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松山が生んだ“第零代ミスタータイガース” 景浦 將【1】

  • 2023年09月15日

阪神が、2005年以来18年ぶり6回目のセ・リーグ優勝を果たしました。
愛媛 松山が生んだ強打者 景浦 將(かげうら まさる)は、沢村栄治のライバルとされ阪神ファンの間で“第零代ミスタータイガース”と語り継がれているのですが、みなさんご存じでしょうか?
阪神優勝にあわせて、2021年4月に掲載した景浦 將についての連載を一部、再編集して詳しく紹介していきたいと思います。

(NHK 正亀賢司)

景浦 將

景浦 將(かげうらまさる)は、「職業野球(現在のプロ野球)は、沢村が投げて、景浦が打って始まった」とまで称され、今の阪神タイガースの前身、大阪タイガースで活躍した伝説の名プレーヤーです。

日露戦争終結の10年後に景浦は正岡子規と同じ松山市で生まれます。
おいの隆男たかおさんによると、5人きょうだいの長男でした。生年の大正4年は、現在の夏の甲子園にあたる全国中等学校優勝野球大会の第1回が行われた年でもあり、このあたりも野球との縁を感じざるをえません。
景浦は野球の名門、松山商業に進みますが、実は入学してすぐに野球部に入部したわけではありません。それまで景浦は剣道少年だったそうです。
松山商業は現在に至るまで甲子園での優勝回数は春夏通算で7回を誇ります。
景浦は3年生(当時は5年生)になって野球部に入部します。その年の松山商業は春のセンバツ甲子園で準優勝、夏の甲子園ではベスト8という成績を残していました。それ以前にすでに全国制覇も成し遂げている強豪校です。景浦はそんな強豪校で入部翌年の昭和6年春、甲子園にレギュラーで出場し、初めて聖地を踏むのでした。

なぜ剣道少年が入部早々に強豪校でレギュラーを奪取し、甲子園に出場することができたのか。おいの隆男さんに聞きました。

おいの隆男さん

「リスト(手首)の強さをいかした強い打球を飛ばすことが打者としての特徴でした」

さらに、隆男さんの父親もプロ野球選手でしたが、父親は兄(將)から次のような忠告を受けたと言います。

「自分のまねはするな。怪我をする」

それほどまでに強じんな手首をいかした打撃が特徴だったのでしょう。
なお、隆男さんも松山商業、中央大学、電電四国で選手としてプレーし、のちにNTT四国では監督も務めた野球人です。

さらに松山商業野球部長だった人物の回想を紹介します。

「景浦君は豪の者であの松山市駅前のヒギリ焼を二十四食ったと選手達が話していた。一寸今日まねの出来る者はあるまい」

ヒギリ焼とは回転焼き、大判焼きのことで24個も食べるとはとんでもない大食漢です。
ちなみに、今も松山市駅前にはヒギリ焼の店があります。

こうした頑健な体を持つ景浦は松山商業で野球の花形「4番サード」で活躍といきたいところですが、実際には6番や7番を打つことが多かったようです。
そんな景浦の松山商業時代の最大のハイライトは、最終学年となった昭和7年の夏の甲子園の決勝戦でした。その年のセンバツで優勝した松山商業は甲子園の春夏連覇をかけて中京商業(愛知)と対戦します。
6番サードで先発出場した景浦は2回無死満塁という大ピンチでリリーフとしてマウンドにあがります。押し出しの四球を与えたものの、ピンチをしのぎます。その後1点を失うものの、景浦は力投を続けました。
8回を終えて0対3の劣勢の中、松山商業は土壇場で春の王者の底力を見せます。1死1、2塁から景浦が左中間を破る3塁打を放ち2点を返します。この試合で景浦は2本の3塁打をかっ飛ばしています。さらに続くバッターのタイムリーヒットで景浦が生還して松山商業は同点としました。

しかし、景浦に不幸が襲います。9回裏のマウンドでピッチャー強襲の打球を受けて足を骨折し、降板します。それでもサードの守備について出場を続け、サヨナラ負けの無念の瞬間はサードで迎えることになりました。
この試合を記録した貴重な映像が残されていて、景浦がランナーとして果敢にベースに滑り込むシーンやチームメートに担がれて甲子園をあとにする景浦の様子が確認できます。まさに「闘将」という言葉がぴったりのプレーぶりです。

早稲田大学野球部の初代監督で学生野球の発展に貢献した飛田穂洲(とびたすいしゅう)は当時の朝日新聞で景浦のことを次のように評しています。

影浦(原文ママ)が二の三塁打は両軍を通じての偉勲であって惜しいかな優勝旗の上に輝くものとはならなかったけれどもその援助投手としての成功とともに松山の名を辱めぬもの

ここまでお読みになられた方は気づくかもしれませんが、景浦はバッターとしては長打を連発し、ピッチャーとしても甲子園決勝で力投する、まさに投打の二刀流であることがおわかりいただけると思います。
ピッチャーとしてはどうだったのか。おいの隆男さんです。

「真っ直ぐと変化球、カーブ、あとシュート、それぐらいのボールで打者を牛耳っていたと聞いている」

当時は野球草創期だけに、二刀流も珍しいことではありませんが、大谷翔平の先駆けとも言える選手でもあったのです。

サインボール

地元・松山市にある野球歴史資料館「の・ボールミュージアム」には昭和7年のセンバツ優勝を記念した当時のナインによるサインボールがあり、当然ながら景浦の名前もあります。
このサインボールの解説に、景浦は水島新司さんの人気漫画「あぶさん」の主人公の名前のモデルというと記されています。「あぶさん」の主人公の名前は「景浦安武(かげうらやすたけ)」。あぶさんの豪快な打撃から、景浦將をモデルにしたんだろうなと知る人ならそう思いますよね。

春夏あわせて4回も甲子園に出場した景浦は立教大学へと進み、活躍の舞台を東京六大学野球へと移します。当然ながら、昭和11年に発足するプロ野球の前身、職業野球はこの時代にはありません。
スター選手が集い、当時は人気絶頂を誇った東京六大学野球で景浦はどのようなプレーを披露したのでしょうか。

立教大学時代以降のことは次回に続く・・・。

  •  正亀賢司

     正亀賢司

    好きなことは歴史と野球を探求すること。2019~21年まで松山局で勤務。現在は報道局の映像取材デスク。

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