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「災害や戦争を語り続けたいけれど・・・」 仕事との両立に悩む20代の語り部たち

「震災で亡くなった方々が生きた証しを残せるのは、私たちだけ」

東日本大震災の語り部として活動する、宮城県石巻市出身の永沼悠斗さん(28)。津波で弟、祖母、曽祖母の3人が犠牲になりました。2016年から続ける活動にやりがいを感じる一方、今ある悩みを抱えています。就職や進学などで同世代の語り部が次々と辞めていくことです。

今回、NHKが全国の語り部200人以上にアンケートを行ったところ、多くの人が「時間の確保」や「人生ステージの変化」に大変さを感じている実態が明らかになりました。

永沼さんはそのうちの1人に直接話を聞くことにしました。自分と同じように仕事をしながら原爆の記憶を語り継いでいる、長崎市の田平由布子さん(29)です。

同世代の2人が語り合った思いとは。

東北ココから「語り部クロス 〜語り継いでいくために〜」

2月10日(金)午後7:30~7:57放送予定(東北ブロック)
※放送から2週間、NHKプラスで見逃し配信をご覧いただけます

永沼悠斗さん(ながぬま ゆうと・28)
宮城県石巻市出身。震災当時は高校1年生。大川小学校に通っていた小学2年生の弟、祖母、曽祖母を津波で亡くした。自分が生かされた意味を考えたときに、語り部として活動することを決意。2016年から震災遺構の大川小学校で、当時の体験やそこから感じた教訓を伝えている。
田平由布子さん(たびら ゆうこ・29)
長崎県長崎市出身。大学時代から核問題について学び、2018年から語り部として活動を始めた。爆心地から約4km離れた自宅で被爆した吉田勲さんの体験を聴き取り、吉田さんの死後それを県内外で語り継いでいる。

「震災」と「原爆」 語り部を始めたそれぞれの思い

田平さんを訪ねた永沼さん

去年11月、永沼さんは長崎市で活動する田平さんの元を訪ねました。待ち合わせたのは平和公園。平和への思いが込められたこの場所で長崎の原爆について話を聞いたあと、対話の席につきました。

震災と原爆という異なる内容を語り継いでいる2人。どのようなきっかけで活動を始めたのか、話し始めました。

永沼さん

同世代の人って全国的に見てもそんなに多くないなと思うんですね。お互いの仕事の話もしつつお話できればと思います!大学を卒業してからは、どんな形で仕事をしていたんですか?

田平さん

「核兵器廃絶研究センター」というのが長崎大学にあって、大学時代には核問題を学んでいたんです。卒業後も2年ちょっと、そこで働いていました。その中で“被爆体験の継承”を中心にしている研究者の方とご一緒する機会があって、そこから被爆体験の継承を始めました。ただ実は、私はどちらかというと・・・被爆体験の継承そのものに反対の立場だったんですよ。

永沼さん

え!どういうことですか?

田平さん

被爆体験は被爆者ご自身が語るからこそ、言葉に重みや説得力があると思っていたので、体験していない人が「受け継ぎたい」という思いを持って継承したとしても、どこまでその話に重みや説得力があるんだろうって。だけど、その研究者の方が「私たち若者は被爆体験をしていないからと言って継承を放棄していいのか?それは違うと思う」とおっしゃっていたんです。それを聞いて「確かにそうだな」と思って気持ちが180度変わりました。

永沼さん

それで継承の活動を始められた?

田平さん

そうですね。そこから被爆者と受け継ぎたい人が集まる交流会に参加して、そこで初めて私が記憶を受け継いだ、被爆者の吉田勲(いさお)さんという方とお会いして、「継承したい」と思い聴き取りを始めました。

左から2番目:田平さん 右:被爆者の吉田勲さん(2017年)
永沼さん

私は原体験があるのでよくも悪くもですけど、呼ばれたくなくても、そうなりたいと思っていなくても「被災者」になれました。私と同じような思いをしてほしくない。できるだけ命が守られて、安心・安全に暮らせる社会になればいいなと思ってずっとやってきました。それがモチベーションなんですけど、田平さんは実際に活動していくためのモチベーションはどこにあるんですか?

