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光石研 「個性がないことが個性」

たどりついた俳優像
  • 2024年02月29日

     

    俳優の光石研さん。自然体の演技でさまざまな役柄を演じ、名脇役として活躍しています。デビューから46年を迎え、これまで出演した作品は500以上。「気付けば画面にいる」と言っていいほど数多くの作品を支える俳優です。ある映画監督との出会いで演技への向き合い方を大きく変え、「個性がないことこそが自分の個性」とも語る光石さん。たどりついた俳優像とは。
    (聞き手:北九州局・神戸和貴アナウンサー 取材:福岡局・見浪哲史アナウンサー)

    個性がないことが個性!?

    今回、光石さんへインタビューした場所は、ふるさと・北九州市の老舗映画館「小倉昭和館」。おととし火災で焼失し、昨年末、再建したばかりです。かつて舞台挨拶などで何度も訪れ、光石さんも再オープンを心待ちにしていました。
    まだ真新しいシートに腰を下ろし、じっくり話をうかがいます。

    (神戸)
    光石さんの役柄を拝見していると、光石さんがドンと出てくるというよりは、いい存在感・アクセントを残しているという印象があるんですけど。俳優としての理想像みたいなものはありますか?
    (光石さん)
    理想…そうですね。自分にできるものって、身の丈に合ったものしかできないですから。バランスよく、無理せず、監督の意向になるべく忠実にやりたいっていうのが第一で。いただいた役を真摯(しんし)にやるということ。それだけですよね。
     

    小倉昭和館の客席でインタビュー

    (光石さん)
    ぼく、漁師の役をやったときに、現場の漁師の人と一緒に火にあたっていたんですよ。そしたら助監督さんが呼びに来て、「光石さん、光石さん」って。その火にあたってる4~5人の漁師さんの顔をひととおり、ぱっと見て。僕もそこにいたんですよ?ひととおり見て、また行っちゃったんですよ。「光石さーん」って。僕ここにいるのに(笑)。それで、「ああ、いますよ」と言うと、「なんだもう、漁師の役を着こなしてらっしゃるから」っておっしゃったんです。それはもう、ものすごく褒めことばと思うんですよ。
    (神戸)
    完全に着こなして。
    (光石さん)
    漁師さんになじんでね。でも例えば、高倉健さんだったら、にじみ出る個性みたいなものがね。どんな衣装着ていても、高倉さんは個性がぶわっと衣装を越えて、にじみ出て火にあたってらっしゃると思うんですよ。助監督さんもバッときたら「高倉さん」ってなると思うんですけど。僕は埋もれちゃってるんですよね(笑)。それはよくもあり、悪くもね。たぶんものすごくいいことでもあるんですけど。
    なんというか、「個性なき個性」といいますかね。そこが身の丈に合った僕だと思いますよ、ちょうどいいぐらいの。

    いきなり主演デビュー 俳優の世界へ

    光石さんの役者人生が始まったのは、17歳の時。高校の同級生に誘われ、映画「博多っ子純情」のオーディションへ参加すると、主人公の郷六平役に抜てきされます。演技未経験ながら、いきなり映画の主役で俳優デビューを果たしました。

    (神戸)
    高校生でいきなり主演映画っていうのもすごい話ですね。
    (光石さん)
    そうですね、今考えたら。
    いまだに、博多の街を歩いたりすると、「おお、六平!」って、商店のおじさんとかに声かけていただけるんですよね。若い頃はそれがちょっと気恥ずかしいというか。いやいや、もう僕は「博多っ子純情」だけじゃなくて違う作品も今はたくさん出てるんだぜっていうふうに思っていたんですけど、今となってみれば、本当に大きな宝物をいただいたんだなという思いは常々していますね。
    (神戸)
    俳優の世界の中で、どういう俳優になりたいとイメージされていたんですか?
    (光石さん)
    うーん、ある種、職を選んだんですよね。就職したみたいな。ちょっとことばは悪くてみなさんに残念がられるかもしれないけど、その思いもちょっとあったんですよね。高校を卒業して、みんなどこか会社に入るのと同じように、僕も俳優という職業を選択して、職業として選択して(俳優の世界へ)入ったって。今となってはそう思うんですよね。
    (神戸)
    一発、大スターになってやる!みたいな、そういう入りではなく、1つの就職先として?
    (光石さん)
    そうですね。ここだったら自分の居場所があるといいますか、そういう思いがしたんでしょうね。

