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震災を知らない世代に

3.11伝える「語り部」が見据える先
  • 2024年04月02日

 

3月11日。忘れられない日が、忘れ去られてしまう日が来てはならない。
13年前の東日本大震災で被災し、宮城から福岡へ避難した男性は、ことし元日の能登半島地震の被災地を伝える映像を見ながら「震災を知らない世代へ伝える役割がある」と思いをあらたにしたといいます。

能登半島地震 自分の経験と重ねる

能登半島地震の避難生活の様子を伝えるテレビ

元日に発生した能登半島震災から1か月になろうとしていたことし1月末。

福岡県福津市の齋藤直志さん(55)は、テレビやインターネットのニュースで日々報じられる石川・能登の状況に、胸を痛めていました。

齋藤直志さん

齋藤直志さん
これから寒くなる地域で電気がないというのは本当に厳しいと思います。僕も車中泊しましたが、寒すぎて30分ぐらいで起きるんです。年配の方は夜あまり寝られてないんじゃないかな。災害関連死を極力防げればいいでのですが、避難されている方は相当厳しいと思います。

約700キロ離れた被災地に思いをはせ、その状況を13年前の自身の経験と重ね合わせていました。

13年前に宮城で被災 
故郷を離れ福岡へ

齋藤さんの故郷は、宮城県山元町です。
当時人口1万6000人余りで、いちごやりんごの産地として知られる町です。

生まれ故郷で知り合った妻と結婚し、長男の誕生を心待ちにしていた、13年前の3月11日。
マグニチュード9の巨大地震が発生しました。

齋藤直志さん
聞いたこともないような地鳴りですよね。地面の下から響いてくる。生き物の上に立ってるようで、暴れていた。死ぬ時ってこうなんだなと、変に達観していました。

津波が押し寄せた直後の宮城県山元町

しばらくして地震の揺れは収まりましたが、高台にいた齋藤さんの目に次に飛び込んできたのは、押し寄せる津波によって見慣れた町並みが真っ黒に染まっていく姿でした。

 

断水が続き、自衛隊が設営する風呂に入ることができたのは、2週間後のこと。

途方に暮れながら、大量のがれきを撤去しようとしますが、埋まった釘やガラスなどが邪魔をして、前に進むことはおろか、足を踏み入れることも難しかったといいます。

津波の被害にあった町

行方不明になった友人や親族も多く、大きな喪失感に打ちのめされました。

齋藤直志さん
誰に会っていないとか、あの日は家にいたらしいとか、断片的な情報を仕入れるしかない。当時はSNSがないから、会員制のmixi(ミクシィ)も使うんですが、返事がないんですよ。それが何日も続くと悪い想像をしてしまう。きのうまで身近にいた人が何人もいなくなりました。

震災後の町で

その悲しみもつかの間、勤務先の工場が被災したため、会社から福岡への転勤を命じられました。

慌ただしい中、家族を残してひとり、約1000キロ離れた福岡に避難することになりました。

避難先で感じた異変

翌年の2012年には、妻と長男も福岡に転居し、家族3人での生活が始まりました。

ところが、福岡での暮らしに慣れてきつつあった2013年頃、ある異変を感じ始めました。

当時の様子を語る齋藤さん

齋藤直志さん
台風が接近しているときに見た川の濁流に、今まで経験したことないような胸騒ぎを覚えました。たまたまかなと思ったら、今度は息子がお風呂に入って水しぶきを上げるのも気持ち悪い。食事をしていても、味噌汁が揺らぐ。最後はコーヒーもダメになってきました。

病院で受けた診断は、PTSD(心的外傷後ストレス障害)。押し寄せる津波のフラッシュバック(その時の記憶が突然よみがえる現象)を繰り返し、日常生活に支障をきたしていました。うつ病を併発し、20年以上勤めた会社を辞めざるを得なくなりました。