田平さん

被爆者の吉田勲さんという方と初めてお会いして、2回聴き取りに行ったんですけど、初めての聴き取りから2か月半後にお亡くなりになったんです、勲さんが。急病でお亡くなりになって。いろんな方が「まさか勲さんが亡くなるなんて思わなかった」とおっしゃっていたぐらいで。最後の語りを聴いたときも、家の近くまで車で送ってくださったぐらいだから。そのときに「じゃあ、被爆者の亡き後の継承ってどうあればいいんだろう」というのが、私の中での最優先課題になったんです。勲さんが私に残してくださった大きな宿題、これをきちんと解いて勲さんに報告しなきゃなって私は思っているので、そこのモチベーションはすごく大きいですね。

永沼さん

なるほど。それだけ大きなものをもらっていたんでしょうし、全てを聴くことができなかったからこそ、そう思うところもあるでしょうね。

田平さん

そうですね。“被爆者 対 受け継ぐ人”としての交流はできたけれども、“吉田さん 対 田平由布子”として1対1の交流は、結局これからしようと思っているやさきにお亡くなりになったので、勲さんに対する思い入れってものすごい強いんですよね。

永沼さん

すごいな。そのモチベーション・・・。私たちとは違うモチベーションなので。私たち東北の人たちからすれば、今後そういう方が出てくると思うんですよ、継承して語り継いでいくと。東北の次の世代が「継いでいく」ってなったときに、思いだったり価値だったりを伝えてほしいですし、そのときまで伝え続けていてほしいです。

東京都内の中学校で講演する田平さん

語り部と仕事 両立の難しさ感じた就職活動

2年間勤務した核兵器廃絶研究センターを任期満了で退職し、現在は長崎市内のNPOで不登校やひきこもりの子どもたちを支援する仕事をしている田平さん。そして、石巻市内の金融機関で働いている永沼さん。

しかし、就職活動でさまざまな企業の面接を受けた際には、共に語り部との両立に大きな壁を感じたといいます。

田平さん

“被爆体験の継承活動をしながら仕事ができる”ことを目指していたので、就職活動でもいろんなところに履歴書を送ったり、会社を見たりしたんですけど「被爆体験の継承活動もやっていきたい」みたいなことを書いたら「あんた、それは違うでしょ」って言われたんです。そこを理解してくれるような方とか会社というのがなかなか見つからなくて苦労しましたね。

永沼さん

なるほど。じゃあ、そういう経緯があって今の職場はご理解があるということですよね。

田平さん

そうなんですよ。最初から講話との両立がOKだったんです。「規定の時間仕事をしてくれれば、全然仕事と両立しても大丈夫だよ」ということだったので、休みを取ったり、別の日に振り替え出勤したりしながら、県外での講話も行けています。ありがたいことに両立はできていますね。

永沼さん

そういう理解のある職場じゃないと、なかなか難しいですよね。社会貢献活動をやっていくためには、生活もしていかなきゃいけないので、今の世の中だと“働きながらやる”必要がありますよね。私も就職するときには、語り部活動が始まっていたので「こういう活動をライフワークとしてしたいんだ」と面接していたんですけど、理解いただけるところとそうじゃないところ、半分くらい・・・50%ぐらいでしたよね。

田平さん

震災があった土地でもそうだったんですか。

永沼さん

そうです、そうです。震災から時間がそんなにたっていない中で、こういう活動が世の中に必要だというのはなかなか伝わらなかったですよね。だから「あぁ、こんなに世の中の反応ってドライなところもあるんだなあ」っていうのは、すごい感じましたね。

田平さん

そうなんですね。今はご理解がある職場に勤めておられると思うんですけど、ご理解いただけなかったところとかってどんな反応だったんですか?

永沼さん

「学生時代に力を入れてきたことは何ですか?」って言われたときに「震災伝承活動というのに力を入れてやってきた」と言ったところ、「それは働いたあとも続ける予定なの?」と言われて「ライフワークなので、どんな職業になっても続けようと思います」って言ったら、「うちでは、難しいかなぁ」って言われました。

田平さん

「うちでは難しい」と・・・?

