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「あの日のあと、生き方が広がった」|わたし×高校時代の先生

「『震災遺児とはこういう人です』と定義を特定するような節があると、違うよなって思います」

このプロジェクトが立ち上がる際、私たちに率直な意見や気持ちを教えてくれた遠藤洋希さん。
実は、脳腫瘍の最も重いグレードと診断され、2年の余命を宣告されていました。しかし、遠藤さんは絶望することなく病気と向き合い、いまは余命の2年を超えても体調的に問題がない状態です。
そんな遠藤さんが「いま話したい人」として名前をあげたのが、高校2年生以降のクラス担任の先生でした。
卒業後も定期的に交流を続けているふたりですが、コロナ禍でしばらく会うことは叶いませんでした。
「転職」や「闘病」など、話したいことがたくさんたまっているという遠藤さん。2年ぶりに会うことになりました。
(報道局 政経・国際番組部 ディレクター 松村亮)

遠藤さん×NHKディレクター
対話はこちら

遠藤 洋希さん (27) ※愛称ロッキー、ヒロくん

宮城県南三陸町出身。高校1年生のとき津波で父を失った。その後、支援団体「みちのく未来基金」の支援を受けて東京の大学に進学。フランスやオランダにも留学し、エネルギー工学や経営学を勉強。社会人2年目となる今年、大手コンサルティングからITベンチャーに転職した。
森敦子さん

広島県出身・在住の英語教諭。震災後の6月から遠藤さんの母校・宮城県気仙沼高校に約2年赴任した。2013年に広島に戻り、高校の教壇に立ち続けている。卒業後も遠藤さんと交流を続け、脳腫瘍が発覚した時は広島からお見舞いにかけつけた。

2回、死と向き合う機会があった

対話は11月23日に行われました
遠藤さん

もう10年ぐらいの付き合いですかね。

森先生

切れずにずっと一緒にいる生徒はヒロくんだけ。ほんとオンリーワンよ。ほかにも交流が続いてる子もいるけど、優等生を演じていた高校のときから比べたら、一番変わったのはやっぱヒロくん。

遠藤さん

変わってますかね。

森先生

真面目だった。いつもで背筋がピンとしてて、しっかりしてて、ゆるみがない子だった。悪いわけじゃないけど、全部真面目にやってるね、みたいな。

遠藤さん

なんか高校卒業するぐらいから動き回りたいって気持ちはあったみたいで。「みちのく未来基金」から、大学に入るタイミングでもらえる奨学金に最初に行ったとき、そこで抱負みたいなの書いたんです。未だに残ってるんですけど「とにかく動き回る」って書いてあるんですよ。で、その通りに行動しまくった大学生だったんで。

森先生

大学時代にやりたいことを迷わずやるようになって、フランスに行って更に考え方がワールドワイドになって達観した。病気になってさらに変わったと思う。

遠藤さん

病気、大きかったっすよ。

森先生

病気になってからは、勢いが増した。やりたいことは今すぐに、じゃろ?

遠藤さん

そう。震災と病気の2回、死と向き合う機会があったんですよね。1回目が震災で。でも震災って、確かに同級生の子とか流されちゃったし、自分も親が流されて家もなくなったけど、いま思うと自分が死ぬっていう感覚は1ミリも感じなかったんですよ。自分の死とは向き合ってない。ただ、死を身近に感じた初めての機会が震災だったんですよね。

森先生

「日常がない」っていうのを感じた瞬間だった?

遠藤さん

そうです。当たり前と思ってたものが死んだっていう機会が震災で。当たり前が当たり前じゃないんだって、本当に気付けた。で、いつ死んでも悔いが残らないように生きていくのが大事なんだなって考える土台ができたんですよね。

森先生

いわゆる価値観なんだと思うけど、私も気仙沼に行った時に広がったよ。教員しかやってないから、教員の中での物差しなんだけど。

出会いは“クラッカーで号泣”

森先生が働く広島県では、全国の学校に教師を派遣し、交流から学びを得るという方針をとっています。その一環で森先生が2011年に赴任することになったのが、宮城県の気仙沼高校でした。
震災発生の3か月後から担任を受け持つことになりますが、町は復旧作業の真っ最中。生徒たちが置かれた状況を想像し、自分に担任が務まるのか自信が持てず、極度の緊張状態に置かれていたと言います。

