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神経生理学で読み解く 性暴力被害の“凍りつき”<解説>

※この記事では性暴力被害の実態を広く伝えるため、セカンドレイプにあたることばについて触れています。フラッシュバックなど症状のある方はご留意ください。

性暴力被害に遭った人に話を聞くと、その多くが、周囲からの「なぜ抵抗しなかったのか?」「逃げようと思えば逃げられたのではないか?」といったことばに苦しんでいます。

被害を受けたとき、体が動かなかったり、声を出すことができなかったり、意識が遠のいたりする、“凍りつき”の反応。これらは人間が生き残るための、神経系のごく自然な反応であることを、神経生理学の視点から読み解く本が出版されました。

性暴力に新たな手法でアプローチする注目の1冊。編著者に詳しく話を聞きました。

「性暴力を考える」取材班 村山世奈

性暴力の専門家たちが注目する“ポリヴェーガル理論”

なぜ私は凍りついたのか ポリヴェーガル理論で読み解く性暴力と癒し

去年12月に出版された『なぜ私は凍りついたのか ポリヴェーガル理論で読み解く性暴力と癒し』。“ポリヴェーガル理論”という神経生理学の理論で性暴力に迫ろうと、長江美代子さん(看護師・公認心理師)や山本潤さん(当事者団体「Spring」)など、さまざまな立場の専門家・当事者・支援者らが著者に名を連ねています。

編著者の公認心理師・花丘ちぐささん
編著者の公認心理師・花丘ちぐささん

この本の編著者を務めた、公認心理師の花丘ちぐささんです。花丘さんは、ポリヴェーガル理論による性暴力へのアプローチは、被害者が直面する恐怖や切迫感を、誰にでも備わっている神経系の働きから捉えることで、これまでの誤解や偏見を変える大きな可能性があるといいます。

花丘ちぐささん

「被害に遭ったときに抵抗できたかどうかは、個人の問題ではなく、人間の生理的反応なのだと社会や法の専門家に理解してもらうことで、性暴力についての刑法改正の突破口にもなりうると感じています」

ポージェス博士と妻でオキシトシン学者のカーター博士
2人へのインタビューも本に収録されている

ポリヴェーガル理論とは、1994年にアメリカの神経生理学者であるステファン・W・ポージェス博士が発表した理論です。心や体の状態を、人間の体にある3つの自律神経系の働きから説明することができ、トラウマを体験した人の療法を行う分野で注目されています。ポージェス博士の学術論文はこれまで約3万回引用され、心理学、精神医学、医学、教育、福祉などの分野に影響を与えています。

それを日本における性暴力の議論に取り入れたいと考えたのが、ポージェス博士の研究室からオンラインで指導を受けた経験がある花丘さんです。

花丘さんは、幼いころの虐待やトラウマ体験を抱えた人のセラピーを行ってきました。そうした中で、性暴力被害に遭った方や支援する人たちと出会い、刑法の「暴行脅迫要件」(※)など司法が求めることと、被害者が生きた現実とのあいだに大きなギャップがあると感じました。そのギャップを埋めるために、ポリヴェーガル理論が役立つのではないかと考えたのです。

※【刑法の暴行脅迫要件】性行為を犯罪として処罰するには、「相手が同意していないこと」に加えて、加害者が被害者に暴行や脅迫を加えるなどして、「抵抗できない状態につけこんだ」ことが立証されなくてはならない。

花丘ちぐささん

「もともとポリヴェーガル理論は、性暴力被害者の支援のために考えられた論ではありませんでしたが、ポージェス博士のもとには、性被害に遭った人から『自分が凍りついて動けなくなったことを恥ずかしく思っていましたが、理論を知って自分の反応が普通のことで正当であったことが分かりました』と手紙が届きました。日本でも、性被害者が抵抗できなかったことをみずから責めたり、司法の場では被害者が抵抗できたはずという考えが前提になっていたりするので、1人でも多くの人に知ってもらいたいと思いました」