前を向くため「語り部」に

その後、病院に通うなどして治療を続けていましたが、ある日、齋藤さんは主治医から意外な助言を受けます。

(医師)
齋藤さん、話していった方がいいよ。自分の中に留めておくと、乗り越えられない

当時、報道などでしきりに用いられた「絆」や「頑張ろう!日本」などの言葉に嫌気を感じ、震災をめぐる社会の動きから一歩引いた立場で生きていたという齋藤さん。

被災経験を自分の言葉で語ることは想像もしていませんでしたが、自分自身が前を向くため、胸の奥にしまっていた記憶を伝える「語り部」として、震災と向き合い始めました。

「語り部」として経験を語る

「震災はあまり記憶に残っていない」

約10年前から学生や団体などを対象にした語り部活動を行い、当時の体験談や避難の重要性を説いてきたことに一定の手応えを感じています。一方で最近、あることが気になりはじめました。

講演を聞いた高校生などから寄せられた感想文にも「気になること」を表す部分があります。

寄せられた感想文の一部

「震災はあまり記憶に残っていない」

近年、こうした言葉が目立つようになり、自身の言葉が本当に伝わっているのか、疑問を抱き始めたというのです。
今の10代以下の世代にとって、東日本大震災は映像で見たり大人から伝え聞いたりするもの。

震災を現実に起きた出来事として受け止めて次の災害に備えてもらうには、どうすればいいか。

その難しさに直面しています。

齋藤直志さん

齋藤直志さん
13年の時間の経過ということはこういうことです。例えば、当時は幼稚園生で『何が起きたのかよく分からない』という言葉に全てが集約されている。でも、本来は自分のこととして噛み砕いていかないといけない。また、犠牲者が出ることだけは避けたいんです。

“震災を知らない世代へ” 語り継ぐ

ことし1月末、齋藤さんは、福津市で開かれた防災教室に講師として招かれました。

参加したのは、全員が震災後に生まれた小学生たち。

防災教室に参加する小学生

この日、齋藤さんが意識したのは「正しく学び、正しく恐れる」ことです。

「津波なんか来るはずないって、ここにいる方のほとんどがそう思われてると思う。そういう思い込みが一番危ない。災害時に戻らない、逃げると決めたら戻らない」

当時の写真を示しながら説明する様子

必要以上に怖がらせない。一方で、現実に起きたことはしっかり伝えなければいけない。

言葉を慎重に選びながら、自身の経験や心情を語りかけます。

「戻った友達の奥さんがいます。生後3か月の赤ちゃん連れて海の方の自宅に戻ったんよ。行方不明になっちゃった。だから、避難するってみんな心の中で決めたら、警報が解除されるまでは絶対に戻らないでください」

身近な人たちを何人も亡くした経験から、最後はこう呼びかけて防災教室を締めくくりました。

「みんな友だちが突然いなくなったら嫌でしょ。そうならないように、一人ひとりが生きる努力を継続してください」

“震災を知らない世代”に、13年前の経験と教訓をどのようにして伝えていくか。

試行錯誤を重ねながら「災害が起きた時に自分や大切な命を守るための行動につなげてほしい」と、強く願っています。

齋藤直志さん
災害が起こらないとはもう言い切れない状況になっている中で、どう減災していくかを考えていかないといけない。そうでなければ、東日本大震災で犠牲になられた2万人の方々の命が浮かばれない。伝えていくことも、当時を知ってる人たちの一つの役目だと思います。

参加した子どもに話しかける様子

取材後記

「震災で犠牲になられた方が生きたかった今日を、私たちが生きている」

今回の取材中、齋藤さんが自然に口にした言葉はとても重いものだと感じました。
そうした思いを抱えながら、この13年の日常を過ごしてきたのだと気づかされたからです。

元日に発生した能登半島地震で、石川県では244人の死亡が確認され、3人の安否がわかっていません(4月1日現在)。8000人を超える人が避難所に身を寄せています。

災害はいつどこで起きるか分からない。

家族で避難先を決めておく。
非常食や必要な日用品を荷物にまとめておく。
災害が発生した時には、ためらうことなく避難する。
私もできることから見直したい。

  • 郡司幸耀

    NHK福岡放送局 記者

    郡司幸耀

    2019年入局。
    福島市出身で震災当時は14歳。

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