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亡くなった人の“生きた証し“を伝え続ける 20代の2人が目指す語り部の未来

東日本大震災から今月11日で12年。若い世代の語り部たちが、震災の体験や記憶を語り継ごうと活動しています。

津波で弟、祖母、曽祖母を亡くした、宮城県石巻市の永沼悠斗さん(28)。「亡くなった方々の生きた証しを残したい」と、2016年から語り部を始めました。永沼さんは活動に大きな使命を感じていますが、同世代には就職や進学を機に語り部を辞める人も少なくありません。

そこで今回、直接会って話を聞くことにしたのが、被爆地の長崎で就職後も語り部を続ける山野湧水さん(26)です。

2人の対話から生まれた、伝えるための新しいアイデアとは。

東北ココから「語り部クロス 〜語り継いでいくために〜」

3月9日(木)午前2:39~放送(全国)
※放送から1週間、NHKプラスで見逃し配信をご覧いただけます

永沼 悠斗さん(ながぬま ゆうと・28)
宮城県石巻市在住。震災当時は高校1年生。大川小学校に通っていた小学2年生の弟、祖母、曽祖母を津波で亡くした。自分が生かされた意味を考えたときに、語り部として活動することを決意。2016年から震災遺構の大川小学校で、当時の体験やそこから感じた教訓を伝えている。
山野 湧水さん(やまの ゆうみ・26)
長崎県長崎市在住。高校生のころから全国の子どもたちと平和について考えるボランティア活動に取り組み、いつかは自分も平和ガイドをしたいと思い続けてきた。就職先が東京に決まったあともその思いは消えず、被爆者から記憶を聞き取り、その記憶を伝える「家族交流証言講話」に大学4年生のときに申し込み、語り部として活動。現在は長崎に戻り、長崎平和推進協会に勤めている。

「就職しても辞めたくない」 語り部活動はライフワーク

去年11月、長崎を訪れた永沼さん。長崎市の平和公園で山野さんと待ち合わせました。

永沼さん

こんにちは!はじめまして!永沼と申します。

山野さん

はじめまして!山野と申します。よろしくお願いします。

山野さん(右)を訪ねる永沼さん(左)

2人はどのようなきっかけで語り部の活動を始めたのか、お互いの経験を話し始めました。

永沼さん

実際に伝え始めたのは、どのぐらい前からですか?

山野さん

大学4年生のときに被爆者の方と出会って、その方のお話を半年ぐらいかけてずっと聴き取って、資料を作ってっていうのをやって話し始めました。永沼さんは震災のあとどれぐらいたってから語り部を始められたんですか?

永沼さん

5年たってからですね。それまでは全然、語り部をやってなかったですし、震災に関わることは何一つやってこなかったです。

山野さん

きっかけって、何があったんですか?

永沼さん

一つは大川小学校(永沼さんの母校)を震災遺構として“保存するかどうか”という話し合いがあったんですよ。そのときは震災から時間がたっていたので、がれき処理みたいな形で全部片づけられていたので震災の爪痕ってほとんどなかったんです。だから“ここでどういう災害があったか”というものを残す場所って何も無いなと思って。そこから、じゃあ残すにあたって、自分が経験したこととか教訓は伝えなきゃいけないよなという使命感があって話してみようかというのがきっかけですね。山野さんはどうでした?

山野さん

私、語り部をする前に高校生のときからずっとボランティアをしていて。長崎に来てくれた全国の子どもたちと一緒に被爆遺構を巡ったり意見交換したりするイベントをやっていたんです。その活動を続けていく中で毎年県外の人が来てくれて刺激をもらって。長崎にいるんだから学べることもたくさんあるなって気づいて、気持ちがどんどん高まっていきました。でも、就職で東京に行くことが決まって「毎年長崎でやっている活動ができなくなってしまう」と思ったときに、「大人になったからといって辞めたくない」と思って、被爆者の体験を聴き取り、それを語り継ぐ「家族・交流証言事業」に即決で申込んだのを覚えていますね。

山野湧水さん
永沼さん

今、山野さんがおっしゃったように、私も「仕事に就くから語り部活動を辞めよう」という選択肢は無かったので、就職活動のとき「こういう活動をしているんですけど認めてもらえますか」って話をしていたんですよ。

山野さん

あ、私もそれ就活のときにしました。

永沼さん

え!