森先生

朝、「あいさつしてくれ」って言われて、いや覚悟はしとったけど。教室内でほかの先生に紹介してもらえるかと思ったら廊下にしかいないのよ。「私だけ教室に入るの?」みたいな。それで教室に入ったら、歓迎のクラッカーが鳴ったんよ。あれだけはすっごく覚えている。

遠藤さん

めっちゃ覚えてますよ。バンバンやって。

森先生

びっくりしちゃって、泣いて。

遠藤さん

ぼろ泣きでしたよ(笑)。あのときAKB48が男子の中でブームだったんですよ。前田敦子さんがセンターのときに、「森敦子が来る、あっちゃん来るらしいよ」みたいな。どんな人なんだっていろんな予想してて。クラッカーをバンバン鳴らしたら、めっちゃ泣いてるじゃん…って。

森先生

びっくりと、気持ちが緩んだんだろうね。気仙沼の被害を見てる中で、子どもたちの状況を想像した上で教室に行く。そりゃあ緊張してる中で「なんだこのクラッカー」みたいな。ブワーって泣いて…「森敦子です」って。もちろん震災で被災した子はいるし、それはもう平等にクラスにいるんだけど、生徒もいろんな気質があるじゃん。性格とか、進路とか。いろいろな事情があるけど、震災がなければ、保護者対応とか生活態度において、ほとんどトラブルのないだろうなっていう子が集めてあったんよ。私のために。

遠藤さん

楽しかったっすね。僕らが英語力つけるには圧倒的に森先生だったんですよ。ただ、厳しいっていう印象だった。(笑)

森先生

生徒にも救われて、先生たちにも救われた。「広島にいるようにやってくれたらいいから」って。普通に授業ができた。面談とかもするんだけど、私は勇気がなくて全然(震災のことを)聞けないけど、いいかって言ったら「聞けなかったら聞けなくていい。聞かなくていいから」って。だから甘えてたな。広島に戻ってきてから振り返って、めっちゃ後悔。もっとできただろ私って。今も未熟だけど、どれだけ未熟者だったんだって思うよ。

「生きてりゃいいじゃん ハエいないし」

卒業式での遠藤さんと森先生

生徒をはじめ多くの人間とかかわる職業柄、ささいなことでストレスを感じてしまうことが多かったという森先生。しかし、気仙沼高校から戻ってきて以来、自分の中の物差しが大きく変わったといいます。

森先生

最後に行き着く先は「生きてりゃいいじゃん」っていつも思うんだよ。

遠藤さん

そうなんですよね。

森先生

それこそ授業中にトイレ行くのすら気にする子がいっぱいいる中で、私は「え?好きなだけトイレ行けばいいじゃん」ってスタンスだけど、でも昔の私はね、「トイレは休憩時間に行きなさい」って言ってたんだよ。「休憩時間にトイレ行ったら、今トイレ行かなくていいでしょ」って、言っていた自分をすごく後悔していて。

遠藤さん

何かあったんですか。「生きてりゃよくない?」って思えるようになったのは。

森先生

覚えてる?2011年の7月よ。ハエがいっぱい飛んどった時。

遠藤さん

ハエ、すごかったですね…。がれきやヘドロから大量発生して、飯くえなかったですよ。ここら辺をハエがうわーって飛んで。で、ハエ捕りのための2リットルのペットボトルを用意して。

森先生

ペットボトルに酢を入れるんだよね。そうするともう、ハエで真っ黒になる。授業どころじゃなかった。でもあの時って、ハエにはイライラするんだけど、子どもにも学校にも、何も思わない。でも日常が戻ると、細かい部分が目に付くようになってくる。「あの生徒はどうして言うことを聞かないんだろう」とか「あの先生のここが気に入らない」とか。そういう時に「学校で普通に教えられている今って、あの時と比べて大したことなくない?」って考えると、イライラがスッと収まって。「生きてりゃいいじゃん。ハエいないし」ってなるの。もう基準ハエなんよ。

遠藤さん

僕も働いてると、働き方とか仕事をミスったポカしたっていっぱいあるんですけど。

森先生

どうでもよくなる瞬間ない?大事なんだけど、究極、スッと自分の許せる基準を下げてもいいわけよ。気仙沼高校に行って思ったのはそこ。超神経質なんで基本的に許せる範囲が狭いんだけど、ふっと広がる瞬間がある。この幅におそらく生徒は救われとるし、私も救われている。 教員って人の人生に関わる仕事やけん、病む人多いけど、私が病んでないのは、ふっと「どうでもよくない?」ってなるから。生きているし、みたいな。