    生まれ育った黒崎の街

    光石さんのふるさと・北九州市は、製鉄所を中心に栄え、「鉄の街」として知られた大都市です。生まれ育った黒崎地区は市の西部にあり、労働者や買い物客など多くの人でにぎわっていました。

    JR黒崎駅から伸びる商店街を歩きながら

    (神戸)
    商店街っていうのは、黒崎の街の中でどういう場所なんですか?
    (光石さん)
    黒崎駅を中心に放射状に商店街があって、本当に狭いこの一角なんですけど、商店やら何やらがひしめき合っていた。僕は1961年生まれですけど、1960~70年代はたくさん人が集まっていましたね。映画館もたくさんあって、ゴジラとか若大将シリーズとかを見に行っていました。

    黒崎で小学校から高校までを共に過ごした光石さんの幼なじみ・堀敬冶さんに、少年時代の光石さんについて聞くと…。

    幼なじみの堀敬冶さん

    (神戸)
    学校だと、光石さんはどういう存在だったんですか?
    (堀さん)
    ばかみたいにふざけよったけね。形態模写っちゅうか、そういうのがうまかった。コマーシャルをうまーくアレンジして、それを子どもたちの前で披露するんだよ。合唱部やったから、合唱部の合宿で。
    (神戸)
    光石さん、そんなことされていたんですか?
    (光石さん)
    みんなちょっと催し物を見せたりするんですよね。それで寸劇したりして、僕らも何かやったりしていたんですよ。
    (神戸)
    人前で何かするのが好きだった?
    (堀さん)
    おもしろかったよ。恥ずかしいっちゅうことば知らんのよな。
    (光石さん)
    そんなことないよ、恥ずかしがり屋やったよ。
    (堀さん)
    うそ言いなさいって。

    そして、光石さんが特に思い出深いという商店街近くの公園へ。この場所で、黒崎を行き交うさまざまな大人たちを観察して育ったそうです。

    思い出深い三角公園で 

    (光石さん)
    ここはね、三角公園っていいまして。公園がちょうど三角形の形になっている。いろいろ道が交錯している中で、ここだけポンって公園で。ここに自転車で来て、止めて遊んだりするようなところでした。
    本当に生活圏の中の一部で、いわゆるお酒を飲むような店もいっぱいありますし、女性がお相手するようなお店もいっぱいありましたから。生活圏の中に、公園の横にそういうものがあったりして。わりと分け隔てなくこの街の中にそれがありましたから、いろんなものがごちゃ混ぜになっていた。
    それでこの街にはいろんな職種の方がいらっしゃって。サラリーマンの方から労働者の方から、ご商売の方とか。アウトローの方もいらっしゃいましたし。
    (神戸)
    光石さんはそんな大人たちをどう見ていたんですか?
    (光石さん)
    なんですかね、大人たちの素の部分といいますか。朝はシュッとして出勤している人が、帰りはどこかで1杯お酒を飲んで酔って帰る姿とかも見ていました。狭い街ですけど、そこでひしめき合っている大人たちを僕ら子どもは見て育ったんですよね。そういう意味では、いろんな大人たちの生態を見てきたような気がします。

    転機となった30代

    俳優という職を選んで高校卒業後に上京した光石さん。「おしん」や「男はつらいよ」など話題作に出演し、順調なスタートを切りますが、30歳を過ぎた頃、俳優としてのキャリアに行き詰まりを感じるようになります。

    (光石さん)
    如実に仕事が減ってきたんですよね。もう本当に手に取るように。なんですかね、プロ意識に欠けていたんでしょうね。いいお仕事ばかりじゃなかったですから、何でこれやんなきゃいけないんだって思うようなものもいっぱいやりましたしね。だけどそれはやっぱり職業ですから、こういうこともやるんだっていうふうには思ってましたけどね。
    (神戸)
    その時の生活、収入はどうされてたんですか?
    (光石さん)
    その時は、事務所のバンス(前借り)。
    (神戸)
    いい言い方ですね(笑)。
    (光石さん)
    事務所のバンスと、妻のほうの貯金を取り崩してとか。そんなだったと思いますよ。
    当時のマネージャーとも相談して、どうにかはい上がる何かないかと。あの人に会いに行ったらどうですかって言われたら会いに行ったり、台本書いてみりゃどうだって言ってくださる人がいたら台本を書いたり。いろいろそんなことをやってましたね。
     

