴史文化博物館 専門学芸員の大本敬久(おおもと・たかひさ)さんに伺いました。
    ※2月20日(火)「ひめゴジ!」ラジオ第1(愛媛) で紹介した内容を再編集してお伝えします。

    瀬戸内海の範囲の定義とは

    岸本

    ことし(2024年)3月に、瀬戸内海は、国立公園に指定されて節目の90年を迎えますね。

    大本敬久さん

    はい。今から90年前の、昭和9年(1934)3月16日に、瀬戸内海が国立公園に指定されましたが、実は国立公園第1号だったんです。全国では、九州の雲仙と霧島、そして瀬戸内海の3つが第1号でした。
    瀬戸内海は近畿地方から中国、四国、九州の11府県にまたがる、ものすごく広い範囲になります。ですから国内で最も広い国立公園と言われていまして、日本最大の内海でもあります。

    瀬戸内海は穏やかで優しい海で、私も大好きです。瀬戸内海の範囲は、どこからどこまでと定義されていますか?

    瀬戸内海の範囲は少々複雑なんですね。なぜかというと、法律によって違うからです。
    3つ境界がありまして、和歌山県と徳島県の境目、愛媛県と大分県の境目、もう1つが福岡県と山口県の境目です。
    まず領海および接続水域に関する法律、いわゆる領海法といわれる法律ですね。
    これによると瀬戸内海の範囲は、四国に関わるところでは
    ●1:紀伊日ノ御埼(ひのみさき)灯台から蒲生田岬(かもだみさき)灯台
    (徳島―和歌山)
    ●2:佐田岬灯台から関埼(せきさき)灯台
    (愛媛―大分)
    となっています。

    もう一つ、瀬戸内海環境保全特別措置法施行令という法律があります。
    瀬戸内海が環境汚染で水質が悪化した1960年代、その環境を守ろうということで作られた法律ですが、四国に関わるところでは
    ●1:紀伊日ノ御埼灯台から蒲生田岬灯台
    (徳島―和歌山。領海法と同じ)
    ●2:愛南町 高茂埼(こうもさき)から大分県鶴御埼(つるみさき)
    (愛媛―大分)

    2の部分が、領海法と範囲が違って広くなっています。
    福岡と山口の境界も法律によって違っているということで、瀬戸内海の範囲は法律によって結構複雑だったりします。

    外国人の視点で良さを再発見

    瀬戸内海は、いつから、そう呼ばれるようになったのでしょうか?

    瀬戸内海は、大体今から150年くらい前の明治時代からですね。江戸時代に、「瀬戸内」という呼び方がありましたが、現在の瀬戸内海全般、11府県全体を指す瀬戸内海という概念がありませんでした。例えば安芸灘や伊予灘、紀伊水道、音戸の瀬戸のような狭い範囲を「○○の瀬戸」と呼ぶことはありましたが、一括して瀬戸内海と呼ぶ認識は実はなかったですね。

    それが、なぜ瀬戸内海と呼ばれるように?

    実は、日本を訪れた江戸時代末期の外国人の影響なんです。
    江戸時代に来た外国人が、船の上から、瀬戸内海を見て「この景色はすごい!」と驚き、その様子を日本人が見て、「実は瀬戸内海、すごいんじゃないか?」と再発見したんです。例えば、シーボルトという博物学者が、江戸時代末期の1800年代前半に、長崎から江戸に行く途中に瀬戸内海を航行するんですね。そのときに瀬戸内海を絶賛しました。
    有名なもう一人が、シルクロードなど全世界を巡ったドイツの地理学者・リヒトホーヘンです。彼が幕末に、瀬戸内海を航行して、「もうこれ以上のものは世界中のどこにもないだろう」と絶賛するんですね。そして、彼らがその瀬戸内海のことを、英語で「The inland sea」と訳しました。直訳すると「内側の海」ということで、それを日本人が「瀬戸内海」と翻訳し、明治になって定着していきます。

    なるほど。そこでようやく瀬戸内海という名称が定着していくわけなんですね。外国人は、瀬戸内海のどういうところを称賛したのでしょうか?

    一番は多島美です。島々があって、それが内海に点在して、海の美しさとそれを囲む山々の景色、もうこれ以上の景色はないと絶賛するんです。
    「The inland sea」というと、ヨーロッパでは、地中海を指すんですけれども、地中海はそこまで島がないんですね。瀬戸内海の多島美を絶賛して、それが日本人にとって当たり前すぎて気付きませんでした。外からの視点と言いますか、外国の方から教えてもらって、日本人も「あー、やっぱり、これいいね」というふうに再発見していくわけです。

    周遊観光の先駆けとなった瀬戸内海

    明治時代になって、その良さを再発見して、瀬戸内海をきちっとアピールしていかないといけないと気付いた四国出身の人がいるんですが、ご存じですか?

    どなたでしょうか?

    香川県出身の小西和(こにし・かなう)という方です。
    もともとは新聞記者でしたが、記者を1年間休職して、瀬戸内海の研究に没頭するんです。そして、「瀬戸内海論」という本を執筆します。これは瀬戸内海の自然や歴史、地質、人々の暮らしまでを調査、研究し、さらには瀬戸内海を開発するにはどうすればいいのか、何を守らないといけないのかというところまで、明治時代に出しているんですね。小西さんは、その後、国会議員になりますが、公園法を作る上で、国立公園の基礎を法律で決め、瀬戸内海が、国立公園第1号になるきっかけを作ります。当時は「公園」という概念すらない中、景観を国が守る必要があると説いて設立につながったわけです。

    国立公園になれば注目度も上がると思いますが、どういった変化がありましたか?

    国立公園は世界に誇るべき自然景観っていうことで、その良さが広い範囲で知れわたり、観光客もいっぱい来るようになりました。
    それまでの観光は、寺や神社などの参拝が目的でした。それが景観を目的にした観光に変わり、昭和10年頃に盛んになっていきます。さらに、それに合わせて瀬戸内海のガイドブックも多く出版され、中には、海外向けの、英語のガイドブックとパンフレットも出るようになります。
    それまでも有名だった道後温泉、香川の金刀比羅宮、広島の厳島神社、徳島の鳴門のうずしおが、瀬戸内海によって、さらに人気になったんですね。それで、旅した人たちが寄稿文を書いたり、出版したりすることで、いろんな情報がどんどん発信されていったわけです。今でいうと、SNSのような感じで広まり、当時は出版文化が定着していたので、それを読んだ人がまた来たくなるということですよね。

    愛媛に住んでいると、当たり前の景観に思えるかもしれないですけど、実はものすごく世界的な価値があることを、今回を機に、改めて多くの人に知っていただき、瀬戸内海の魅力を再発見していただけたらと思います。

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