遠藤さん

確かに。「これやっても死なないからな」って思うと楽なんですけど、病気になってさらに変わったのが、別に死ぬ、死なないもどうでもよくなってきて。死ぬ時に悔い残ってなきゃいいなと、だけになりました。

生きる原動力となった“恩送り”

入院中の遠藤さん

遠藤さんには、震災後に生きる指針となった言葉があるといいます。病気と向き合う上でも大きな原動力となっているという言葉。人生の転機となった震災と、その後の出会いについて話しが進みました。

遠藤さん

進学を支援してくれた「みちのく未来基金」の長沼理事長が言ってて。「恩は返すもんじゃなくて送るものなんだぞ。だから恩返しじゃなくて“恩送り”をしなさい」って言ってたように俺は記憶してて。自分の中の原動力って、突き詰めていくと“恩送り”ですね。多分返せないから、すこしでも誰かに送っていけたらいいなって。俺は勝手にすごくいいなって思って大切にしてる言葉ですね。震災っていう特殊な大きな転機があった上で、それを機にいろいろな素敵な人たちと出会えてやりたいことを見つけて、やりたいことを追える環境があってすごく幸せになれたんで。なんか自分が今度、恩を送ってあげる側として何かしたいな。

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支援団体代表の長沼さんと遠藤さん

“恩送り”の精神で自分にできることを続けている遠藤さん。この秋、「みちのく未来基金」の理事となり、震災で家族を亡くした子どもたちと関わり続けようとしています。森先生は、そうした遠藤さんの生き方に大きな刺激を受けているといいます。

森先生

ヒロくんは、私の中では世界を広げてくれる人で、ヒロくんの話を私は自分の生徒に還元する。教員ってアウトプットの仕事じゃん?教える仕事でしょ。でもインプットしないと、出すものはないんだ。インプットにはすごい感動がないと駄目で、本だったり経験だったり何でもいいんだけど 、私はヒロくんの震災の体験とか、病気になったうえでの生き方とか、自分では絶対に経験しないさまざまなことをインプットするんだよ。で、それを生徒に出していく。ヒロくんとしゃべると出すものが多くなるんだよ。

遠藤さん

それはうれしいですね。

森先生

命の危険があって、すごく心配するんだけど、病院で会ってもどこで会っても、変わらない。しんどいときは、もちろんあっただろうけど、私が行ったときに変わらないから。お見舞いに行った後、広島の教員は何人かヒロくんを知ってるので「どうだった?」って聞かれるけど、「元気だった」って。「えっ、病気なのに元気だったの?」みたいな。

遠藤さん

それめっちゃ言われました、入院してたら。「何だ、心配して損したわ」って。病気も捉えようですよね。

森先生

もちろん病気は病気だけど、マインドだよね。ポジティブな感じというか。私は自分の世界の延長線上で子どもと接しないといけないから、ヒロくんの話をめっちゃする。「震災後、こういうふうに変わった子がいるよ」って。ヒロくんの広がったところを、自分の生徒に伝えている。

遠藤さん

サンプルとしてはちょっと変かもしれないですけどね。

森先生

その変なのがいい。“変な人”っていないから、あんまり。自分の中で子どもに話すときに「こんなふうに過ごす子もいるよ、だから自由にしていいのよ」っていう。私は厳しくて、型にはめちゃうパターンの先生なんだけど、その私が言う意味があるんだろうなと思う。「自由な子はいていいんですよ」って。

遠藤さん

病気になっても、楽しいことやって、伸び伸びやるのがいいかなって言ってます。一応その中でも、日々の生活リズムとか、食事とか睡眠とか気にしながら、そのぶん、楽しむときには楽しむ。

森先生

ハッピーだと、やっぱりいいホルモンが出るらしいよ。適当なこと言ってるけど。

遠藤さん

そういうことです。そうやって、いっぱい人と会う口実をつくれる。改めて僕は本当、先生としてじゃなくて、純粋に人としてみたいなところで、森先生と出会えてよかったなってめちゃくちゃ思っていて。純粋に楽しいし、面白い。本当に何も考えずに何でも喋れるっていう関係が学校とか全部超えて、本当にいい出会いだったなって。ありがとうございますと、これからもよろしくお願いします。

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