    そんな状況を変えたのは、同じ北九州市出身の映画監督・青山真治さんとの出会いでした。

     

    小倉昭和館  青山真治監督の名前が刺しゅうされた客席

    (光石さん)
    あそこに名前がある、青山真治監督ですね。(※小倉昭和館の客席にはゆかりの深い俳優や映画監督の名前が刺しゅうされている)
    (北九州市)門司出身の青山真治監督が「Helpless」っていう映画を撮るからって、舞台は北九州だし、ことばも北九州弁だからっていうので(役を)やらせていただいたりね。その辺ぐらいから、青山さんとか岩井俊二さんとか年の近い監督たちと深夜ドラマをやったり、やれることが増えてきまして。そこからちょっとずつお仕事をいただけるようになったんですよね。

    青山監督の映画「Helpless」(1996年)では、物語のキーマンとなるヤクザ役を演じます。それまで経験したことのない役柄でしたが、北九州弁でまくしたてる演技で存在感を発揮。その後、青山監督の作品に欠かせない俳優となり、演技への向き合い方を変えていきました。

    (神戸)
    「Helpless」での役柄がうまくはまったというか、評価されたのはどうしてだと思いますか?
    (光石さん)
    僕は八幡、黒崎で生まれて、青山さんは門司の方。ちょっとだけことばは違うんですけど、ほぼ土台は一緒ですから。台本に書いてある標準語をしゃべるよりは全然やりやすかったですし、生っぽさっていうか土っぽさっていうか、そういうのが出て、そういうことも評価された。普通に標準語でやるよりは武器になるっていうかね。よその街で育つよりは、いろんな職種、業種の人を僕は見てきたつもりでいましたから。それが本当に演技ソースになっているのかもしれない。「Helpless」でそういう役がやれたっていうのも、そうなんでしょうね。

    変わっていく俳優像

    (神戸)
    光石さんの中でも新しい感覚とか、手応えみたいなものはあったんですか?
    (光石さん)
    いやー、その手応えはないですね。ただただ毎日毎日、夢中で。ただ、それまで20代の頃に僕が思い描いてた俳優とはみたいなものが崩れ落ちる感じはありましたね。
    (神戸)
    青山さんのどういう作り方でそういうふうに?
    (光石さん)
    具体的にこうだからこうだとは言えないんですけど、映画見たときもそう思ったし、現場でもそう思ったし。極端なことを言うと、ここのシーンであなたが泣こうが笑いながらセリフを言おうが、関係ない。それはあなたが考えてやってみてください、こっちは映画を撮りますからっていうようなことを感じた。そんな小手先のことでびくともしないような映画を撮ってるんですよっていうようなことを僕は感じたんですよ、青山さんの映画で。その辺ぐらいから思考回路というか、俳優のアプローチみたいなものが変わってきたんですよね。
    (神戸)
    それまで、光石さんの中の俳優とはこうだっていうのはどういう感じ?
    (光石さん)
    それはやっぱり、自分が演技とか何かをすることによって大きく映画がよくなるとか。よくほら、若い俳優さんに「お前ちゃんと爪痕残して帰ってこいよ」とかって。そういうことがすでに、俳優のエゴであってね。俳優なんて映画に関わっても何者でもないっていうか、何の力にもならないんじゃないかって、だんだんそういうように思い始めたんでしょうね。ただほんと、パートの1つだって。
    (神戸)
    それまでは、光石さんも爪痕を残そうとか?
    (光石さん)
    もちろんもちろん。そんなこと思ってましたよ、若い頃は。
    (神戸)
    青山真治監督と出会って気持ちが大きく変わって、その後の俳優業への取り組み方にもかなり影響はあったんですか?
    (光石さん)
    とにかくいい映画を撮るため、いいワンカットを撮るために僕らは参加しているっていうような気持ちになりました。自分がどうとかっていうことじゃなく、監督がこうしてくれっていうことをとにかく忠実に守りたいということですよね。監督がこのセリフはこういうふうに言ってくれって言ったら、それをちゃんと忠実にやろう。それがこの人の作品のためだって。
    (神戸)
    ひょうきん者の光石少年としては、その俳優の姿、やり方は満足できるものだったんですか?
    (光石さん)
    でも青山さんみたいな監督だけじゃなく、もっと本当に自分を出してくれって、コメディータッチのものもいっぱいありますから。そういうときはね、昔の光石少年が顔を出してきますから。それはそれで楽しんでますし。フレキシブルにというか、そういうふうにできたら楽しいですよね。
     