3つの自律神経系が作用する“生き残り戦略”

ポリヴェーガル理論の考えの根本には「人間の体にある自律神経が3つの枝に分かれている」という概念があります。

交感神経系と副交感神経系ということばを聞いたことがある人は多いと思います。交感神経系は、活発に動いたりスポーツをしたり、仕事をするときに優位に働きます。副交感神経系は、休んだり消化吸収をしたりするときに優位になります。

ポージェス博士は、この副交感神経系の中に、実は2つの迷走神経があるのだと提唱しました。背側(はいそく)迷走神経系と、腹側(ふくそく)迷走神経系です。

ポージェス博士は、3つの神経系の働きを、生き物の進化の過程に沿って説明しました。

太古の昔、深海魚のような古い種の魚類が地球に姿を現わしました。その魚にできた背側迷走神経系は、消化や吸収、休息をするために働き、危機に直面したら酸素を使わないでなるべくじっとするという特徴があります。

次に、素早く泳ぐ魚が出てきたところで、交感神経系が発達しました。素早く動いたり、危機に直面したら戦うか逃げるかの反応をしたりする神経系です。

それからずっと進化していき、ほ乳類が出現したときに腹側迷走神経系が発達しました。親子間や群れのなかで交流するためのもので、声の韻律の調整や、人類においては、豊かな表情を作ることなどでお互いの思いを伝え、安全の合図を出し合い、社会を形成する働きがあります。

3つの神経系に共通していることは、私たちが危機に直面したときには、生き残るために働くということです。進化の過程とは逆向きに、腹側迷走神経系交感神経系背側迷走神経系の順番で発動していくといいます。

ポージェス博士によると、私たちは、お互いの意見の食い違いや、ちょっとした問題が起きたときは、まず腹側迷走神経系を使い、「私は敵ではないですよ」という友好の合図を出して、話し合って物事を解決しようと試みます。それがうまくいかず、危機に陥ったときには、交感神経系が戦うか逃げるかを試みます。そして、それもうまくいかないと、背側迷走神経系が優位になり、究極の生き残り戦略に入ります。つまり“凍りつき”です。

なぜ凍りつきが命を守るのか。例えばサバンナでチーターに襲われたインパラを思い浮かべてください。

逃げられず捕食されそうになると、凍りつき反応が起きて呼吸も心拍も非常にゆっくりになります。そうすると傷を負ったとしても出血が少ないため、うまく逃げられたときには失血死を免れ、生存の可能性が高まります。また、肉食獣は動物をかんだときに筋肉の抵抗があると、食べ物であると認識し捕食本能が刺激されます。しかし、ぐったりしている動物をかむと、食べ物ではないと認識し、食べるのを止める可能性があります。さらに、もしすべての生き残りの可能性が無くなり捕食されても、凍りつき反応が起きていれば、意識を失い、苦しみが少なくなるのです。

性暴力被害の凍りつきは“無意識の反応”

花丘さんは、この神経系の働きから考えると、性暴力被害に遭った人が凍りつくことの説明もつくといいます。被害に遭った人の中には「声が出せなかった」、「体が動かなかった」、「頭の中が真っ白になった」、あるいは「全く記憶がない」という人が少なくありません。これは、背側迷走神経系によって脳の血流が低下していたためと考えることができます。

そして、凍りつき反応に関して大切なことは、意図的に「では、いまから凍りつきます」と選択できるものではないということだといいます。戦うか逃げるか、あるいは凍りつくかは、理性や意志でコントロールできるものではなく、体の無意識の反応なのです。

花丘ちぐささん

「交差点でいきなり自動車がこちらに向かってきたり、大きな地震の揺れを感じたりしたときに体が動かなくなるのをイメージできるでしょうか。『なぜ逃げなかったのか?』と問われても説明できないはずです。もっと身近なことで言うと、大切な仕事のプレゼンの前などに心臓がバクバクするときには交感神経系が働いています。このとき、『交感神経系を動かそう』と選択しているわけではないのと同じで、神経系は無意識に切り替わるのです」

