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西日本豪雨の影響が残る徳島の集落を訪ねて

  • 2023年07月13日

西日本豪雨から5年がたった2023年になって、ようやく避難指示が解除された場所が四国にあるのを、みなさんご存じでしょうか?
徳島県三好市山城町の粟山地区です。
地域がどうなっているのか、訪ねました。

(NHK松山放送局 永井伸一)

至る所に爪痕が…

その日は、まだ梅雨の時期の6月。
現地では小雨が降っていました。

粟山地区に行くには、三好市の中心部から吉野川をさかのぼるように進み、景勝地で有名な大歩危・小歩危に差し掛かったあたりから、さらに山間に入ります。
地区へ通じる道は それまでの国道とは違い、道幅は狭く斜面がとても近くに迫ってきます。

カーブを曲がって目の前が開けた瞬間、突然豪雨の爪痕が現れました。
木々が根っこから倒れ、土砂が崩れ落ちたままです。
避難指示が解除されたと聞いていたので、あまりにむき出しの状態に、当時の被害の大きさがズンと胸に伝わってくるようでした。

さらに進むと、真新しい路面がところどころに出てくるようになりました。

西日本豪雨では、粟山地区へつながる県道付近で12か所の道路災害が発生。
壊れた道路がすべて復旧したことを受けて、ことし4月に避難指示がようやく解除されたのです。

地区の住民は戻らないまま

右:案内してくれた喜多二三男さん

粟山地区を案内してくれたのは、自治会長の喜多二三男さんです。
今でも雨が降ると、西日本豪雨のことを思い出すそうです。

喜多さん撮影(2018年7月8日)

当時喜多さんが撮影した映像も見せてもらいました。
めちゃくちゃになった道路。
ここを誰かが通っていたら…と思うと、犠牲者が出なくて本当によかったと思いました。

喜多さんに、避難指示が解除となった後の地区の様子を聞くと、肩を落としてこうつぶやきました。

喜多二三男さん 粟山地区自治会長
「避難してから誰もいなくなりました。見回りが大変です」

かつて暮らしていた17世帯のほとんどが、今も戻ってこないといいます。

せっかく避難指示が解除されたのに、一体どうしてなのか。

喜多さんによると、地区を離れて避難している間も地区の人は「帰りたい」と話していたといいます。
しかし高齢な方が多く、避難生活が5年も続いた結果、元の山間の場所で生活するのが大変などの理由から、ほとんどの人が戻ってきていないそうです。

「5年のギャップはものすごいね、やっぱり」

さみしそうな目で私を見つめながら話す姿が、豪雨災害の現実を突きつけているようでした。

被害の記憶を伝え残す

喜多さんが大切にしている場所があるということで、案内してもらいました。
地区の中にあるバス停です。

5年前、このバス停の表示板が流され、100キロ近く離れた鳴門市の海岸で発見されました。
後日、表示板は地区に戻されました。

喜多さんは、この出来事を書いた手作りの看板を作り、バス停の横に立てました。
このバス停がある道は、決して車どおりが多い場所ではありません。
それでも、なぜ看板を作り立てたのか。
喜多さんは、地区の人に見てもらいたくて作ったわけではないといいます。

自分が勝手に作って置いただけと喜多さんは照れながらも、

「たまたま通った人に見てほしい。豪雨災害についてわかるし、残すことでみんなが忘れない」

と話してくれました。

取材を終えて

今回喜多さんに案内してもらい、豪雨災害の記憶とともに生きる決意を強く感じました。
そして、これから先も様々な現場を見つめ伝え続けていく必要性を強く感じた一日になりました。
喜多さん、今回は本当にありがとうございました。
また近々お会いしたいと思います。

 

  • 永井伸一

    永井伸一

    1993年入局。現在は「四国らしんばん」を担当。座右の銘は「しっかりしていなければ生きていけない、優しくなければ生きている資格がない」

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