    光石研さん

    個性なき個性で演じる

    去年、主演した映画「逃げきれた夢」では、定年間近の教師が家庭や健康に悩む淡々とした日々を演じました。光石さんを敬愛する二ノ宮隆太郎監督が「個性なき個性」を最大限に生かそうと、光石さんのために脚本を書き下ろしたこの作品。光石さんも、作り込まず、ありままの自分で役に臨みました。

    (神戸)
    役柄としては同世代の学校の教頭先生でしたが、こうやって演じようと意識したことは?
    (光石さん)
    本当にただ普通のおじさんの生活を、どこにでもいるような市井の人をやりたいっていうようなことは監督と相談したんですけどね。ここは最後の見せ場のシーンだとか、そういうことはやりたくないなってちょっと思っていましたね。
    (神戸)
    普通の人を演じる。
    (光石さん)
    はい、普通の人を。たまたま彼の日常の何日かにスポットを当てたっていう。信号待ちしているときに、そこに立ち止まった男にたまたまスポットが当たっちゃったみたいな。たまたま彼の日常の何日間かにスポットが当たったっていうような感じじゃないかなと思ったんですよね、この映画は。
    (神戸)
    何かこう盛り上げるじゃないですけど、ここはこう演じて演じてってやるんじゃなくて、普通に淡々と。
    (光石さん)
    はい、なるべく。
    (神戸)
    そのほうがなんでいいんですか?どうしてそういうふうに?
    (光石さん)
    いや、そういう映画だと思ったからですね。二ノ宮監督が書かれた台本が、そういう映画ですよねっていうように伺って。
    でもやっぱり役者なんで、どうしてもここはちょっと力が入るなみたいなところはありましたよね。だからそこはちょっと僕の反省点でもあるんですけど。もっと何もしなくてもよかったかなって思う。
    (神戸)
    そうなってくると、本当に自分自身が目立つとか、爪痕残すなんかはもう置いてけぼりっていう。
    (光石さん)
    はい、そうなんですよね。

    (神戸)
    そんな光石さんは、今後どういうお仕事をしたりとか、どういう役をやる俳優になりたいですか?
    (光石さん)
    お仕事に関しては、これはもうオファーしていただかないとどうしようもないですから。そのオファーをいただくためには、いつも現役でいたいっていう気持ちはありますね。だから、いわゆる僕のサンプル、作品をいっぱい世に出して、光石はこういうのできんだとか、年取ったらこんななっちゃったんだとか。じゃあこれで使ってみようっていう、いろんな味のポテトチップスを出しとかないと。そうしたら、「これとこれ掛け合わせたポテトチップスを光石で」みたいな。なんでポテトチップスで例えたかわかんないですけど(笑)
    もう本当に、いただける仕事を一生懸命やる。オファーしていただけるように、ずっと現役を続けていたい。あとはとにかく健康ですね。健康じゃないと、現場に行けませんから。

    担当プロデューサーからひとこと

    地元・黒崎を歩くロケでは街の人に次々に声をかけられ、脇役どころか完全に主役だった光石さん。その後に登壇した映画祭のイベントでは「光石パパお帰り」という歓声が飛び、ファンからサイン攻めにあっていました。いまの時期は連続ドラマを複数掛け持ちし、出演映画も上映中で多忙な日々を送る光石さん。ファンからも映画関係者からも愛される名優は、いま62歳。これからどんな味のポテトチップスで私たちを楽しませてくれるのか?その活躍から目が離せません。
    (プロデュース担当・井原陽介アナウンサー)

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