さらに本では、被害から時間がたっても心や体の不調が続くことも神経系で説明しています。

私たちの神経系は、危機に直面したときには素早く切り替わりますが、通常の状態に戻っていくときはとても時間がかかります。恐ろしい体験をした人は、その直後も恐怖を感じているため、すべての人や状況を怖いと感じ、助けを求めたり人を信じたりすることができません。ときには、何か月も何年も通常でない状態が続いても当然だといいます。

花丘ちぐささん

「性暴力被害という恐ろしい体験をしたあと、神経系が安全を感じられない状態が続いてしまうことがあります。『早く回復しなさい』とか『忘れなさい』と言われても、トラウマは神経系に刻まれてしまっているので自分の意志で変えるのは難しいです。支援者が手を差し伸べても受け取ることができなかったり、攻撃的になってしまったりします。それを理解したうえで、被害者のケアや法的判断を行っていくことが大切です」

神経系には個人差があります。同じトラウマ体験をしても、とっさに戦ったり逃げたりすることができる人もいますが、凍りついて動けなくなることも多く、反応は人によってさまざまです。回復にかかる時間も異なります。1回のトラウマ体験より、何度も繰り返し直面した人や、成長の過程で虐待や不適切養育を受けた人は神経系に影響を受けやすい傾向があります。

“あなたが生き残ったことがすべて”

本では、意に反していても加害者からの誘いに応じたり、被害後でさえも加害者に親しげなメールを送ったりするなど、被害者が加害者の意に沿う言動をする「迎合」という反応も、ポリヴェーガル理論の視点から説明しています。これは、腹側迷走神経系の働きによる、生き残るための反応だと考えられます。加害者からさらなる加害行為を受けないように、「私はあなたの脅威ではない」と伝える反応が起きる場合があるのです。

ほかにも、性暴力の裁判において、被害者の精神的・心理的な鑑定にポリヴェーガル理論が活用された事例や、現役の検察官からの視点など、本ではさまざまな議論が行われています。

被害に遭った瞬間の神経系を測定するのは困難で、神経系には個人差が大きいため、すぐにすべての性暴力の裁判にポリヴェーガル理論を取り入れることは難しいのが現状です。しかし花丘さんは、性暴力に対する誤った思い込みや偏見が無くなり、被害者が責められることのない社会になってほしいといいます。

花丘ちぐささん

「さまざまなトラウマ体験を抱えた方と接してきましたが、性被害では特に自分を責めている人が多いと感じます。『凍りつき=恥』という概念を変えたいです。いちばん伝えたいのは、あなたが生き残ったことが何より大切だということ。抵抗するのと凍りつくのはどちらも私たちが生き残るための機能で、どちらが偉いということはありません。抵抗して殺されることもありえます。いま、あなたがここにいるなら、あなたの神経系があなたを守ったのです」

取材を通して

この本を、取材で出会った性暴力被害に遭った方に紹介したことがあります。すると、「自分でも、なぜ加害者の言いなりになってしまったのかをうまく説明できなかったんです。本を読んで腑に落ちるというか、客観的に自分の被害を思い返している感じがします」という感想をもらいました。“自分に何が起きたのか分かる”というのは、その後の一歩を踏み出すための後押しになるのではないかと感じました。

また、これは被害に遭った人だけではなく社会全体に浸透してほしい理論です。「なぜ抵抗できなかったの?」という問いは、安全な場所にいて神経系が落ち着いているから言えることであり、性暴力という恐ろしい体験に直面した人に言うべきことではありません。「早く立ち直りなよ」ということばも、神経系が乱れてしまっている人にとって、自分がいちばんどうすることもできないと感じていることなのです。新しい英知にしたがって、制度や常識もアップデートされていくべきだと強く思います。

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