山野さん

1社目、出版社に入ったんですけど、ライフワークとして継承活動を続けていきたいと思っているっていうのは、面接のときにすごく話してましたね。今は語り部活動を続けてきたことがきっかけで長崎平和推進協会で働いているので、思い続けていたら、いつかつながったりするものなのかなと思って。長崎で毎日被爆者の方と会える環境で仕事をさせてもらっているので何があるかわからないなって感じていますね。

絵を描いたりSNSで配信したり “伝え方”は柔軟でいい

これからも語り続けるという覚悟をもっている永沼さん。しかし震災から時間が経過し、社会の関心が次第に薄れ、震災を知らない世代も増える中で、伝え方を柔軟に変えていく必要があると感じてきました。

永沼さん

東日本大震災は今もなお、新しい未来を歩いている最中なので、これから自分たちでこうした活動をする職業を作っていく段階なのかなと思っていて。だから今の活動をしつつ、その活動を取り巻く環境をどう整えていくかが大切な時期なんだろうなと思っていますね。

山野さん

語り部活動のやり方を考えたらいいのかなと思いました。私も被爆体験講話を聞いて、碑巡りをして勉強してきたっていうのもあってそこに目がいってしまいがちなんですけど、もっといろいろな伝え方を考えればいいのかなと思って。

永沼さん

具体的に何か“こうしたい”とか“こうしたほうがいいじゃないか”というアイデアみたいなものってありますか?

山野さん

私は、自分で描いた絵を使って講話しているんですよ。地図と写真で語り部デビューをしたんですけど、話しているうちに、ご遺体の写真を出すことに慎重な学校が多かったり、子どもたちが「怖い」と感じてしまって次から「聞きたくない」となってしまったりするのが、活動する中でどんどん気づいていって。そこから私は絵が好きなので「絵を描いて話してみようかな」ってやりだしたら、小学校低学年からの依頼が増えたりして。皆さんがどういう活動をしたらいいかってアイデアはないんですけど、絵本とかを家でコツコツ作って発信するやり方とかもあるのかなって思って。

永沼さん

確かに、そうすると主婦の方とかは活動をやりやすくなりますよね。

永沼悠斗さん
山野さん

そうですよね。なんか発信の仕方も毎回“現地に行く”っていうやり方ではなくなるし。あと、高校生とか大学生のボランティアの子たちは、平和を願った合唱の動画をYouTubeにあげたりしているんですけど、すごい好評なんですよね。

永沼さん

うんうん。ポジティブに学んでいくのはすごく大事ですよね。私も最近次の世代に向けたところも意識しなきゃいけないなと思ってFacebookで語り部活動の様子をライブ配信したりしました。1回目は1,000回以上見ていただいて、2回目も500回ぐらい見ていただきました。見てくださった方からも好評だったんですよね。この方法なら在宅でもできるなと思って。語り部活動をもっと柔軟に多様に考えてもいいんだろうなと思いますね。語るか語らないかの差っていうのは、ほんとささいなことかもしれないと思うんですよ。

山野さん

そうですね。

永沼さん

私の家族も全員被災していますけど、私しか語り部してないんですよ。ちょっとした差みたいなのは、それぞれあるんだろうなと思っていて。でも東日本大震災から10年たってくるとポツポツと話し始める人もいるんですよ。そういったときに、そういう思いも受け止められて、なおかつ伝える方法も、先ほど話したようにいろんな手法があればよりやりやすくなるのかなと思って。

山野さん

そうですね。被爆者の方も60歳とか70歳になるまではずーっと心の奥に閉じ込めて話してなかったのを、やっぱり「自分たちが今、声を上げないとまた核兵器が使われるかもしれない」とか、「人間と核との共存っていうのはできないんだということを、自分たちが身をもって伝えないと」っていうので、「やっぱり語ろうかな」っていう人が出てくるんだと思うので、そのときにいろんな方法があるって大事だなって思いますね。

経験していないからこそ語り継げることを大切に

永沼さんは、ふだん自身が被災した経験をもとに語り部の活動をしています。一方で山野さんは、被爆者から聞いた話を「受け継いで」伝えてきました。

自分が体験していないことを語り継ぐことの大変さについて聞いてみたかった永沼さん。山野さんは「受け継いだ人だからできること」を大切にしていると話しました。

永沼さん

私は経験してしまって「被災者」と呼ばれてしまっているので、なかなか“継いでもらう”というときに、どういうことが大変になるのかなとか、どういう思いなのかなっていうのはすごく気になっていたんですよ。

山野さん

自分の体験じゃないので、相手の体験の聴き取りの段階から“正確さ”っていうのはすごく大事にしていたんですね。でも語り部を始めたとき、やっぱり言葉の重みが当事者じゃないので「伝わってないんじゃなかな」っていう不安があって。「私が話して被爆の体験の大変さって伝わってないんじゃないかな」っていう気持ちがすごい強かったんですよ。

山野さん

へえ・・・。

山野さん

でも学校とかを回るようになったら、マイナスの反応というよりも“年の近い人”っていうので「子どもたちの関心を得やすい」というようなコメントをいただいたりするようになってきて。被爆者じゃない私たちが話す意味もどこかにあるのかもしれないって感じるようになって。そこから“被爆者の人たちだからこそ話せること”と“当事者じゃない人、受け継いだ人だからできること”って何だろうって考えながら活動するようになりました。

