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今「折り鶴」の心を伝える

佐々木禎子の兄が伝える平和をつくる「思いやりの心」
  • 2023年08月07日

キャラメルの包み紙で折られた小さな折り鶴。広島市の平和公園にある 「原爆の子の像」のモデルで知られる佐々木禎子さんがつくったものです。被爆78年のことし、福岡県那珂川市に住む兄の佐々木雅弘さんは、妹の折り鶴のメッセージを今こそ世界に伝えようとしています。

兄が語る妹、禎子と折り鶴

今年6月。
広島市で開かれた「被爆証言者語り継ぎの会」に佐々木雅弘さん(82)が参加しました。雅弘さんの妹の禎子さんは、2歳のときに被爆。10年後に原爆病による白血病で亡くなりました。 闘病中に早く良くなるようにと願いを込めて折った折り鶴は、平和の象徴とされています。
実の兄である雅弘さんは妹を語り継ぐ活動を20年以上続けています。

語り継ぎの会に参加する雅弘さん

雅弘さんは朗読の中で、自身と妹が被爆したあの日を振り返ります。

昭和20年8月6日午前8時15分。
箸を持った瞬間でした。
まるで太陽が裂け、地球がわれたのではないかと思わせるほどの衝撃と爆風が全てを破壊し、一瞬にして町は平たくなっていました。自宅は爆心地から1.6kmの所にありました。禎子はかすり傷ひとつ負っていませんでした。

戦後の復興の中、裕福な生活を送っていました。父は床屋の腕のいい職人で、家も当時では珍しい3階建て。店も繁盛していました。できるかぎりの贅沢をして、記念写真を撮ったこともありました。

しかし、生活は一変します。
父親が近所のクリーニング店に頼まれて連帯保証人を引き受けてしまい、その後、夜逃げ。
借金を肩代わりすることになり、裕福だった生活から一瞬にして貧乏になりました。

佐々木禎子さん

そんな状況の中、妹・禎子の病気が発覚します。被爆から10年がたっていました。
お金がない、食べるものもないような危機的な状況だということを禎子は知りながら入院したのです。闘病中、禎子は家族に心配かけまいと「痛い」「苦しい」といった弱音は吐きませんでした。病気は被爆によるものだとわかっていても、原爆や原爆を落としたアメリカを恨むようなことは口にしませんでした。

父から「折り鶴」を千羽折ると願いが叶うという話を聞いた禎子は入院中におよそ1600羽の折り鶴をつくりました。
自分の白血病がよくなりますように、家族が幸せになりますように。願いと祈りが込められたのです。

禎子さんが入院中に折った折り鶴

「お母ちゃん、泣いちゃあいけん、禎子、大丈夫じゃけ、泣かんで」息は弱いが、禎子が最後の命を振り絞って「みんな来てくれたんよね」と精一杯気を遣おうとしている。
禎子は病室を見回して「みんな、ありがとう」
そう言うと母に抱かれる赤ちゃんのようにそのまま眠るように目を閉じました。

禎子が亡くなって、貧しい家の状況を知った同級生が
「禎子の墓をたてよう」と動き出しました。
その動きは、原爆で亡くなった子どもたちの霊を慰め平和を築くための像をつくろうという運動に広がりました。
募金は全国から集まり、広島市に「原爆の子の像」が完成したのです。
今では多くの人が訪れ、折り鶴を寄贈しています。

原爆の子の像(広島市)

広島から福岡へ

像の完成と共に禎子の話は大きく取り上げられました。父は、毎日押しかける報道機関の取材対応に追われました。
そんな中、ある噂が父の耳に入ったといいます。

「佐々木家は禎子を売り物にしてお金を稼いでいる」

貧乏な生活は続き、取材などの対応に追われ、客はいない、どうやって生活したらいいのかわからない、そんなときに聞かされた言葉でした。

その言葉をきっかけに一家は逃げるように福岡へ移り住みました。ひどいことを言われてまで禎子を語る必要は無い。口をつぐむことを決めました。それから40年間、家族が禎子について誰かに語ることはありませんでした。
その一方で、佐々木家への取材もなく次々に出版される本。家族の思いとは別のところで、禎子の話だけが独り歩きしていたのです。

再び語り始めた佐々木家

再び語りだすきっかけになったのは、2001年に原爆資料館で開かれた、禎子をテーマにした企画展でした。
父はいつも「本とかマスコミで取り上げられるほど、簡単な言葉に表せられるほど、禎子との関係はなまやさしいものではない、だから話したくない」と言っていました。
遺品がある企画展だからこそ真実を語ることができる、
佐々木家の義務と責任を果たすことができる、と家族は再び禎子のことを語り始めたのです。

父の言葉に動かされ、兄として、入院中に禎子がいかに苦しんだかを、カルテや禎子が残したメモや記録をもう一度見返して分析しました。
禎子は本当にすごい子だなと思ったんです。苦しみをこらえて、わがままも一人で我慢して。こんな12歳の子がいるだろうかと。親が苦労していることをわかって、心配をかけさせてはいけないと弱音を吐かなかったんです。禎子が残した、自分の立場を超えて人のことを思いやる「思いやりの心」。これは普遍的なものだと思って語っているんです。

