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鮎川誠のロックな生き様

ロックに、ふるさとに、最愛のパートナーに。一途に駆け抜けた生涯
  • 2023年02月28日
    鮎川誠さんと一緒に(深町さん提供)

    1月29日、1970年代から日本のロックミュージックをけん引してきた「シーナ&ロケッツ」のギタリスト・鮎川誠さん(74)が、膵臓がんのため亡くなりました。70年代の福岡発の有名バンドと言えば「海援隊」や「チューリップ」が知られていますが、久留米市出身の鮎川さんは、日本のロックの土台をつくり、一途に愛したレジェンドとして語り継がれています。
    今回、その鮎川さんを「僕にとっての音楽の父」と呼ぶほどつきあいが深かった音楽プロデューサーに" 知られざる"エピソードを話してもらいました。

    鮎川さんと30年来の付き合いがあった深町健二郎さん(61)です。自身もロック愛し、現在は、福岡を拠点にライブなどを企画するプロデューサーやラジオのDJとしても活躍しています。

    長年親交があった深町さん(左)と鮎川さん(右)

    憧れの人

    深町さんは中学生のころから鮎川さんの筋金入りの大ファン。インタビューをお願いすると、鮎川さんが関わった多くのCDを持ってやって来てくれました。この中には「シーナ&ロケッツ」を結成する前に所属していたバンド「サンハウス」のファーストアルバム『有頂天』も。「かなりやられた1枚でした」と懐かしんでいました。
    鮎川さんとの直接の出会いは大学時代、上京先の東京でのことだったと言います。

    ロック仲間のメンバーから、きょうシナロケがスタジオでリハーサルしてる所に行くけどお前も行くや?と言われて。間近で見られるならぜひ見たいっていう話になって、それで初めて一言二言、あいさつだけ交わさせていただいたというのが最初の出会いでした。
    トレードマークにもなっている黒のレスポールギターをストラップで肩から下げて。片手にはマグカップにコーヒーを持って。それでアイコンタクト的にね、こっち側にニコって笑ってくれる。もうそれで撃ち抜かれますよね。うわ、かっこいいこの人、みたいな。そしてその横にはシーナさん(妻でボーカリスト)がいるわけですよ。本当にロックスターのアイコン的な2人がもう目の前にいて、もう本当に委縮したし、感激したっていう感じですよね。

    “鳥肌が立った”弾き語り

    相棒のレスポール1本で舞台に立つ鮎川さん

    その後、音楽イベントのプロデュースをするようになった深町さんは、鮎川さんと仕事を共にするようになりました。イベント参加を依頼すると鮎川さんは『健二郎がやりよるイベントやろ?』と、後輩の頼みを二つ返事で引き受けていたとのこと。
    特に深町さんの脳裏に焼き付いているのが、2016年に起きた熊本地震での出来事だったと言います。

    地元九州ということもあるし、何かお手伝いできないかなと思う中で、チャリティーコンサートを思いついたんですね。たまたま旧大名小学校(福岡市中央区)にまだ体育館があるときで、あそこを使ってなにかできないかと。それで鮎川さんにも声をかけさせていただいて。
    ただ、チャリティーでもともと予算がない中で、鮎川さんに無茶ぶりしたのは、バンドじゃなくて、鮎川さん1人でお願いできませんか、と。いわゆる弾き語りですよね。
    だけど、鮎川さんってロックバンドの人やし、バンドというものへのこだわりが非常に強い人なんですよね。1人でステージに立った鮎川さんなんて見たことないんですよ。
    これは下手したら断られるかなと思ったら、案の定、今までは何をお願いしても大体ポジティブに『OK、やろう』とおっしゃっていたんですけど、そのときだけはちょっと返事が滞ったんです。さすがにこれは鮎川さんちょっと難色を示してるなと思ったんです。
    でも結果やってくださったんですよね。それはもちろん熊本・大分のために自分が少しでも役に立てるならと言う気持ちが強く働いたと思うんですけど。レスポールと、マーシャルのアンプとマイクしかない中で、鮎川さんのむき出しのロックンロールが聴けて、僕はずっと鳥肌が立ち続けていました。今となっては忘れられないステージに。思い出の一つですね。

    原点を愛した

    ロックスターとしての地位を築きあげてきた鮎川さん。ギタリストとしての一面はどうだったのでしょうか。深町さんからはいくつかの逸話を聞くことができました。

    さまざまな技術が発達する今の時代、ギターを演奏する際にそのサウンドを変化させる「エフェクター」という装置を使うギタリストも多くいます。
    それでも鮎川さんは「エフェクター」の類を使わず、ギターと直接つないだ「アンプ」のみで作られた音で、ロックを続けてきたのです。

    それが逆に今思うと、色あせていない理由かなと思いますね。エフェクターによっては、あ、この時代の音、と限定されていくんですけれども、鮎川さんはナチュラルというか、基本的なところしか使ってないので逆にそれは色あせないですよね。そういう意味では、すごくガツンとストレートに刺さる、そういうギタリストでしたね。何か勇気がいることだと思いますね、今思えば。そんなにストレートにやるというのは。