永沼さん

そのときに聞いたんですよ。「あの~休日だとか自分の自由裁量でもダメなんですか?」って言ったら「ダメだ」って言われましたよ。

田平さん

なんでだろう。休日とか自由裁量ならOKな気がするのに、それもダメなんですね。

永沼さん

今勤めている職業というのは地元に根ざした企業なので「もちろん、自由裁量でやるのは全然OKだよ」ということで応援していただけて本当ありがたいなと思っています。

両立の大変さ その中で気づいた大切な“価値”

永沼さんと田平さんが直面した、語り部活動と仕事を両立することの難しさ。

NHKが全国で戦争や災害、公害などを伝えている205人の語り部を対象に行ったアンケートでも、「活動を続けていく上での大変さは何か」という質問に対し、約3割の人が「人生ステージの変化」や「時間の確保」をあげました。

永沼さん

平日とかにも依頼はあるんですけど現状だと土日祝日が休みなので、どうしても平日はなかなかやれないところもあって。あと働きながらだと、やっぱり土日にしか対応できないので、その準備を平日にやらなきゃいけないですから・・・。

田平さん

お仕事から帰ったあとですもんね。

永沼さん

そうなんです。それが大変ですね。だからといって、この活動だけで生活ができる状況ではないので、どうしても“生活をしていく”ということを考えると両立せざるを得ないです。

田平さん

長崎の場合は20代後半の世代で働きながらやっている人って知らないんですよね。もう「いたら教えて!」って感じで、本当に知らない。例えば、大学とかで平和活動を一生懸命している若者が「企業に就職しました」ってなって、やっぱりどんどん辞めていくんですよね。私の後輩もそういう子がいて、なんか「もどかしいな」と思うと同時に、道筋を示してあげられない自分もいて、そこは「ちょっと申し訳ないな」と思う気持ちもあります。宮城はどうなんですか?

永沼さん

やっぱり東北全体で見てもそうなんですよ。小学生、中学生だったりで語り部を始めている子たちが、ちょうど高校卒業だったり就職だったりっていうタイミングを迎えて。なかなか活動を継続できている人が少ない。どうしても辞めてしまう人が多いですね。

田平さん

じゃあ、本当に長崎と一緒なんですね。確かに“続けていけない”というところは課題としてあるんですけど、私「仕事と両立しててよかったな」と最近思うようになったんですよ。というのも、今の仕事に就いてから、職員が職員にする勉強会というのがあるんですけど、その勉強会の中で私、講話をしたりとか。

永沼さん

ふーん!

職場の同僚に原爆の記憶を語る田平さん
田平さん

仕事をやっているからこそ、逆に“ひとつの狭い世界にどっぷりつからない”というのがすごく大きなメリットだなと思いました。やっぱり平和とか原爆というのは、それだけに関心がある人じゃなくて、今無関心な人とか、ちょっと興味があるぐらいの人にも届けていかないといけないからですね。そういった意味では、全然違う分野にいる人と交流したり、そこで仕事をしたりすることって、ものすごく価値があるんだなって思いました。

永沼さん

それはそうですよね。確かに大きなメリットな気がします。

「亡くなった方が生きた証しを残したい」 語り継ぐことの責任

東日本大震災からまもなく12年。自分たちはなぜ語り部の活動を続けるのか―。
2人は互いの思いを打ち明けました。

永沼さん

3月11日ってすごい雰囲気が違うんですよ。年明けてから3月っていうのは、なおさら各地でいろんな語り部活動も多くなるんですよ。3月11日に向かって“盛り上がりをつくる”じゃないですけど、そういう空気になるんですよ。一方で、私たち被災者であり遺族というのは、その日を1年で一番の追悼の日にしたいと思っているんですよ。

田平さん

そうですよね。3月11日を過ぎたらどんなふうになるんですか?

永沼さん

なんだろうな・・・なんか言葉だと言い表しづらいんですけど。3月11日を迎えるまでって自分も体験したからそうなんですけど、あの日のことをすごく思い出すんですよ。その日が近づくにつれて「あぁ、あの日だなー」と思うんですよ。それが終わると「あぁ、あの日を迎えて1年たったなあ」と。そして「また1年 生きていくんだなあ」というので、その繰り返しがもう十何年続いているって感じなんですよね。だから自分なんかは、家族のことだったりお世話になった方だったり地域の方々を追悼したときに、この1年、自分が本当にそういう思いをこめて活動できたかなと振り返る日にもなっています。

震災遺構の大川小学校で語り部活動をする永沼さん
田平さん

そうなんですね。

永沼さん

この活動って終わりがないんです。どこまでできたのかなというのは自分のその感覚でしかないじゃないですか。その1年の振り返りみたいなのも11日にするんですよ。そのときに「あぁ、1年がんばってきたな」と。そして「また1年がんばろう」みたいな、そういう感じですね。

田平さん

ええ、ええ。そうですね。

永沼さん

亡くなった方々はどうしても、言葉を持たないので私たちの想像でしかないですし、どう思っていたのかっていうのは、生きていたときの思いを引き継ぐことでしか考えられないですけど。その方々が生きた証しを残せるのは、私たちだけだなあとも思うんですよ。生き続けている限り、その生きた証しを世の中に残し続けるのは使命なのかなとは思ったんですよね。やっぱり被爆者の勲さんの思いを唯一引き継いだというところでいうと、伝え続ける使命、感じられていますよね?