永沼さん

なるほど。その話を聞いて“役割の違い”みたいなものがあるんだろうなと思って。私もどちらかというと、年の近い人に伝える依頼のほうが多いんですよ。やっぱり“自分事にしやすい”っていうか。

山野さん

“被爆者の人しか話せないこと”とか“二世、三世じゃないとできないこと”っていう、何か「見えない壁」みたいなものがもしかしたらあったかもしれないなと思って。私のようなほんとに関係のない、ただ長崎にいて勉強してきた人たちっていうのが発信活動していることで「あ、僕とか私もできるんだ!」っていうふうに思えるモデルになっているのかなぁっていうのを最近感じるようになってきました。

絵で伝えることは 被爆者の体験を反すうして追体験すること

対話の最後、山野さんは永沼さんに活動で使うために描いた絵を見せました。その中には、描き直しが必要だと感じているものがあるといいます。

原爆を体験した人に何度も聞き取りを重ねる中で、正確に理解し伝えることの難しさを日々感じている山野さん。永沼さんに伝えたかったことは。

山野さん

きょうちょうど私が講話で使っている絵を持って来たんですけど・・・。

永沼さん

え!そうなんですか。

山野さん

語り部を始めてから絵を描きだしたんですけど、絵を描くと、わかったつもりだったけど実はわかっていなかったことがたくさんあって。その当時の状況とかを想像できていないことがたくさんあるんだなと思って。“絵を描く”ってなってから当時の髪型とか服装がどうだったのかとかを聴いてみると「靴が半分しかなかった、かかとは出ている靴だったよ」って言われて。そういうことは聴き取りのとき全然知らなくて。絵を描こうとしたときに「あ、私わかってない」と思って追加で何回も電話とかで確認したんですよ。

「靴が半分しかなく、かかとが出ていた」という被爆者の話を聞いて、山野さんが描いた絵
山野さん

この廊下の様子は描き直しが必要な絵なんですけど「ガラスがたくさん廊下に散らばっていた」って言われて想像して私が描いたんですけど、本当はもっと「ガラスは分厚く床が見えないぐらいガラスが散らばっていたんだ」って言われて。正確に聴き取ったり、それを伝えたりって本当に難しいんだなっていうのを感じました。

山野さんが床に散らばったガラスの描き直しが必要だと感じている絵
山野さん

絵を描く中で、“被爆体験を聞いて、それを絵に描いてみる”っていう授業を子どもたちとやってみてもいいかなと思ったんです。アウトプットを自分でしてみると“わかったつもりでわかってないところがこんなにあった”っていうのが目で見てわかるので。

永沼さん

山野さんのように“被爆体験を受け継いで自分事にしている”感覚ですよね。

山野さん

そうですね。追体験ではないんですけど、描きながら「あ、違う」「これも違う」ってやり直している作業が、その体験者の方の体験を自分の中で反すうしている状態になって、いろんなことを学べるなって。

永沼さん

私も被災体験だけを伝えると、「自分は体験してないから」ってひと事になってしまうんですよね。“どっかの誰かが経験した非日常を聞いているだけ”みたいに。だから私は震災後の話よりも震災前のありふれた日常を伝えるようにしているんです。震災前の運動会の写真とかを見せながら、児童がどういうふうに地域の方から愛されて育ってきたかみたいなことをお話しするんです。そうすると自分事にしてくれる人が多くて。でも一方で“災害が起こったときに避難しなければ、その子たちは亡くなってしまう”とも伝えるんです。私なんかは当時小学2年生だった弟を亡くしていて、弟が亡くなったのは悲しいしつらいですけど、それと同時に自分が通っていた小学校なので楽しい思い出もいっぱいあるんです。だから、そういう気持ちが両立していますとか。自分の気持ちを素直に細かく伝えるようにしています。

山野さん

やっぱり体験した人は、その強い思いとか印象っていうのが自分の中にあるのを、きっと葛藤とかもある中で勇気を出して社会に発信してくださっているので、きょうお会いしてこうやって活動してくださっていることを聞いて感謝の気持ちしかないです。ご家族を亡くされてすごくつらいと思うんですけど、永沼さんがその中で自分のやるべきこととかできることっていうのを考え抜かれて、こうやって前を向いて生きてくださっていることは本当にありがたいですし、きょうお会いできて本当によかったです。

永沼さん

ありがとうございます。

山野さん

ご縁に感謝しています。

(対話 2022年11月)

全国の語り部たちの対話。特設サイトはこちら☟

この記事の執筆者

福島放送局 ディレクター
佐野 風真
福島放送局 アナウンサー
武田 健太

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