「思いやり」は立場を超える力に

雅弘さんは、禎子さんが残した「折り鶴」を世界各地に送り、人を思いやる気持ちが平和につながると訴えてきました。それを実感した出来事がありました。

自宅に飾られた写真を紹介する雅弘さん
雅弘さんとクリフトン・トルーマン・ダニエルさん

雅弘さんの自宅に大切に飾ってある写真です。
雅弘さんの右側に立つ男性はクリフトン・トルーマン・ダニエルさん。原爆投下を承認したアメリカ元大統領の孫です。

原爆を投下したアメリカと被害を受けた広島。
雅弘さんは「違いを超えて新しい未来のために何ができるか話し合いたい」と呼びかけました。
その呼びかけにダニエルさんが応じ、被爆地・広島への訪問が決まったのです。

ダニエルさんが初めて広島を訪問(2012年)

2012年。立場を超えたこの訪問は、当時世界に報じられました。

トルーマン大統領の孫の立場と私の立場と真逆ですからね。だから2人が一緒にいるということは認め合っているということ。

「ノーモアヒロシマ」といったら「リメンバーパールハーバー」っていうのがいまだに返ってくる。これが現実ですよ。

(そうしたことを超えて)違いを知りあってお互いを認め合う「思いやりの心」が大切なんです。

今、注目される「折り鶴」

広島の原爆投下から78年。
ロシアによるウクライナ侵攻が長期化する中、核兵器の脅威が再び高まっています。

G7広島サミットで集まった首脳たち

今年5月。広島で各国の首脳たちが集まるG7広島サミットが開かれました。

孫と一緒に折り鶴を披露する雅弘さん

雅弘さんは孫と共に、サミットの一環として開かれたプログラムで、各国首脳の配偶者などに禎子さんが折った「折り鶴」を披露し、立場を超える「思いやりの心」を国のリーダーたちにも訴えました。

広島サミットに電撃的に訪問したウクライナのゼレンスキー大統領も平和公園を訪問。その後、原爆資料館も視察し、被爆者と面会しました。

平和公園を訪問したゼレンスキー大統領

ゼレンスキー大統領は資料館で禎子のような子どもたち、生きたまま焼け焦げて死亡した大人たち、もろもろのものを見ておられて、自分の国で起こっている現実と重ね合わされたと思うんですよ。
だから、なお一層のこと戦争というのは早くやめなきゃいけないということは絶対に思って帰られたと思います。

雅弘さんは戦争を終わらせる力を持つリーダーたちに、戦争がもたらすものは何かをわかってもらいたいと強く感じました。

語り手は次の世代に

雅弘さんは今年82歳。
息子に禎子さんを伝える語り手を引き継いでいます。
今年6月の語り継ぎの会では親子で共演しました。
雅弘さんの朗読に合わせて息子の祐滋さんがギターで演奏します。

雅弘さんと一緒に語り継ぎの会に参加した祐滋さん

この日は、福岡に住んでいる雅弘さんと東京を拠点に活動している息子の祐滋さんが一緒に講演する貴重な会になりました。
祐滋さんは被爆2世として自分が感じた不安からメッセージを発信していきたいと話します。

祐滋さん

僕は戦争や被爆の経験をしていないので、父じゃないと言えないことはまだまだあります。しかし被爆2世として自分が感じた不安から何かメッセージを探していきたいと思っています。
今が次の世代にバトンを渡す大切な時期だと思うんです。被爆体験を語れる方が年々減ってきているという現実がある中でこれからの世代に受け継ぐために、禎子ストーリーを通じて伝え続けていこうと思います。

雅弘さん

私にもし、万が一のことがあっても祐滋が続けてくれます。私と一緒に活動して同じ心を伝える気持ちが出来ていますので、自然に世代交代できています。今は安心して任せています。

思いやりの心をつなぐ

G7広島サミットを終えた「原爆の子の像」の前には、多くの外国人の姿がありました。

原爆の子の像を外国人に説明する雅弘さん

雅弘さんは自ら英語で話しかけます。
「She is my sister. I'm old brother, Masahiro.」
(彼女は私の妹です。私は兄の雅弘です)

あなたは被爆者なのか、生き残ってどれくらいなのか。

集まった人たちは、雅弘さんに次々に問いかけ、雅弘さんの言葉に耳を傾けていました。

原爆の子の像を見つめる雅弘さん

平和公園に穏やかな時間が流れる中、雅弘さんは、原爆の子の像と背後に広がる空を仰ぎ見ていました。
国と国、人種や宗教を超えて他人を思いやる心。
「禎子、見とってね」
取材の最後、雅弘さんは妹に語りかけているようでした。

  • 立花 紗希

    福岡放送局 記者

    立花 紗希

    令和3年入局 長崎県出身

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