田平さん

感じますね。一番は責任ですね。「私が語り継がなければ、勲さん、本当にこの世からいなくなるな」という、その責任でやっていますね。だから「なんで辞めないのか」とか考えたことなくて。なんか“食事、睡眠、講話”みたいな感じ?

永沼さん

(笑)呼吸するかのごとくってことですよね?

田平さん

そう、呼吸するかのごとく講話しているので(笑)。

永沼さん

わかります、わかります。

田平さん

家のことがあったりとかで、一時的に活動の頻度を減らしたりとかはあると思うけど、それでも辞めることは絶対ないですね。

永沼さん

そうですね。「辞める」っていう選択肢にはならないですね。もう活動自体が自分の体の一部じゃないですけど、人生の一部になっていると思うので、つらいからとか大変だから「辞める」ということじゃなくて、「じゃあ、どうする?」って感じですよね。

田平さん

そうです!そうです!

永沼さん

「そのために何が必要なのか」というのを考えるってことですよね。やり続ける中でよりよい方法だったりやり方だったりを模索して切りひらいていく未来が、後輩たちにとっても必要でしょうしね。

田平さん

うん、そうですね。

永沼さん

一緒ですね。本当に共通点いっぱいありすぎ。

私たちは「1人じゃない」

宮城県と長崎県、そして震災と原爆。場所も語り継ぐ内容も異なる永沼さんと田平さんですが、対話を通し、共感できることがいくつもあることに気づいたといいます。

こうした都道府県をまたいだ語り部どうしのつながりが必要かどうかアンケートで尋ねたところ、8割を超える人が「必要」「どちらかというと必要」と感じていることがわかりました。その理由としては「体験を話し合うことで連帯感が生まれる」「全国への波及効果や後生へ語り継ぐことの強化が図られる」などの声が寄せられました。

田平さん

きょう永沼さんに出会えて思ったのが、「私は1人じゃないんだな」ということなんですよ。やっぱりそこは大きいですよね?

永沼さん

活動のしかたっていうのはすごく似ているところがあったので、それは思いますね。だから、同世代でもいろいろ感じていることだったり、境遇だったり課題だったり価値観だったりはあると思いますけど、もう少し交流する場は必要ですよね。若者がその土地土地で頑張っているっていうのは、あるはずなんですよ。

田平さん

局地的ですよね。長崎なら長崎、広島なら広島、みたいな。

永沼さん

そこもつながりたいですね。

田平さん

お互いに学び合えると思うんですよね。語り方の工夫とか受け継ぎ方の工夫とか、それから仕事との両立の方法もひとりひとり違うだろうから、そこはみんながどうやっているのか共有して、学べるところは学んでいって力にしていく、すごくお互いにとっていいと思いますね。

永沼さん

オンラインでもいいですしね、今の時代だったら。現地で交流させてもらえるのもいいですし。もう少し機会をつくったほうがいいですね。そうすると、お互いの活動の理解も深まりますし。若者がそういう活動を頑張っているんだっていうのを1人の言葉だけじゃなくて、同世代の仲間たちの言葉で“社会に届けられる”となれば、社会インパクトもある。

田平さん

そうですね、大きいです。この世代のネットワークがなかなかないですよね。

永沼さん

確かに。“こういうやり方があるのか!”って、気づくきっかけにもなりますしね。来てなおさら「同じ思いを持っている同世代の方がいる」っていうのだとか、活動するモチベーションを持つことができたのが、ほんとよかったなと思って。

田平さん

よかったです、そうおっしゃっていただけて。

永沼さん

だから、なおさらですけど、モチベーションがもう一つ増えたなとは思います。本当に貴重なお話聞かせていただいて、ありがとうございます。

田平さん

こちらこそ、ありがとうございました。

(対話 2022年11月)

全国の語り部たちの対話。特設サイトはこちら☟

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この記事の執筆者

福島放送局 ディレクター
佐野 風真
福島放送局 アナウンサー
武田 健太

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