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熊本から能登へ 若きボランティア 奮闘と葛藤の3ヶ月

  • 2024年04月24日

8年前の熊本地震でボランティアに支えてもらった高校生が、20代となり能登半島地震の現場で発災翌日から3ヶ月、被災地支援を行ないました。現地で感じた思い。そして、これからへの思い、とは。(4月16日「クマロク!」で放送)

2月 彼女が、能登で頑張る"理由"

彼女は石川県七尾市の商業施設の一角にいた。能登半島地震の発災翌日に石川に入ったという。

 

全国から集められた様々な物資をさばき、各地から集まったボランティアにテキパキと指示を与える。24歳。初めての震災ボランティア。簡単ではなかったはずだ。ディレクターである私が現地で彼女に出会ったのは、発災からちょうど1か月が経過した2月上旬だった。

 

「ちゃんと休めてますか?」

そんな問いに彼女は笑顔で答えた。

「休みですか?無いですね。無いですけど、無くてもやれています…。どうにか一ヶ月は」

大塚さんが所属するのは東日本大震災をきっかけに結成された「熊本支援チーム」。8年前の熊本地震や、4年前の人吉・球磨地方の水害でも活動を行なった。被災者のニーズと支援の力をマッチさせて、いかに早く支援を立ち上げるか。熊本支援チームには、培ってきた独自のスキームがある。

「熊本支援チーム」支援の仕組み

災害が起きると「熊本支援チーム」から、現場で何が必要かをSNSで支援者に発信。物資を集めてから運ぶのではなく、被災地の配布拠点にそれそれが直接送付する。
配布拠点で主に活動するのは、被災地周辺で募ったボランティア。そして熊本支援チームから派遣された大塚さんのような数人のメンバーが現場を統括する。支援の目詰まりが起きないように、考え抜かれた仕組みだ。

配布拠点に集められたのは食料や日用品だけではなく、子供用のおむつや行政では配布していなかったペット用品もあった。配布拠点に来た人に話を聞くと、感謝の言葉があふれた。

「きょうは子供用のオムツとお菓子、水をいただいた」「ありがたいです。」

厳しい状況におかれた人たちと毎日のように向き合う仕事。カメラの前では語れないような現実にも、大塚さんは向き合ってきた。感謝を伝えられることばかりではなかったと言う。

「いいことも、悪いことも起きるのがこの場だと思っている」

厳しい状況のなかで、なぜ頑張り続けられるのか。8年前の経験を教えてくれた。
高校生の時に遭遇した熊本地震。被災直後、食事も喉を通らなかった日々を送る大塚さんは、ひとりのボランティアと出会った。

高校生の頃の大塚さん

「ボランティアから、あめ玉をもらった。久々の甘い物で、本当にそれをなめた時に感動した。すごく愛があるなと感じた」

一粒のあめ玉が与えてくれたもの。それは苦しい被災の日々を生き抜く力。そして、それだけじゃなかった。

「私もそういう大人になりたいなと思ったし、困っている人がいた時に助けられる人でありたいと思えた。そんなきっかけが、熊本地震で出会ったボランティアだった」

自分を助けてくれた飴のように、厳しい状況にある人に助けられる人になりたい。いやもうすでに、彼女はそんな存在になっている。でも大塚さんは「まだ足りない」と考えているようにも思えた。

3月 もどかしさと無力感の中で

再び、大塚さんを訪ねたのは1か月後の3月上旬。熊本支援チームは、拠点を七尾市から能登町へと移していた。

物流がある程度回復してきた七尾を離れて北へ。より困難な状況にいる人たちに物資を届けようと考えたという。支援の方法も変えていた。拠点で待つのではなく、自主避難を続けている人たちや、交通の便が悪い集落に直接車で届けることにした。配布するのは21カ所。大塚さんもハンドルを握り、悪路のなかを軽トラで進む。

助手席で彼女にカメラを向けていると、言葉がこぼれた。

あまり町の風景に変化がない。配送していてずっと思っている。(発災から3か月は)早いですよね。このスピード感と私たちの活動が伴っているのか…いつも考えちゃう

発災から2か月以上が経っても断水が続き、仮設のお風呂やトイレで生活しなければいけない人たちが、まだ多くいた。もちろん、それは彼女のせいではない。それでも考えてしまうのだと言う。

「自分たちの活動は、現地の復興にどれだけ役に立っているのか?」
それは答えのない問い。それでも、その問いから目を背けることもできない。

転機となる出会いがあった。それは配送先で出会った保育園児のお母さん。初対面の大塚さんに、子育ての悩みを話し出した。

「いつになったら自分たちの子どもに前の日常生活を送らせてあげられるかなと。母たちは皆そればかりで、家がどうとかよりも子ども達に普通に今まで通りの生活をさせてあげたい」

それも大塚さんにはどうすることもできない願い。どうすることもできない、でも「何もできないこと」ではなかった。大塚さんは、30分にわたって、お母さんの話を聞き続けた。
傾聴。それは、8年前の熊本地震の時に、ボランティアにしてもらったこと。

「被害度合いじゃなくて、その人にとっての災害への感情というか、気持ちがあるから…それって傾聴してあげることでしか、解決してあげられないし、自分も傾聴してもらえてたから」

3月下旬。大塚さんは、予定していた3ヶ月の支援活動を終えた。

4月 これからへの決意

熊本に戻った彼女を訪ねた。
石川での経験を、次につなげるために、現地での活動記録をまとめる仕事にとりかかっていた。

3か月の経験を経て、いま思うことは。

「被災地の七尾市とか能登町でもいろいろな人に出会って、一人一人のバックグラウンドを知ったときに、この人にもうちょっとこれからも関わっていきたいなとか、思いが強くなりました」

そして彼女は言葉をつないだ。

「災害は起きてほしくないしと思うけど災害大国だから起きると思うし、その時に助けられる人でもっとありたいと思えた」

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