8・6水害|鹿児島市の原良小 教訓を今に生かす
- 2023年08月04日
1993年8月6日。鹿児島市にある原良小学校は、近くを流れる甲突川が氾濫し、大きな浸水被害を受けました。あの日から30年、水害を知らない子どもたちに過去の歴史や教訓をどう伝え、今に生かそうとしているのか。学校の取り組みを取材しました。
鹿児島局記者 古河美香
"あの日"をつづった冊子
鹿児島市の原良小学校は、甲突川から300メートルほどの場所にあります。
学校の校長室の棚には、“水害を糧にして”というタイトルの冊子が残されていました。
あの日、被害を受けた子どもたちや教員の体験をまとめたものです。
被害の記録が残されていて非常にリアルな資料で、当時の状況がよく分かります。
冊子の中の子どもたちの作文には、次のようなことばが書かれていました。
「うきわをつかって、がっこうのたいいくかんにひなんしました」
「私の家は、もうボロボロです」
「一生忘れられない大変な夏になってしまいました」
甲突川の氾濫 学校は床上浸水
30年前の8月6日。記録的な大雨で甲突川が氾濫しました。あふれた水が学校近くの国道3号線に流れ込み、車が重なったり、横倒しになったりしていました。
学校に残された当時の資料には、校舎が床上浸水したと朱書きで記されています。給食室は床上70センチまで浸水し、衛生面などの理由から冷蔵庫や食器など、室内のものをすべて処分せざるを得なくなりました。泥水をかぶった図書室の本2000冊も、廃棄処分になりました。
元校長の思い「経験を糧に」
冊子を作ったのは、当時、校長を務めていた藏満規司男さん(88歳)です。水害の翌日、ようやくたどり着いた学校で見た光景にショックを受けたといいます。
記憶に残っているのは30センチから50センチぐらいのコイが運動場の中で死んでいたんです。甲突川のコイがあがって、そのまま死んでいました。3匹ぐらいいたと思います。
校長として、転校を余儀なくされたり、衣類や学用品を失ったりして、子どもの生活が一変する様子を目の当たりにしました。この経験を糧に、将来に生かしてほしいと考え、冊子を作ることを決めました。
ただ記録をするだけでは意味がないと思います。何も残さなければ記憶は消えてしまいます。この経験を糧にしてほしい。このことがいろんな人生の中で生きてくるんじゃないでしょうか。こんな体験をした人はそんなにいないのですから。
30年で様変わり 水害をどう伝える
学校の周辺は、この30年で様変わりしています。住宅やマンションがつくられ、新たにこの地域で暮らす人も増える中、水害を振り返ることも少なくなっています。
界敏則校長は、子どもたちが「8・6水害」を学校で学ぶ重要性は、むしろ増しているのではないかと、7月、校内に当時の様子を学ぶ展示コーナーを作りました。冊子の原本やコピーのほか、写真や新聞記事の切り抜きを使って当時の4年生・園田梨絵さんが作った自由研究も展示しました。
教訓を今に伝え 今後に生かす
元校長の藏満さんも展示コーナーに案内されました。子どもたちは藏満さんからも話を聞き、災害が起きた時にどう行動するか、改めて考える場になりました。
水につかって制服がなくなった人がたくさんいますと書いてあって、大変だなと思いました。
大人の腰のあたりまで水がきていたので私たちだと溺れるかもしれない。災害はいつ起こるかわからないから備えをしておくといいと思いました。
冊子を生かした展示コーナーの設置に、藏満さんは満足した様子でした。
冊子づくりに大変苦労したので、とってもうれしいです。理想的ですね。こういうふうに冊子を活用してもらったら、子どもたちにもきっと将来役立つと思います。
界校長は当時の人たちが残した記録にこそ、今の時代に訴える力があると感じています。
原良小学校 界敏則校長
ことばで伝えるだけでは、小学生にはなかなか伝わらない部分もあると思います。実際に当時のものを使って伝えることによって、実感として湧いてくるのではないかと思います。これを教訓に、のちのちまで伝えてもらいたいという気持ちが強いです。
過去の災害を自分ごとに引き寄せる機会になった展示コーナー。
30年前の記録と思いが引き継がれています。
※「満」はつくりの中が「入」2つ。