だけど、震災は自分に夢をくれた
岩手県沿岸部の大槌町に住む齊藤和希さん(20)。齊藤さんは小学校3年生のとき東日本大震災を経験します。
日常が一変した避難生活の中で、齊藤さんはある夢を抱きます。対話に参加してくれたのは、この春、その夢を叶えたタイミングでどうしても報告したい人がいたからでした。震災当時の担任の先生だった新沼美恵先生です。
10年ぶりの再会となった対話で、この10年の歩みや心境の変化を語り合いました。
(盛岡放送局 ディレクター 山本恭一郎)
東日本大震災で、親や家族、故郷・思い出など大切なものを失った子どもたちの“いまの気持ち”を、誰かとの対話を通じて記録する「いま言葉にしたい気持ち」。
「家族」「生き方」「人生」…個人の名前が出る話などはのぞき、ありのままの言葉を残していきます。
お久しぶりです!
久しぶり。大きくなったね!
20歳になりました。
びっくりだね。20歳だよ。こっちは1年生とか2年生とかちっちゃいころの面影しかずっとない。思い出すのはちっちゃいときのままだから…。びっくりするよね。
めちゃくちゃ俺、怒られましたよね。
怒った。怒った。
宿題出さないし。
あれ?出していたような記憶はあるよ。あ、でもその場でやらせたかもしれないね。
超怒られた。
怒られた?私じゃないのでは?(笑)
いや絶対、美恵先生です。でも本当に会いたかった。美恵先生に。
ありがとうね。覚えていてくれて。
覚えています!あれだけ怒られれば覚えています。
図工の時間に見た震災
揺れが起きたときは、先生が一生懸命テレビを押さえていたのを覚えています。
あのときは図工の時間だったよね。粘土やっていて、すごく揺れて。
俺が「先生、大丈夫かよ」と思いながら、机の下に隠れて。
揺れ長かったよね。
長かったですね。そのあと俺は城山(※学校近くの高台)に登った。
行ったね。そしたら海の方から映画のような地鳴りが聞こえて、茶色い煙も立ち込めてきて、多分それが津波だった。それが押し寄せて来ているのが見えて。私たちの方向から津波が見えたから、子どもたちは私たちと向かい合わせになるようにして。津波が見えちゃうから。
そこまで考えてくれていたのですね。
そう…。結局学校にも来たね、津波。
俺、あのとき危なかった。
家にゲーム機を取りに行きたいって思って。城山を下りた。そしたら、すげえ上から叫ばれて「上がってこい!」って。何?何?何って。怒られているのかなって思っていたらバァーッと津波が来て。危なかった。
そっか。いや、あの時は津波が来るなんて、まさかっていう感じだったよね。
「嫌な思い出だけど、夢をくれたのも震災」
城山の体育館での避難生活を余儀なくされた齊藤さん。
そのとき出会った人たちの姿に、強い影響を受けたと言います。
避難生活中に城山が焼けましたよね。
自衛隊が火を消しに来たじゃないですか、ヘリで。そのあと自衛隊の人が降りてきて、お腹空いているだろと話しかけてくれて、パンをくれた。もうほんとに、2日ぐらいなにも食べてなかったので。ほんとに嬉しかった。この人たちがくれば大丈夫だろうと思って。 それで、俺、自衛隊になりたいと思った。
よみがえる。もともと消防士とか好きだったよね。サイレンの音が聞こえるとすぐ見に行っていたね。
はい。震災前までは消防士になりたかったんですよ。でも震災で自衛隊というものを知って。自衛隊の存在自体は知っていましたけれど、災害のときの救助というよりは、銃を撃っているイメージしかなくて。
でも、あのとき自分たちが本当に絶望していた状況の中で、「ここまでしてくれるのか」というほど生活を支えてくれた。自分もそういう存在になりたいなと思ったし、自分が震災で経験したようなつらい思いをしている人たちの支えになりたいと思ったんです。
そうだったんだ。
高校卒業後、齊藤さんは岩手県内の専門学校に通い、救急救命士になるための勉強を始めます。
一関市の専門学校に進みました。正直、中高時代は勉強が苦手な方だった。でも憧れの仕事だったのでめちゃくちゃ勉強したし、実際に救助の訓練をする実技の教科はクラスでトップでした。
でも、9月に盲腸になっちゃって。入院して1週間学校へ行けなかった。休んだ週にテストが入っていて全部受けられなくて。
で、去年の2月に大きい地震あったじゃないですか。電車が止まって実家から学校に戻られなくて。またテストが受けられなくて、留年か退学ということに…。
親にあと1年でいいから、留年させてってお願いしたのですが、やっぱり家もお金が…。
あら、そうかぁ…。
で、やめちゃった。
そしたら、今は何しているの?
今は建設の作業員やっています。
そっか。もう1回そこの学校に入ることは考えているの?
いや。やっぱり学費がすごいので、それもできなかったです。それで地元の大槌に戻ってきて、土木関係の仕事をはじめて。
当時は生きているのが嫌で、毎日ボーッとしていました。で、あるとき、仕事していて「あ、そうだ。俺は自衛隊になりたかった」って思い出して。「自衛隊になれるよな。なるために今ここで仕事を頑張っているのだよな」と思って。
去年の5月に仕事を続けながら寝ないで勉強して、今年の春から自衛官になる事が決まりました。
えー!
宮城の教育隊っていうところに入って、自衛隊の救急救命士を目指します。
じゃあ、夢が叶うじゃないですか。
震災が無かったら多分自衛隊になっていないですね。震災は嫌な思い出だったし、それは2度と起きてほしくない。でも、自分にとって夢をくれた出来事でもあったし、将来の夢とか目標をくれたものだし。人の命の重みを伝えてくれたのも震災だし。当たり前の生活がどれだけ貴重かっていうのを教えてくれたのも震災。
起きてほしくないけど、自分への影響って面では感謝もある出来事でした。
すごいね。この10年でそんなことを考えてきているわけだ。
「今までは閉じ込めていたけど、伝えていこうかなって」
避難所での経験から抱いた夢を叶えた齊藤さん。
震災に対する思いにも変化が生まれたといいます。
小学校のとき、自分の中で震災はタブーだった。思い出したくないし、自分の中で閉じ込めて話さなかった。当時はとにかく普通の生活がしたかったし。普通の小学校じゃなかったじゃないですか。物資を頂けるのはすごくありがたかったけど、あっちこっち全国から来た人が授業中に視察みたいなこともしていたし。
そのあと何年かたって高校に入ったくらい、普通の生活に戻ったときに、僕のクラスもそうですけど、震災を知らない人が意外といることに気付いて。それを考えたとき、また絶対同じことが起きるって思った。多くの人が津波で亡くなってしまうと。でももし自分の経験を聞いて助かる人もいるなら、自分の経験を今までは閉じ込めていたけど伝えていこうかなって思うようになった。
すごいね。小学校でもさ、もう震災を知らない生徒たちもいるし、もちろん家族で悲しい思いしたっていう生徒もやっぱりいるから。そういう子たちの心にも寄り添いながら、私たちの仕事として震災を伝えることはしていかなきゃいけないから。和希さんは和希さんで、今そうやって考えていることを、これからもいろいろな所で伝えていって、頑張ってほしいなと思いますね。
すごいね。あの和希さんがね。
こんなチャラチャラしていますけど、ちゃんと考えるところは考えている。震災の経験を伝えることは、自衛隊になってからも続けます。
東北ココから 「あの日」でつながる、子どもたち
〔東北地方向け〕3月11日(金) 午後8:00 放送予定