    また、鮎川さんは、友人から借りていたというレスポール1本を40年間弾き続けてきました。

    あの執着がすごいですよね。もうかなり傷んでるんですよ。表面塗装ははげたりしている。それでも、ああ、このギターじゃないと鮎川さんのあの音って出ないんだなあと思っていました。
    やっぱり1つのことをやり遂げることの尊さを教えてもらいました。ふつうはいろいろ浮気じゃないけど、手を出すと思うんですよ。こっちはこんな音が出るし、これはこれで魅力的だな、と。でもまったくそういうところには行かずに、本当に一途な人ですよね。
    ロックにすべてをささげているような、そういう人なんです。プライベートも含めていろいろお話しさせていただいたんですけど、すぐに音楽の話になります。『最近こんなアルバムができた』とか、自分のルーツミュージックのことだったりとか。

    妻を思い歌い続けた

    最愛のシーナさんと鮎川さん(撮影・提供:Chiyori)

    そんな鮎川さんの実直さを語る上で欠かせないのが、シナロケのボーカルでもあり、妻であったシーナさんへの思いです。2015年にシーナさんが亡くなると、それまでにも増して音楽活動にのめり込んでいった鮎川さんの姿があったと言います。

    シーナさんが亡くなった時『シーナから背中のネジを巻いてもらっていた』『それでやっていたにすぎない』みたいなことをおっしゃってたんですけど、逆にびっくりしたのは、シーナさんが亡くなる前以上に、あるときから鬼気迫るほどステージに立ち始めるんですね。特に去年1年間は、鮎川さんの生涯の中でも、過去一番ステージをこなしたんじゃないかというくらいステージに立っていて、これはなんでかなと、僕も最初は意味が分からなかったんですよ。何が鮎川さんをそうさせるのかなと思っていたら『ここに立てばシーナに会える』って何気なくパッとおっしゃったんですよ。シーナさんの存在みたいなものを感じていらっしゃったんじゃないかと。
    なかなかできなくないですか?表には一切自分が苦しいとかつらいとか、病気のことも全く言わずに。ステージに立ったら信じられないくらい2時間でも3時間でも気力を発揮できるわけですよね。
    そうしなければいけないわけじゃなかったと思うんですよ。きっとそうしたかったというか。そういう生き様ですかね。それは誰もが持っているものではないし、僕の知る限りでは鮎川さんしかいないと思います。

    Keep A Rockin'
    鮎川誠の心を受け継ぐ

    ロックに、ふるさとに、最愛のパートナーに。その一途さが垣間見える多くのエピソード。鮎川さんの実直さに刺激を受けたと語る深町さんは今、さまざまな音楽イベントをプロデュースする傍ら、大物アーティストを輩出し続ける福岡を、より音楽の街として発展させるために「福岡音楽都市協議会」の理事としても活動しています。

    鮎川さんはナチュラルな方なので、何かを残そうとか、そういう思いではきっとされていなくて。だけど日本のロックって、どこか換骨奪胎みたいなところがあるんですよ。発祥がアメリカだったりイギリスで発展したりっていう歴史があるように。ある種の「借り物」。でもそれを自分のものにしていく表現力はすごくあるし、自信と誇りをもっていけば、海外とか日本関係なくやれるよねということをずっと体現された方じゃないかと。それを僕らに示してくれて、しかも死ぬまでやり続けることができるんだということを身をもって教えてくれた。

    僕にとっての音楽の父親です。それくらい、離れていても直に会っても常に、僕の背中も押してくれるし、鮎川さんは鮎川さんで、その存在を活動の中で証明してくれたので。とても足下にもおよばないけど鮎川さんのずっとおっしゃっていた『Keep A Rockin'』。ロックを続けていくことの尊さはずいぶん僕もたたき込まれたので、同じことは全然できないけど、別の形で福岡の地で少しでも継承できたらと思います。

    鮎川さんの言葉にあるんですけど『ロックは自分が感じて、自分が極めること、だから自由でいいんよ』と。それってもはや音楽だけじゃないですよね。ある種の生き様というか。そういうことを音楽によって達観されていたようなところがあると思います。そっか、迷ったりすることがあるけど、自分が感じて、もっと自由に表現していけばいいのかなって。これからも鮎川さんの教えてくれた座右の銘じゃないけど、そういう風にやっていきたいなと思います。音源もたくさん残してくれてるし、生きた声もとらせてもらったので、会いたくなったらいつでも会えるやんって思っています。

    (取材後記)
    若い世代にも生き続ける
    深町さんを通じて鮎川さんの歩みを取材をさせていただいた私は、1999年生まれの23歳。パソコン一台で曲を作るほど音楽が好きです。好んで聞くのは、80年代以降に普及していったジャパニーズロック。それよりも前、日本のロックれい明期に当たる70年代から活動してきた鮎川さんの存在は、名前を聞いたことがある程度でした。
    今回、取材をするにあたって、シナロケの曲を繰り返し聞いて感じたのは、ハスキーだけど純粋無垢なシーナさんのボーカルに絡む、鮎川さんが奏でる“ストレートな”ギターの音。鮎川さんの実直な人柄やロックへの魂が存在しているようにも思えました。
    まわりの環境や流行りがどんなに変わっても自分らしく生きていけばよい。鮎川さんの生き様は、そんなメッセージを、私たちの世代にも残してくれたのかもしれません。
     

    住山智洋
    2022年入局の新人記者
    福岡局で経済や文化を取材
    好きなアーティスト“四天王”は、
    B’z、浜田省吾、佐野元春、桑田佳祐。

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